月曜日:初めまして、胡散臭い神様

 セミの鳴き声がちらほらと耳に届く初夏。他愛もない、そして代わり映えのしない一人の放課後。じわじわと体力を奪う太陽は既に傾き、地平線まであと数歩弱と言ったところだろう。やけに広い私有地の雑木林からは、アブラゼミやクマゼミの騒ぎ声ではなくヒグラシの寂しげな歌声が聞こえる。

 田んぼに挟まれたこの狭い畦道あぜみちは、サウナのように蒸し暑い。左右の田んぼに溜まった水が、暑さで湿気に変わっているのだろう。

 人通りも少なく雑木林にも近いこの道を、一人の少年が歩いていた。否、僕のことなのだが。

 一学年二クラスしかない小さな中学校から、重い体を引きずり、僕はに向かっていた。

 隣を農業用のトラクターが走る。狭い道には大きすぎる体をゆっくりと進ませ、僕の隣スレスレを通っていく。トラクターを操縦するおじさんが、小さく舌打ちをしたのが見えた。理由は簡単に分かる。この先には古びた神社しかなく、通行人も少ない。だからトラクターを走らせているのに、といったところだろう。

 そんな視線にもめげず――実際は慣れているだけで、少し傷つきはするのだが――進んでいくと、所々塗装の剥げた朱色の鳥居が見えた。いつもと変わらないその出で立ちに、微かに心が軽くなった。

 いつからだっただろうか。嫌なことがあるとここに来るようになったのは。最近は毎日になったが、昔はそうでもなかった。友達と喧嘩しただとか、お気に入りの筆箱が壊れただとか、そんな下らないことで傷つく度この神社に来て。そして、誰にも知られず泣いていた。

 別に神様を信じている訳でもないし、神社を訪れたところで参拝する訳でもない。ただ、一人静かに頭を冷やすには最適なのだ。だからあの場所を逃げ道にしているのだろう。

 そんなどうでもいいことを考察しながら、二十五段しかない石段を登りきる。二十五段とはいえ登りきると、高い建物などないこの場所からは、町全体が見渡せそうな程見通しがよかった。太陽が地平線に届いているのもしっかりと見える。あんなに明るく輝いていた太陽が、あとは去るだけの夕日に変わるのはなんとも物悲しいものがあった。

「……はぁ」

 ため息と共に腰を下ろした刹那、石段が濡れていることに気付き、もう一度ため息を吐く。またズボンを汚してしまった。……いや、既に汚れているからあまり変わりはないか。

 沈んでいく夕日が頬を照らす。眩しくて目を瞑るが、瞼を通り抜ける光が世界を赤く染めた。普段なら暗いはずの世界が、少し鮮やかに映る。

 何故かそれがとても綺麗に思えて、目頭が熱くなった。なんで僕はこんな寂れた神社に一人で来て、夕日を見て、泣いているんだ。どれもこれも、あのクラスメイトのせいだ。

 一ヶ月ほど前に、とある男子が転校してきた。それが、僕の運命の分岐点。持ち前のコミュニケーション力と都会育ちというこれ以上ない魅力で、すぐにクラスの中心人物になった。そんな人間が「あいつは頭が良いから俺たちを見下してる」などと言った。それだけで僕はクラスから疎外され、俗に言う『いじめられっ子』に成り下がってしまったのだ。

 多分あいつは、自分が優位に立てるなら誰を蹴落としても良かったんだろう。ただそこに、頭が良いという気に食わない特徴を持った僕がいただけで。

 毎日のように隠される上履きや筆箱。廊下を歩けば肩を押され、酷い時には脇腹を思い切り殴られたこともある。それにはさすがに堪えて、ここに来て泣いた。

 なんで僕がこんな惨めな思いをしないといけないんだ。夕日を見て泣かないといけないんだ。それがやけに虚しくて、悲しかった。

 目を開くと、水彩画のような景色が目に入った。滲む茜色を見ていると、また悔しさが込み上げる。

 その時だった。

「ねぇ」

と、声が聞こえたのは。

 慌てて振り返ると、見たことの無い制服を着た女の子が立っていた。いや、女の子というのは失礼だろうか。どう見ても僕よりは歳上だ。いわゆるJK、というやつ。

「泣いてるの?」

 野暮な質問だった。どんな見方をしたところで僕は泣いている。だが初対面の相手にそれを指摘されるのはなんとなくしゃくに障った。

「泣いてなんかない」

 なるべく表情を見られないように顔を背けて答えた。中学一年生にもなって一人で泣いているなんて、恥ずかしいにも程がある。

 しかしさすがにこの嘘はバレバレだろうな、と小さくため息をついた時、背後から驚いた声が聞こえた。

「あれ、ちょっと待って!?」

 何を言っているのかはわからない。何を待つのかもわからない。突然焦りだした声色に、思わず涙が引っ込んだ。

 振り返ると、唖然とした表情の女子高生が立っている。何も変わったところはない。言動以外は。

 訝しげに彼女を眺めていると、彼女は僕をまっすぐ見つめてこう言った。

「私が見えるの……?」

「……は?」

 反射的に素っ頓狂な声が出る。まるで幽霊かのようなセリフに、笑いすらも湧かない。笑わせる気もないのだろうが。

 僕たちの間に沈黙が流れた。その間にも夕日はどんどん沈んでいき、少しずつ境内が暗く静かになっていく。

 およそ一分くらい経った頃、彼女が口を開いた。

「私が見えるんだ……見えてるよね……」

 話しかけた、と言うよりは独り言を言っているように見える。そもそも『見えている』とはどういうことだろうか。見えていて当然だろう。そこにいるのだから。

 もしかしたらこの人は少し変わった人なのかもしれない。となると、あまり関わらない方がいいのかもしれない。早く帰ろう。丁度日も落ちかけていて、帰るにはいい時間だ。 それに、これ以上ここに滞在する理由はない。

 雑に置いていた学生鞄を持ち上げ、おもむろに立ち上がる。背後の女子高生は気にしないことにしよう。

 だが、石段を一段降りた時、後ろから腕を掴まれた。

 ――否、掴もうとした腕が

「……え」

 心臓が早鐘を打つ。蒸し暑い空気買った空気は瞬時に冷え、冷や汗が頬を流れた。足は固まったように動かなくなり、気持ちばかりが焦る。

 あぁ彼女は、本物の幽霊だったのか。ともすれば僕は、彼女を見つけてしまったから死んでしまうのだろうか。

 思えば短い人生だった。ろくに好きな事を見つけることも、好きな事をのびのびとすることも出来なかった。まだ死ぬには早い気がする。

 そんなことを走馬灯のように、そして悠長に考えていると、思いもよらない言葉が掛けられた。

「ご、ごめん! 驚かせて! でも、私が見える人初めてだったから話したくて……」

 逸る心に、その言葉が素直に響く。蒸し暑い空気が戻ってきて、駆けるような心音も元のスピードを取り戻した。氷を溶かされたような不思議な気分になりつつ、僕は振り向いた。

 そこには、少し泣きそうな女の子が立っている。幽霊だとは思えない程感情が豊かで、思わず笑ってしまった。

「幽霊って、死んでるのに泣くの?」

 そう聞くと、次は頬を膨らませて怒っているような表情になる。その姿は僕よりも子供のようだ。

「わ、私はただの幽霊じゃないんですー!! サラッと死んでるとか言わないでよね!」

 その姿意地を張る子供によく似ていて、遂に僕は噴き出してしまった。本当に、幽霊らしくない幽霊だ。

「私はただの幽霊なんかじゃなくて、この神社の神様だよ!」

 そう言って彼女は胸を張る。しかし、到底神様だとは思えない。どこからどう見ても、少し幼い普通の女子高生だ。その証拠に、神様はセーラー服を着ている。

 しかしこれは、多分乗っかっておくべきなのだろう。どうせまた明日ここに来るのなら、少し楽しくなった方がいい。

「そっか。じゃあまた明日ね、胡散臭い神様」

「う、胡散臭くない!!」

 威圧感のない怒声を背に受け、僕は笑いながら石段を降りる。こんなに楽しい気分で家に帰るのは何日ぶりだろうか。小学校ぶりかもしれない。

 幽霊の友達だなんて、初めてだ。いや、まだ友達にすらなってないんだけど。でも、何故か彼女とは友達になれる気がする。それに、彼女が見える人は僕が初めてらしいし、友達になることは双方共にいいかもしれない。どうせ暇で気分の沈む放課後なら、彼女と話して気を紛らわせた方が楽しいだろう。

 紫に染まる空を見上げ、僕は家路を急いだ。また明日、ここへ来るために。

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