六話:現実の中の幻想
目の前には、さっきとは異なる風景が広がっていた。
茶色の屋根の、無駄に威圧感のある洋館。
趣味の悪い鉄柵がぐるりと周りに生え揃い、無秩序に植えられた植物が茂っている。
5年前までここに建っていた彼の家の面影はとうに消された。これも、この洋館の主人のせいだ。
洋館に近づくにつれて、お腹の底の方がずん、と重くなる。この後のことを考えると、どうしても足が止まりそうになる。でも、帰るのが遅くなればもっとひどいことになるのは目に見えていた。
「ただいま戻りました。遅くなり、申し訳ありません」
「……何をしていた」
腕を組みながら、不機嫌そうに問うて来る男。脂ぎった顔に不機嫌面が張り付いているのだから、気持ち悪いことこの上ない。
「少し、遠くまで出かけておりました」
「お前は私の女だ。私に断りなく出かけることが許されるとでも?」
誰がお前の女ですかっ! という声をぐっとこらえ、ただ静かに頭をさげる。
こんな理不尽なやりとりも、いつものことだからもう慣れた。
「———っ!」
突如、腕に不快な感覚を感じて身体が硬直する。
「さあ、帰りが遅くなった罰だ。一緒に来い」
見上げた男の顔には、下卑た笑みが浮かんでいて本能的に身体が抗う。けれど、力比べで敵うはずもなく、ずるずると引きずられていく。
これも、いつものこと。この男が満足するまで、私は淡々と我慢するしかないのだ。
———もう、慣れた。
———この吐き気も、寒気も、怖気も慣れた。
———けれど、もう疲れたな……
ついさっきまでの彼との会話が、今は果てしなく遠いものに感じられて、どうしようもなく寂しい。彼にだけは憐れんでほしくなかったから言わなかったけど、私は人間ですらない。ただの道具扱いなのだ。
そんな昏い自己規定に、何度も繰り返した負の感情に身体から抵抗が失われる。
瞬間、チャイムの音が部屋に鳴り響いた。
「チッ、こんな時間にどこのどいつだ」
悪態をつきながら玄関に向かう男。乱暴に開かれたドアの向こうには———
「こんばんは、桐生と申します」
見慣れた、細面の男性が立っていて。
「あ、何の用だ?」
「えと、そこの女性を攫いにきたのです」
なんでキミがここにいるの?
なんで、キミは来てしまったの?
「そこの女は私の妻だが? それに———」
「ええ、借金ですよね。存じております。いくらですか?」
「元本、利子含めて2300万だが、お前のようなもやしに払えるってのか?」
「ええ、こちらをごらんください」
そう言いながら差し出された小切手には、数え切れないほどのゼロと、一番上の位には5の数字が印字されていて。
「こちらが無理を言ってお願いするのです。多少、色をつけておきましたが如何でしょう?」
「……この女に、そこまでの価値があるとは思えん。お前、何を企んでいる?」
「いえ、何も企んでなどおりませんよ」
詰め寄る男に、苦笑いを浮かべながら答える彼。ただ、と前置きして
「昔にした約束を果たしに来ただけです」
「……ふん、離婚届がなくては、攫うと犯罪になるが」
「こちらに用意しております。借用書と交換にいたしましょう」
「随分、用意がいいんだな。その願い、聞いてやろう。こっちへ来い」
「感謝します」
そう言いがら男の書斎へ向かうキミ。
その背中が、かすかに震えていることに私は気づいてしまった。
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