5
「お父さん……」
なんて言えばいいのか、わからなかった。言葉が続かずに、どうしようもない想いだけが静かに空中で霧散する。
……ずっと、嫌われていると思っていた。
私のせいで母が死んだのだと、私が絵を描くのを嫌うのも、母に似てきている私の姿が憎かったからだと、そう思っていた。
でも違った。
父はずっと後悔してきたのだ。自分のせいで、母が亡くなったことを。
執拗にロックだけを嫌ったのは、母への罪滅ぼし。己の過去への後悔の現れ。私が絵を描くのを嫌うのは母を思い出すから。
多分、父は怖かったのだ。私が絵を描くことで、母と同じ道を歩むことになる可能性があることが。
ぎゅっと父の眉間のしわが、よりいっそう深くなる。暗闇の向こうにある風景を睨みつけるかのように――。
『古賀さん、って、考えことしたり、困ると、眉間にしわ、寄る、よね……ぎゅっ、て……』
よみがえってきたその言葉に、ハッとする。
(もしかして、お父さんが眉間にしわを寄せてるのって、なにかを考えてる時――……?)
怒ってるんじゃなく、あきれてるわけでもなく、どうすればいいのかを悩んでいるだけ。今のようにどう言葉を続ければいいのかを、自分の子供にどう対応すればいいのかを、返事をすればいいのかを、考えて、悩んでいる。
(よく考えてみれば、お父さんは今まで男手一つで私を育ててきたんだ……)
自分の子とは言え、性別の違う子供で、しかも全くもって初めての子育て。わからないことはいっぱいあるはずだ。
不安で、怖くて、それでも自分が育てなければいけない。自分がやらなければ、誰がその子供を育てるというのだろう――。
(お父さんは、私のことを嫌っていたわけじゃ、なかったんだ)
むしろ、私のことを考えていた。だから悩んでいた。そうして眉間にしわをよせる。私がそうしてしまうように。……ううん。
私のように、じゃない。私が父のようにしているんだ。
娘だから。お父さんの、家族だから。
「……あの少年に会った時、ギターを持っていたのは、たまたま、としか言いようがない。あの日、俺は本当なら、あのギターを売りに行くつもりだったんだ」
都内で行われる教育関係の研究発表会。それが父が出張した理由だった。
ギターを持って行くことにしたのもまた、たまたまだった。東京に行く荷物をまとめているとき、ふとタンスの奥深くにしまってあるギターの存在が目についた。もう一生弾くことはないだろうギターを、どうせならあの頃夢を追っていた場所で売ってしまおうと、父は考えたのだという。
あの頃は、最先端をやるなら『東京』というイメージがあったからな、と父が苦笑気味に、かつて東京にいたことを教えてくれた。
研究発表会自体はなにごともなく終わった。だがその帰り道、父は当時のバンドメンバーの一人と再会した。
父と同じ大学で、これまた父と同じ学部――教育学部を卒業した彼は、バンド解散後、これまた父と同じように教師となっていた。そして、その彼こそが、高島くんの中学校で説明会をする予定の教師だった。
「昔のよしみ、というわけではないが、流れで車でその学校まで送ることになってな。教員ならではの愚痴やら、なんやら久しぶりに色々話したよ。……もちろん、バンドの話もな。俺は中途半端に投げ捨てたからな。あのあと、奴らがどうなったのかは全く知らなかった」
その教師の話によれば、残りのメンバーもそれぞれに職を見つけて仕事をしている、という話だった。中には、他のバンドに移ったりして、そのまま音楽を続けている人もいるらしい。
高島くんの話もそのときに耳にしたそうだ。一人、変わった三年の生徒がいて、進路希望どころか、まともにクラスに顔すら出していない問題児。どの先生達も手を焼いているらしい、という話で、そのときはまだ、名前も風貌も父は知らなかった。
「もうギターはやらないのかと訊かれもした。やらない、ときっぱりと返した。……だが、まさかその数十分後に、それを破る羽目になるとは思わなかった」
彼を送ったのち、楽器屋に父は向かおうとした。が、車のエンジンをかけようとしたそのとき、ギターの音がその耳に届いた。
「アンプにすら繋いでいない、ちゃっちな音だった。今でも、よくあれが聞こえたもんだと思う。……だが、もしかしたら、あれは聞こえたんじゃなく、聞いたのかもしれないな。長年、俺自身は忘れていた音を、多分きっと耳は覚えていたんだろう」
音質を除いても、お世辞にも上手いとは言えない旋律。ただ義務的に鳴らされてるだけの虚しいほどに、細いギターの音。
けれど、そこに迷いはなかった。ギターを弾くことへの、こんなところで一人で弾き続けることに対しての迷いはなかった。ただひたすらに弾き続ける。
弾きたいから弾き続けている。どんな惨めな音でも。そんな姿勢のにじみ出る音だった。
気がつけば、父はギターを手に音がする方へと駆けだしていた。どうしてそのような衝動にかられたのか、自分でもわかっていなかった。
けれど、この音は、この音楽をそのままにしてはいけないと思った。
それだけは確かだった。
「……奴にはすぐにバレて、のちのちっぴどく叱られたがな。まあ、逃げた俺の代わりに他の教員達に謝ってくれたようだし、俺も悪いことをしたと思っている。昔から、へっぴり腰気味なせいか、謝るのは得意な奴だった。それは、お前らを持つようになってもになっても、どうやら変わっちゃいないようだったがな」
全く、と父が溜息をつきながら額に手をやる。
って、待った、待った、今、凄いこと言われなかった?
(私達を持つようになってって――……。ま、まさか、父のバンドメンバーって……)
頬が引きつりかける。そんな私の様子に気づいた父が、ニヤリとその口元を持ち
げた。
まるで、イタズラ成功したかのような、見たこともないまでに、楽しい悪意に満ちた笑みが父の顔に浮かぶ。
「まあ、その話は今は置いておこう。それに、俺もまさか、そのときの少年が奴の学校に入学したとは思わなかったからな。生徒の中に例の少年がいる、しかも俺をここの教員だと思って探している、とアイツから連絡を受けたときには、さすがに言葉が出なかった。ロックの神様、だなんて大層な呼び名までつけて。全く、音楽に関わると、いつもややこしいことばかりが起こる」
だがしかし、と父は頭をかいた。
「だからと言って、最初はこちらの学校に来るつもりはなかった。その少年が勘違いをしてしまったことは申し訳ないと思うが、しかし、音楽をやるつもりは一切ない。あの時はたまたま衝動的にやってしまったが、だからと言って一度決意したそれを折るつもりはなかった。だが、それじゃ無責任じゃないのか、と奴は言ってきた。バンドマンとしてはそれでもいいかもしれない、だが、今のお前は教員だ。学生に夢を持たせた責任は取るべきじゃないのかってな。まさかアイツがそんな風に強い物言いをするなんて、思わなかったから驚かされたさ。……まあ、十年以上離れていたんだ。人のさまぐらい変わるか」
変われずにいるのは俺だけだな――そう言って、父が肩をすくめた。
そうして、私の方をまっすぐに見返すと、教壇に立つときのような無表情顔に戻った。
「以上だ。何か質問はあるか?」
「…………ない……です」
衝撃はいくつもある。けど、疑問は全て解けた。
そうか、と私の言葉に父が頷く。踵を返すと、そのまま再び体育館を出て行こうとする。
まるで生徒からの質疑応答が終わったあとの、もう用件は終わったと去っていく教師のように、なにも言わずにその場から足早に去っていく――。
その時。
その姿に、どんどんとまるでいつものように離れていく背中に、私の中のなにかがざわつくのを感じた。
「お、お父さんッ!」
父の足が止まった。
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