6
まだなにか? と言う風に、父がこちらを振り返ってきた。
その眉間には、やはり深いしわが刻まれている。
「あ、あの、私……っ」
確かに、質問はなにもない。訊きたいことも、知りたいことも。
でも、ここで終わりにしちゃダメだ。
私の言いたいことは、話さなくちゃいけないことは、きっとまだ、終わっていない。
「私……っ」
ぐちゃぐちゃと、ごちゃごちゃと、形容しがたい想いが胸の内をめぐる。
改めて知った話は、私が思っていたものよりも重たく、どうすることも出来ない虚しさだけが残った。それをなんて言葉にすればいいのかがわからない。吐きだしたいと思うのに、形になって口から出てくれない。
父は悪くない? いや、きっとそう言っても父はそれを認めない。私だってそうだった。
誰かになにかを言われてもそれを励ましと受け取れる人は多分、そう数多くいない。結局のところ、痛い想いは痛い目にあった人達にしかわからない。
たとえば、
私が、自分の絵を人前に出すことができなくなってしまったときのように、
銅宮先輩という人が悩みを持っていたことに気づけなかったように、
高島くん達が、これまで浴びてきた非難の言葉に感じていることを知れないように、
それは当事者にしかわからない。第三者の人達には一生きっとわからない。
ただそれでも、わかりたいと思う。知りたいと思う。
そう思える自分がいる。
そして、それは多分きっと、間違いではない。
もし正しくなくっても、それでも間違っているわけじゃない――。
「私っ、もっと、自分の絵、好きになりたいっ!」
私の突拍子もない言葉に、父が目を丸くする。
ぽかんとし口を開けて、は? とそのまま固まる。
「お父さんが、私が絵を描くのを反対してもっ! お母さんみたいねって言われても! 私、自分の絵を描きたい!」
口にしながら、なにを言っているのだろう、と頭の中で冷静に考える。
こんなことを言われたって父は困るだけだろう。そもそも、もし父が本当に、母のようになるのを恐れて、私に絵を描かせたくないと思っているのなら、この宣言は父の怒りを買うには充分なものになるだろう。
でも、伝えておきたかった。
どうしても、この胸の内にあるなにかを。父に。
「今はまだ、自分の絵なんてわからないし、自信だってない。でも、だから私、絵を描きたい。自分だけの絵を描きたいっ。お母さんみたいな絵を描いてしまうのは、どうしようもないかもしれない。でも、だったら、それも全部受け継いで、それで、その上で、自分だけが描けるものを描きたい!」
私がお母さんの子供であることは変わらない。だからきっと、これから絵を描き続ける時、その存在はずっと私の絵の片隅に残り続けるだろう。
けど、でも、その上で、自分が描けるものを描きたい。だってこれは、私が唯一、お母さんから受け継いだものだから。
(正直、お母さんのことを好きかって言われたらまだわからない)
でも、私にとってはそうじゃなくても、父には大事な人だった。
父の大事な人、その間に生まれた私。それを私は受け継いでいきたい。
『自分、の、好きなもの、を、受け継ぐんだ。自分の、好きなもの、を作る、ために』
私の話を聞いてくれた彼が、そう、言ってくれたように――。
「いつか、お母さんだけじゃない、私の絵だって、そう思える絵を描くから……!」
だから、とそこで言葉が止まる。
そこから先を、なんて言えばいいのかわからなかった。でも、まだ胸の内に渦巻く気持ちはまだ収まっていない。
ぐるぐるとした気持ちを携えたまま、父を見返す。ああきっと、今の自分の顔は見るに堪えないものになっているんだろうな。それでも揺れる視界の中、目の前の父を、父の目を、まっすぐに見つめ返す。
そんな私を、父も見つめ返している。驚いたような顔で。
けれど、次の瞬間、その顔から表情が消える。私の言葉がそこで終わりだと悟ったのか、そのまま踵を返し、再び体育館を出て行こうとする。
その光景に、重たい絶望が胸の中を襲う。
(ああ、やっぱり、私なんかの言葉じゃ、父には届かなかったのだろうか――……)
そう思ったとき、だった。
「…………頑張りなさい」
「!」
小さな、言葉が耳の中に飛び込んでくる。それは、今朝、一度耳にしたあの言葉。
あのときと同じ、小さくも、確かな気持ちの含んだ言葉――。
「うん……っ」
頑張る。私、頑張る……!
父の言葉になんども大きく頷き返す。
父は振り返ることなく、そのまま体育館を出ていく。
なんとなく、その背中はいつものようなくたびれたものとは違う、力のこもった背中に見えた気がした。
*******
古賀さん、とうしろから声をかけられた。驚いて振り返れば、高島君がそこに立っていた。
「た、高島くん……⁉」
いつのまにここに⁉
というより、まさか今の会話、聞かれて……⁉
「あの、その、さっき、のはです、ね⁉」
「さっき、の?」
高島くんが首を傾げる。なにそれ? というその様子に、こちらもキョトンとしてしまう。
あれ? もしかして、全然聞かれてない……?
「荷物……、片付け、終わった、から……。呼びにきた、んだけ、ど……」
どうやら、車への荷物の運び入れが終わったので、呼びにきてくれたらしい。
あっ、う、うんっ、わかった、今行く! とあわてて返しながら、ホッと胸をなでおろす。よかった。本当になにも聞かれてないみたい。
(別に、隠すことはないのかもしれないけど、でも、あなたが探していたロックの神様は、実は私のお父さんでした、なんて、どんな顔して言えばいいのか……)
しかも、その本人が、このライブにいたる事件のきっかけを起こした人で、その上、今はもうギターをやるつもりはない、だなんて……。
(言えるはずがない)
がっくりと肩を落とす。先を歩こうとしていた高島君が、どうした、の? と尋ねてくる。なんでもないっ、とハッと首を横にふって、私も彼の後を追って歩きだした。
(……多分きっと、父が軽音部のことを教頭先生に言ったのは、私のせいなのだろう)
高島くんの横を歩きながら考える。
娘が軽音部と関わった。それが父には不安要素となったのだ。そこに、まさか当時の自分と母のような関わりがあったなんてことは思いもつかなかったのだろうけど、それでも、過去のことがある父は、なんとしても私と軽音部を切り離したかった。
けれど、そこに私が自分から飛び込んでいった。
そして、軽音部には、かつて自分が音楽を教えてしまった彼がいた――。
その光景を見て、父がなにを思ったのかは私にはわからない。けど、それでも、父の中にあったなにかを動かしたのは多分確かだ。
だから、このライブを提案してくれたのだ。きっと。
「お、来た来た!」
「はあ、やっと戻ってきましたか」
戻ってきた私達に斎藤さん達が声をかけてくれる。
ステージの淵に腰をかけながらこちらに手を振ってくる斎藤さんに、手を小さく振り返しながら二人の下へと駆け寄った――高島くんは相変わらずのんびり歩いていたけど――。
「すみません。結局、全然手伝わない形になってしまって……」
「いいって、いいって。それより、まなみん。このあと、どうする?」
「? このあと、ですか?」
首をかしげると、そう、と斎藤さんが頷き返してくる。斎藤さんの話によると、彼らはこのまま学校をあとにしてスタジオに向かうらしい。プロジェクター機も返さないとだしなぁ、とのこと。
高島くんも、そちらについていくそうだ。どうせ、クラス行って、も、HRだけ、でしょ……、とめんどくさそうに頭を掻きながら、高島くんはそう言った。
「古賀さん、も、こっち、来る……? 席は、あいてる、よ?」
「うーん、私はクラスの方に出ようかな」
確かにどうせ向かってもHRがあるぐらいだろうし、今から行っても、ほとんど終わっているかもしれない。でも、配布物があるかもだし、なにか重要な話があった場合は大変だ。
高島くんがいないなら、なおさら、私が二人分聞いておいた方がいいだろう。
そっか、と高島くんが頷く。が、なぜか、しょんぼりとした風にその背中が曲がる。
どうしたんだろうと首をかしげれば、フられてやんのー、と斎藤さんがケラケラと笑った。掛石くんがそんな斎藤さんをステージの上から蹴落とした。
「とりあえず、次の練習云々は、また改めて後日だな。あのPurpleバアサンからも、負け惜しみの言葉貰いにこないとだし」
「首洗って待っとけ、ど腐れ基地外ババァって、伝えといてください」
いや、それはさすがにまずいからね? と斎藤さんが返す。斎藤さんには言ってません、とツンとした様子でそっぽを向く掛石くんに苦笑しながら、わかりました、と返事をする。
(本当、色んなことがあった一か月、だったなぁ)
東京に来た日。自分を窮地から助けてくれた人が実は隣の席のクラスメイトで、その彼が実はバンドマンで、しかもその彼のバンドのCDジャケットを描くことになって。
他にも、苦手だったはずのバイト先の先輩と仲良くなったり、まさか教師相手に自分が反抗したり、今まで知らなかった父と母のことを知ったり――。
本当、驚くほどに色んなことがあった。
長かった一か月。でもこうして振り返るとひどく短く感じる。
まるで、あのライブのように。たった一瞬のあわい夢だったかのように――。
あ、とふいに忘れかけていたことを思いだした。
「す、すみません、あの、帰る前に一つ、皆さんに確認してもらいたいものが……」
確認? と三人がいっせいに、不思議そうな顔でこちらに振り返ってくる。デジャブを感じる光景だ。
でもあの時とは違って、くすりと小さな笑いがこぼれそうになる。
そんな三人を見返しながら、はい、と私は力強く頷き返した。
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