百人殺しのサラマンド
なりた
第1話
白み始めた空に虫の音が響く。薄明かりに目を覚ました子牛が小さく鳴いた。
干し草と糞の臭いが充満した家畜小屋で、起きた子牛の背中を撫でてやる。短い栗毛を指で梳くように何度も撫でると気持ちよさそうな声を上げて身体を揺すった。
牛たちは次々に目を覚まし小屋は賑やかになっていく。小屋を掃除し飼い葉を取り変え、それから一頭ずつ身体の具合を調べていく。この小屋には牛が二十二頭、馬が三頭いた。
それらを一時ほどかけて終えると、もう外は朝焼けに染まっていた。
ここは海に面した崖にある牧草地だ。海風に煽られながら、刻々と色合いを変えてゆく水平線を見つめていた。
朝の空気は少し冷えるが、一仕事を終えた彼の褐色の肌は軽く汗ばむ。男は長身ではあるが細い身体をしていた。たなびく白の長衣は腰を麻縄で結んだだけの簡素なものだが、汗を乾かしサラサラと皮膚とこすれる感触は気持ちの良いものだった。
水平線の一点が強く輝きを増し、眩しい陽の光が目に飛び込んでくる。
その景色は悔しいほどに美しかった。
彼の故郷では決して見ることのできない海からの日の出だった。
白長衣の若者は時間を忘れて見惚れていたが、突如足首に感じた激痛で近くにあった樽に腰掛ける。案の定出血していた。塞がりかけた傷口が再び開いたのだ。飼い葉を運ぶのに踏ん張り過ぎたか、掃除で屈んだときに伸ばされたのが悪かったか。包帯をきつめに縛って処置をする。痛みは幾分ましになった。
しばらくすると数人の男たちがやってきた。このあと牧場の仕事を引き継ぐことになっているのだ。
「よお、兄さん。まだ足が痛むのかい」
「いえ、仕事には問題ありません。掃除は終わっています」
立ち上がって男に答える。
そして家畜小屋で牛たちの体の状態を伝える。
「兄さんが来てからこいつらの食べる量が増えてるんだよ。気のせいじゃないと思うんだよなあ」
そう言いながら立てかけてあった角材を持つと、近くの牛の尻を軽く叩く。
「……」
彼らは牛馬が粗相をするとその棒で思い切り叩くのだ。そうやって躾けるのだと言っていた。
牛にも馬にも心がある。若者の故郷では、言うことを聞かなければ怒鳴りこそすれ、棒で叩くなど思いもつかないことだ。人と対等ではもちろんないが、彼らは人間の生活を手伝ってくれる友のようなものだからだ。
「ああ……、こいつはやっぱりダメかなあ」
男たちが小屋の隅に集まってくる。一頭だけまだ寝ている牛がいた。
「昨夜もずっと腹をさすってやったのですが、一向に具合が良くなりません」
「ここのところほとんど食べないんだ。あんたのせいじゃないさ」
「食事もそうですが、便がまったく出ていません。おそらくは腸が詰まっているのではないかと」
「そこまでわかるのかい」
「ええ、それで背や腹をさすってやったのですがそれでだめとなると……」
男たちは顔を見合わせた。
「死んじまうか……。もったいないがこれも……」
「いえ、尻から直接腸を刺激してやればよいのです」
「なに? 尻から? そ、そうか、じゃあ細い棒か何かで……」
男たちは慌てふためき何か道具を探し始める。
「駄目です! それでは腸が傷つく!」
皆驚いて足を止めた。この若者が来てからこんな強い口調は初めて聞いたからだ。問答無用で身体を硬直させる、只者ならぬ気迫があった。
「私がやります。よく見ていて下さい」
若者は右の指先を細く束ねると、躊躇なく牛の尻に手を突っ込んだ。牛は悲鳴を上げたが構わず続ける。すぐに肘近くまで埋まってしまった。
数人が揶揄し笑い声を上げたが、男は真剣な表情で何かを探っている様子だった。その指先の感触を周りの男たちにつぶさに伝える。
やがて笑う者はいなくなった。皆黙してそれを見守った。
男が腕を勢いよく引き抜くと、すぐに牛は身体を震わせ立ち上がろうとする、次の瞬間、辺り一面に便を撒き散らした。
男は頭から糞まみれになってしまったが、その牛は大量の便を出し尽くし大きく身体を揺らしたかと思うと、猛然と飼い葉を食べ始めた。
男たちからは感嘆のため息が漏れた。服が汚れているにも関わらず男たちは駆け寄り、肩を揺すり背中を叩いて喜んだ。
「たしたもんだ。ブラハム人の男は違うな」
「優れた知識と経験だ。今度ぜひ詳しく教えてくれ」
ブラハム人。長身の白長衣の若者のことである。
「あんた、このあと屋敷に行くんだろう。さすがにその格好のままでは行かせられないな」
改めて若者の汚れた衣装を見て大笑いする。
「服を洗ってやるからさっさと脱ぎな。そんで水を浴びてこい」
「どうしてそこまで……」
「おまえさんは、あの方が選んだ男だからな。あの方の人を見る目は間違いない。だからあんたは悪いやつじゃない」
服を脱ぐと若者は細身ながらも鍛え抜かれた身体をしていた。その褐色の肌には
古傷であろう白いスジがいくつもつけられていた。
男の名はサラマンド。かつてはブラハムの戦士であった者。
今は、敵国パルティアの富裕民に買われた一人の奴隷である――。
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