第8話


 大広場での賢人との論争から、またひと月以上過ぎたある夜のことだった。


 屋敷の馬小屋でサラマンドは身体を休めていた。小屋には馬車を引くための二頭の馬が繋がれている。クレイアからは、以前から屋敷の中で休むように言われているのだが、屋敷内は男一人という気まずさもあり、夜盗が入ると危ないからと言ってここで寝るようにしていた。


 この一帯は富裕層の居住区になっており、この大きな屋敷が特別目立つわけではない。とはいえ館の主が病死しているとなれば、盗みを働こうという者も現れるかもしれない。


 警戒を怠るべきではない。有事に備え準備すること、それもブラハムの戦士の心得だった。


 そのつもりで今夜も休んでいたサラマンドだったが――。


 ふと気配を感じて目を覚ます。


 すぐには起きない。身体はそのままで周囲の状況を探る。


 静寂の中に虫の音が聴こえるだけだが、意識を研ぎ澄ますと、わずかに不規則な音が混じっている。そこに、警戒しながら動く人間の意志を感じた。


 気のせいではなさそうだ。サラマンドは静かに起き上がった。


 今宵は月のない夜。小屋の外の様子を窺うも、漆黒の闇の中に動くものは何もない。が、音がするのはもう疑いようもない。


 わずかに石床を擦る音。音を立てないように歩いていてふと誤って音が出てしまう、そんな音。数は一人。


 追い払うのは簡単だが、次は数をそろえて準備してくるかもしれない。得体の知れない輩に狙われるのは気が休まらないものだ。クレイアにそんな怖い思いはさせたくなかった。


 サラマンドは捕獲することにした。


 小石を手に取り小屋の外へ出る。


 目が慣れてきたのもあってか、星明りに動く影が浮かび上がった。


 頭をすっかり空にして本能のまま忍び寄っていく。音を立てぬようとか、気配を悟られぬようにとか、そんなことは一切考えない。余計な考えは逆に波風を立てるのだ。それも死んだアルブラムの教えだった。


 後ろから一足で跳びつける距離までせまると、前方に小石をふわりと放る。


 がさ、という音と同時に賊の腕を捻りうつ伏せに倒した。


「殺しはしないからおとなしくしろ」


 怒鳴らず、ただ諭すように穏やかに言った。


 賊は後ろを振り向こうとばたばたもがくも、すぐに抵抗をやめた。


「サラマンド……、だな?」


 伏したままの賊が訊いた。聞き覚えのある声だった。


「ハーンか……?」


 突如サラマンドの胸に熱い思いが込み上げる。その返事を待つより早く極めた腕をほどいていた。


「ああ。このびくともしない極められた感触、おまえにしかできないだろ。やっと、やっと会えたぜ」


 捻じられた腕をさすりながら男は立ち上がる。闇に淡く浮かぶその姿は、少しやつれた感じはするものの、まぎれもなく同じブラハム戦士のハーンだった。


 だが、その身につけているものは奴隷の長衣ではない。色など細かくはわからないが、パルティア市民の一般的な羊毛の衣服と思われた。


「おまえ、どうしたんだ? その格好は」

「逃げだしたのさ。ただ肌で南方の人間だとわかっちまうからな。おおっぴらには外を歩けねえ」

「そうか……、ならよかった。あのとき見た様子ではひどい扱いを受けてたみたいだからな。しかしどうしてここへ? 来たのはたまたまか?」

「逃げてから、大広場でおまえを何度か見かけた。乱闘騒ぎもしてたじゃねえか。いろいろ人に訊いたりして屋敷を探してたんだよ」


「なんだ、あれ見ていたのかよ」

 思わずサラマンドは苦笑いする。久しく笑うこともなかったせいか、頬の肉がやけに引きつって感じられた。


「ああ。おまえの百人殺しの腕も衰えちゃいないみたいだな。さっきのは、これっぽっちも気配感じなかったぜ。心の臓が止まるかと思った」

 ハーンはまだ痛いのか手を回したり握ったり開いたりしている。


「本当敵わねえな、おまえには。戦場でもおまえが前線で切り込んでいく姿が、どれほど俺たちの士気を上げたか」


 そしてハーンは思い出したように笑い声を洩らす。


「しかしおまえ、迷いもせず早々にブラハムの剣を投げ捨てて、敵の剣拾ってるんだからなあ。あれには参ったぜ。でも、それに倣ったから俺たちも戦えた。おまえについていけば間違いなかった……」


 ハーンの目には、羨望と期待と、ほんの少しの嫉妬が混じって見えた。


「それでも、最後は負けちまったけどな……。後悔はしてないぜ」


 敵の数が多かった。武具の鋼の強度で負けていた。始めこそブラハム軍が優勢だったが、次第に押され、囲まれ、敗走することになった。


「とにかく、おまえが無事で居場所もわかったとなれば、皆大喜びさ。俺たちはこれでようやく前へ進める」

「皆って、もう会ってるのか? 無事なのか?」


 捕虜として捕えられ、アルブラムが殺されたあの場には八十二名の仲間がいた。


「もちろん全員じゃない。おまえを入れてもまだ十九人だが、五十を越えれば、いけるかもしれない」

「いけるって、何のことだ」

「おいおい、寝ぼけてるのかよ。決まってるだろ。反乱だよ」

「おい、本気か? 誰に対して、どこでやるんだ。このパルティア市民を巻き込む気か?」


「……おまえこそ、それ本気で言ってんのか?」


 ハーンの表情が一変する。


「本気で言ってんのかよ! サラマンド。百人殺しと謳われたおまえが、あんなパルティア女に懐いてんじゃねえよ!」


 サラマンドの胸ぐらをつかみ、ハーンが物凄い剣幕で迫る。


「アルブラムのことを忘れたのかよ! 苦しくても、恥をさらしても生きろってことだろ。なによりおまえを生かすためだろうが! おまえがいれば何とかなる。そしてブラハムのために戦うんだろ! 奴隷たちを解放するんだろ」


 眼前のハーンの顔をまじまじと見つめ、サラマンドは違和感を覚えていた。もともとハーンは皆の言うブラハムの誇りには、やや醒めた態度をとっていたからだ。が、もちろん悪い男ではない。仲間のためには身体を張れる男だった。


「失望させるんじゃねえよ……、本当にさ。がっかりするようなこと言わないでくれよ……。なあ、サラマンド。皆おまえに期待してるんだ」

「わかった……。変なことを言ってすまなかった」


 それを聞いてようやくハーンはつかんでいた手を降ろした。


「ハーン、おまえ逃げてきたって言ったが、行く当てはあるのか? ここの主はブラハム兵に理解がある。おまえのことを話せばかくまってくれると……」

「悪いな、パルティア人の世話になるのはもうごめんなんだ」


 サラマンドに最後まで言わせずハーンは首を振った。


「そうは言ってもおまえの主が探し回っているだろう。捕まったらそれこそどうなるか……」

「大丈夫だ。それはない……」


 きっぱりとハーンは否定した。


「どういうことだ?」

「あいつはさ、本当に最低のゴミみたいな奴だったよ。奴が俺にしたこと、思い出したくもない。怒りで身が震える。だから……」


 拳を握り締めたハーンは思いつめた様子で宙の一点を見つめていた。


「……殺したよ」


 ためらいながらも、そう洩らした。


 サラマンドはハーンを責めるつもりはなかった。ハーンがあの主を殺したとすれば、それだけのことをハーンに対して行ったということだ。


「殺しはしたが金は盗んでねえぞ。ブラハムの誇りに誓ってな」


 そうだろう、とサラマンドは思う。盗んでいればもっといい身なりをして飯も食えているはずだ。やつれたハーンの姿はコソ泥か逃亡者のそれに見える。


「また連絡しにくる。今度は手荒いのはなしだぜ」


 そう言ったハーンはふっきれたように笑って見せ、そしてそのまま闇に消えていった。


 ひとり残されたサラマンドの頭の中では、ハーンの呟いた言葉が繰り返されていた。


 ――だから、殺したよ……。


 戦場で兵を殺すのと、平時に人を殺すこと。行為そのものは同じでも、両者は天と地ほどに違うことだ。悪人だから殺していいということはないし、尊敬に値する高潔な騎士でも戦場であれば殺さなくてはならないのだ。


 戦場でためらえば死ぬのは自分である。敵がどんなに恐れをなしていても、自分がどんなに神懸かり的な強さを発揮しようとも。一瞬の隙で命を落とす、それが戦場だ。


 だから考えないよう必死で頭の片隅に追いやっていたが、殺したくない兵士がいた。きっと今後のパルティアの繁栄を担うであろう者たち。その者たちの命を奪い、一方で大広場のならず者やハーンの主のような人間が残るのだ。


 戦をすればするほど、希有な真の戦士は失われるのだろうか。かといって戦がなければ戦士の誇りは濁ってしまうだろうか。


 反乱を起こす――。サラマンドはまだ判断がつきかねていた。

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