第2話 幼馴染で先生で
とはいえ、たもっちゃんを好きな気持ちがかわるわけでもなく……私は一時間目が始まるころにはそんなことはすっかり忘れて、黒板の前に立つたもっちゃんの姿に見惚れていた。
すらりと長い脚、ニッコリと笑ったときに見えるえくぼ、目の下にあるほくろ、うっすらと茶色がかった髪の毛、落ち着いた態度、同級生とは違う少し低めの声、どれをとってもカッコいい。
でも、そんな上辺だけでたもっちゃんのことを好きになったわけじゃない。幼馴染だから知っている、先生じゃないたもっちゃんの姿。
泣いている私を慰めてくれたり、落ち込んでいたら笑わせてくれたり、お姉ちゃんの作ったケーキを二人でつまみ食いして怒られたり……。
どれも私にとって宝物みたいに大切な思い出で、これからもこういう思い出を作っていきたいと思っている。……その時に隣にいる私が幼馴染じゃなくて、恋人としてだったら幸せなんだけど……。
「んじゃ、次は新庄な」
そんなことを思いながらたもっちゃんのことをボーっと見ていると、突然私の名前が呼ばれた。
「……え、私?」
「お前以外にこのクラスに新庄はいないなー。どうした? まだ寝てるのか?」
「寝てないです!」
慌てて立ち上がると、私は黒板の前に向かった。
黒板には数学の問題が書かれている。
「応用問題だからなー。解けるかな?」
たもっちゃんはどうだ、と言わんばかりに笑っている。
……去年までの私なら、こんな時焦って泣きそうになっていたけれど――。
「出来ました」
「お、正解。難しいところだったのに、よく解けたな」
私の書いた式と答えにチョークで花丸をつけると、たもっちゃんは私の頭を撫でた。
「っ……」
その態度に、一瞬たもっちゃんを避けていたことなんて忘れてしまう……。
少しごつくて、大きな、大人の男の人の手。
「っ――! せ、先生! それ、セクハラですよ!」
「お、おお? なんだー? 反抗期か?」
その言葉にみんなは笑うけれど、私はそれどころじゃない。
たもっちゃんの手を払いのけると真っ赤になった顔を隠しながら、私は自分の席に向かった。
ズルいなぁ、ああいうこと誰にでもさらりとしちゃうんだもん。
私の次に当てられたクラスメイトが同じように頭を撫でられるのを見ると……胸が痛むのを感じた。
みんなに平等な藤原先生は校内でも大人気だ。けれど、そんなたもっちゃんの姿を見るたびに、私の幼馴染ではなくて、みんなの先生になったたもっちゃんの姿を見るたびに、切なくなる。
ほんの少しだけ特別扱いしてほしい、そんな思いをこの学校に入学してから、ずっと抱えていた……。
チャイムが鳴って、たもっちゃんが教室を出て行く。
数学の授業が終わったから、帰りのホームルームまでたもっちゃんがこの教室に戻ってくることはない。
「はあぁ……」
いつもなら幸せなはずの数学の時間なのに……余計なことを考えていたせいで気持ちが晴れない。
「溜息なんかついちゃってどうしたの」
「
音楽の教科書を持った美咲が、次の授業の準備をすることなく机の上に突っ伏していた私に声をかけた。
「次、移動だよ? 早くしないと後ろの席取られちゃうよ」
「ちょっと待って……!」
「置いてくよー」
慌てて机の中から音楽の教科書を取り出すと、教室のドアのところで待つ美咲の元へと向かう。
……そういえば。
「ねえ、美咲。ゆきちゃんは?」
「あれ? いないね。先行っちゃったのかな」
いつも一緒に行っているはずのゆきちゃんの姿は教室にはもうなくて……。
何も聞いていなかった私は、どうしたらいいか悩んでしまう。
「どうする? 先行く?」
「うーん、でもトイレ行ってるとかなら待っててあげた方がいいよね」
「じゃあもうちょっと待って、それでも来ないようなら先に行こうか」
置いていくのも気になるし……。私たちは教室の前でゆきちゃんが戻ってくるのを待つことにした。
「……遅いね」
しばらく待ったけれど、ゆきちゃんは帰って来ない。移動しなければいけないことを考えると、そろそろ待つのも限界かもしれない。
「やっぱり先行ったんじゃない?」
「そうかな……。あっ! ゆきちゃん!」
パタパタパタという音が聞こえたかと思うと、ゆきちゃんが走ってくるのが見えた。
「ゆきちゃん、遅いよ!」
「次音楽だよー!」
「ご、ごめん! すぐ準備してくる!」
教室に飛び込むと、ゆきちゃんは音楽の準備を持って私たちの元へと戻ってくる。
「ごめんね、ホント……」
「いいって、それより急ごう!」
私たちは出来るだけ早足で……ちょっぴり走りながら音楽室へと向かった。
「……で、どこに行ってたの?」
「え?」
「さっき、どこかに行ってたんじゃないの?」
後ろの席は取れなかったものの、廊下寄りの真ん中に三人並んで席に座れた私たちは、先生に聞こえないように小さな声でゆきちゃんに尋ねた。
「あーそれなんだけど……」
ゆきちゃんは私の顔を見て、一瞬迷ったような表情を見せた後……小さな声で言った。
「あのね、A組の友達に呼び出されてたの」
「A組? なんで?」
美咲が不思議そうに言う。でも、私はA組という単語に、朝の話が頭の中をよぎって……心臓の音が大きくなるのを感じた。
そんな私の反応に、ゆきちゃんは小さく頷いた。
「なに? 美優は知ってるの?」
「し、ってるような……知らないような……」
「どういうこと?」
自分だけ仲間外れにされたと思ったのか、少し不機嫌そうな声をあげる美咲を見て……私はゆきちゃんに大丈夫だよと伝えた。
「――あのね、美優には朝会った時に言ったんだけどね、A組に美優のことを好きな男の子がいるんだって」
「……へー!! 美優を!」
「っ……美咲! 声大きい!」
何事かと周りにいたクラスメイト達が一斉に振り返る。――ピアノを弾いていた先生には聞こえてなかったようで、音色が鳴りやむことがなかったのがせめてもの救いだった。
「ごめん、ごめん。で、誰なの? その美優を好きな男子って」
「知らないよ。そういう話があるって私は聞いただけだもん」
楽しそうに美咲は聞いてくるけれど、そんなの私が知りたい。私だって、ゆきちゃんからそういう人がいるって話を聞いただけなんだから。
「で、それとさっきゆきちゃんがどっか行ってたのって関係があるの?」
「うん、その……美優を好きだっていう男の子から呼び出されてたの」
「はぁっ!?」
「……新庄さん? どうかしましたか?」
「す、すみません……!」
思わず声を上げた私を、ピアノを弾く手を止めて先生が睨んだ。……美咲の時は聞こえてなかったのに、私の声は先生のところまでばっちり聞こえていたようだ……。
でも、今の私は先生に怒られたぐらいどうってことなかった。それよりも――。
「呼び出されたってどういうこと!? なんでゆきちゃんを!?」
「A組の友達が、美優の友達と仲がいいってその子に言ったら、じゃあ伝えてもらおうかなってなったらしいよ」
「だからって、呼びだすなんて……」
と、いうかそんな回りくどいことをしなくても、呼びだすなら私を呼びだせばいいんじゃないの? どうしてわざわざゆきちゃんを……。
「自分が直接C組に行くと目立っちゃうからって」
確かに……ネクタイの色が違うA組の生徒がわざわざ普通クラスまで来て、女の子を呼び出したりなんかしたら――その日のうちに学年全員が知っている事態になりかねない。
「それで?」
事情なんてどうでもいいといった態度で、美咲が先を促す。実は、私も気になっていた。ゆきちゃんが呼び出された理由は、もしかして――。
「……今日の放課後、理科室に来てください。だって」
「っ……!!」
「おおお! 告白!? 告白かな? 告白だよね! 凄いじゃん、美優!」
「ま、まだそうだと決まったわけじゃあ……」
「好きだって噂の男が女の子を呼びだして、告白じゃなかったとしたら、いったい何話すのよ」
「それは、わかんないけど……」
ドクンドクンと、心臓の音がうるさいぐらい大きく鳴り響いている。顔も熱くなってきたから、きっと赤くなっているに違いない。
どうしよう……ゆきちゃんから聞いたことが頭の中をぐるぐるして、まともに考えることができない。
「はー、でも美優にA組の彼氏ができるのかー」
「彼氏!? つ、付き合わないよ! 私!」
「え、なんで? 美優って彼氏いたっけ?」
「いないけど……」
「じゃあ、断る理由なくない? 好きな人いないっていってたじゃん」
私がたもっちゃんのことを好きなことを知らない美咲は、不思議そうに言う。
なんて言ったらいいんだろう……。悩む私に、ゆきちゃんが助け船を出してくれた。
「好きな人がいなくても、好きじゃない人と付き合うかどうかは別じゃないかな?」
「えー? でも、付き合っていくうちに好きになることだってあるよ?」
「美咲ちゃんはそうでも、美優がそう思うかは別でしょ?」
「そんなもんかなー」
「そんなもんだよ」
いまいち納得していない様子だったけれど、それ以上何か言ってくることはなかった。
好きな相手はいない、美咲にはそう言っていた。なぜなら――美咲もたもっちゃんのことを好きだったから。
それを知ったのは、三人でお泊り会をした日のこと。相談したいことがある、なんて言うから何かと思ったら「藤原先生のことを好きになっちゃった」と小さな声で美咲は言った。
普段はしっかりもので、頼られることが多い美咲が、泣きそうな顔でそう言ったから……私は自分の気持ちを伝えることができなかった。
私の気持ちを知っていたゆきちゃんからは、早く美咲にも言った方がいいと思うと言われたけど……。
「美優」
しばらくして、ゆきちゃんが私の名前を呼んだ。
「ごめんね」
「ううん……」
「あと、これ」
ゆきちゃんは小さく畳んだメモを私の教科書の上に乗せた。
そこには、“2-A
桜井貴臣君……。聞いたことがあるような気がする。でも、どんな顔だったかまでは思い出せない。
「あとね……」
「え?」
チラッと美咲の方を見た後で、ゆきちゃんは聞こえないように小さな声で言った。
「やっぱり、美咲に言った方がいいと思うよ」
「……うん」
「隠されてたって知ったら、いい気はしないと思うし……」
「分かってる……けど」
「……ごめん、余計なこと言って」
「ううん、私こそごめんね」
ゆきちゃんの言うことが正しいのは分かっている。でも、あの涙を見ちゃったら……どうしても言えなくて……。いっそのこと、違う人を好きになれたら楽なのに……。
手の中のメモに視線を移す。
桜井貴臣君、か……。どんな人だろう。
私のことを好きだと言ってくれるこの人を好きになれたら……。そう思うけれど……どうしても思い浮かべてしまうのはたもっちゃんの姿で……。
「っ……」
ぐちゃぐちゃになった感情をぶつけるかのように……私は、手の中のメモをギュッと握りしめた。
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