「亜麻色の髪の少女」

康 忠功

「亜麻色の髪の少女」

「亜麻色の髪の少女」


 素朴な印象の少女がいた。顔立ちは綺麗ながら童顔で、背はあまり高くなく、胸はほどほどに膨らんでいた。その素朴な性格には、クラスの友達が好んで悩みを打ち明けた。これといって確信的なことを言うわけではなく、それとなく、何気ない風に応対し、それに友人らは満足して少女を尚好んだ。

 少女の一番の特徴はその亜麻色の髪だった。あらゆる部分で自分に自信の無い彼女だったが、その絹のような触れ心地の髪にだけはプライドを持っていたらしい。


 当たり障りのない人生を送ってきた少女は、十五の秋に、人生の難関に直面した。父親が急病で亡くなったのである。初めて親族が亡くなってしまったのが自分の父親であったから、センチメンタルは深く少女に突き刺さった。気に病み、毎日夜な夜なせせり泣く日々を送る少女だが、最もな問題はそのセンチメンタルではなかった。

 父親がいなくなったことで、家計が厳しくなったのである。少女は細かい事情を知る知識を備えていなかった。だが、借金という重いものを家族が背中に担がなければならなくなったという事は、砕かれた母親の言葉で少女に伝わった。

 切り詰めた生活がはじまった。朝の飯は無く、夜も主には原価の安い麺であった。空腹で寝れない日が気になった。生理がくると更にいらいらした。それでも少女はそれに耐えた。唯一昼の給食はご馳走だったから、給食はすがるように食らった。「まずい。コンビニの方がおいしい」と言って鍋に捨てられたシチューなどを、少女はお代わりした。捨てた、女の子に人気のあの背の高い男の子に、人知れぬ恨みを目で射抜いたことは、少女の他に誰も知らなかった。


 少女には親友がいた。親友は少女とは真逆の性格で、アウトドアで明るかった。友達も多かった。しかし少女も親友も、主には二人で関わることを好んだ。居心地が良かったのである。

 ある日、テストの近い教室では、少女とその親友だけだった。窓からは山が見え、その山の頂に橙色の太陽が煌めいている。窓から差し込むオレンジは、床と机を反射して部屋を赤らめた。

 少女と親友は窓の横に座り、一つの机を挟んで、とくに何をするわけでもなく、だらだら話していた。

 たまたま会話の中で、少女が「そのリストバンド、かわいいよね」と親友のリストバンドに触れた。

 すると親友は「ああぁ」とたじろいだ。

 鋭い少女は親友の落ち着きに違和感を感じた。しかし検討もつかないので、「どうしたの?」と聞いた。 親友は黙った。しばらくするとリストバンドをつまんだ

「私、これまだ誰にも見せてないんだけどね」

 そういってリストバンドを外すと、赤いかさぶたの線が縞模様に何本かあった。少女は戦慄した。優しい彼女だったので、すぐに事情を訪ねた。

「なにかあったの?」

「なにかって、私にも色々あるよ」

 この前、彼女のカッターを借りた時に、少女は多少の黒味があったことを思いだした。鼻血かなにかが付着したのかと深く考えなかったその時だったが、妙な雰囲気と、親友の腑に落ちないリアクションから、若干の印象が少女に残っていた。

「なんかあったら相談にのるからね」少女が言うと、

「血を見てるとね。血を見てるとね。水族館で、じーっとゆらめくクラゲを見ているような、そういう気持ちなれるの」と親友は手首を眺めて呟いた。


 少女はその会話を思い出しながら、暗い路地を歩いていた。街灯が少女を照らすと、薄い影が二つ重なり、消えて、現れて、重なっていた。肌寒くなりはじめたか、と冬を予感すると、強い風が吹いた。スカートが風に攫われるから、すぐにふとももの間を手で抑えた。落ち葉が舞っていた。


 家のドアを開けると、なにやらうるさい電子音が鳴り響いていた。リビングに向かうドアを開けると、そこは荒れていた。タンスは倒れ、中身が散乱している。机も椅子も倒れている。深紅のカーテンは千切れていた。うるさい電子音の正体は開いたままの冷蔵庫だった。少女は驚いた。まず冷蔵庫のドアを閉めた。倒れたタンスを戻そうとすると、その部屋の隅に母が寝ていた。ゆったりとしたリズムで寝息をたてて、安らかだった。


 ここに暮らしているのは私と母だけなのもあり、この惨状は母が元凶だであるとすぐ分かった。そして、少女にはなんとなくの動機も分かっていた。父親が消えて、母は家計的にも心情的にも枯渇していたのである。その証拠に、昔は話の弾んだ母だったが、今は話しかけても呻きに似た返事を返すばかりであったのだ。


 安らかな母とは裏腹に、少女の鼓動は凄まじく早くなっていた。その動悸をさらに加速させるものを少女は発見した。よく見ると母親の周りには、獣が獲物を食い荒らすが如く野生的に、カラフルな錠剤が散乱していたのである。色から睡眠薬の類ではないことが分かった。すぐさま危険な薬だということを少女は勘付いた。MDMAという名までは知らなかった。


 少女は今までにない激情に襲われた。精神は肉体を支配し、脳は動転し、目眩と吐き気で意識を失いそうになった。それが余りに怖いので、気をとり直そうと、落ち着こうと息をゆっくり吸おうとしても、なかなか上手にいかない。暗闇を這いずるように、少女は解決策を模索した。少女は閃いた。急いで自分の机に走った。ロッカーを開けると、記憶通りカッターがあった。少女はそれを握りしめて風呂場に駆け込んだ。鼓動は早かった。すぐさま左手首に刃をあてた。その時、少女のストレスには、家族の不遇や、母親への同情などが綺麗さっぱり無くなっていた。目先の今から自らの手で脈を切ると言う興奮、非現実、そこに全ての意識が集中していた。しかしもたもたしているとそれらの強大な気持ちが心を追いかけてくるので、逃げるように少女は深く切り込んだ。血が出た。たたたたた、と床に血が滴った。血は跳ねて足についた。他人のこれを見たときがインターネットを通じて何回かあった。痛々しく、見ていられないものである筈だった。しかし自分の左手が滴り落ちる血は、不思議に少女を魅了した。急ぐ鼓動に合わせて、早く滴ると、だんだんと雫はリズムを落とし、たん、たん、たん、と、リタルダントの如く遅いテンポを刻みはじめた。血が床を叩くと、風呂場に響いた。流れる血を少女はただ、じっと眺めていた。同様に、鼓動も徐々に遅くなっていた。


 少女はそれから手首を切らなかった。もともと心の強い彼女であったから、癖が付きそうなところを踏ん張った。罪悪感と背徳感に、彼女は徹底的に従ったのである。家の惨状も落ち着いて来た。しかし、少女の心を抉った母の廃人姿と、そこから染み入った血の記憶は、少女の頭から離れなかった。それでも以前と変わらず友達の相談に乗ったりする彼女は、やはり心が人一倍強かった。


 しかしその平穏は続かなかった。ある日に学校で生活すると、給食を拒まれたのである。給食費を払っていなかったのが理由であるらしい。正気を保っていた彼女でも、至大な心の拠り所であった給食に拒まれては、精神を病まずにはいられなかった。


 学校に行かない日が三日続いた。布団にこもり、パソコンなどで暇を潰した。母はなにも言わなかった。周期で訪れる心の荒みから、少女はカッターの官能に毒されそうになった。気の強い彼女は、荒れた唇を噛み締め、それに耐えた。ろくな栄養も取れず、立てばふらつく彼女であっても、意志だけは残っていた。


 三日目の夕方、親友が訪ねた。インターホンを鳴っても出ないため、大声で少女の名前を呼んだ。親友だと気付いた少女は、洗ってもいない服のままドアを開けた。


 ある日の教室のように、強い夕焼けだった。秋の匂いが、久し振りに少女の鼻をくすぐった。コオロギの鳴き声が密かに聞こえた。

「心配だからお見舞いに来たよ」

 親友は笑っていた。その笑顔には捉えようのない哀れみがあった。

 少女は、自分の手首の傷を誰にも言っていなかった。だが一人で頑張る限界を少女は予感していた。親友になら、言ってもいい気になった。

「あのね。見て、これ」

 少女の手首に浮かぶ一本の傷跡は、初々しさがあった。親友は驚く素振りもなく、その手に両手を添えた。そうしてマジマジとそのカサブタを見た。前髪で表情が見えないので、どんな気持ちで見ているのか、少女には分からなかった。

「綺麗だね」と、親友は優しく静かな声で呟いた。


 その声は、少女の背負っていた重いモラルを粒子のように空気へ分解させた。少女は自分の中にあった諸々の何かから解放された気になった。それがあまりに感動的だったので、心が高ぶって、目に涙が浮かばれた。表情が歪むと親友は少女の肩を優しく抱いた。額に当たった柔らかな肩と、背中にかけられた優しい手に、少女は緊張を強烈にほぐされ、さらに涙が溢れ、親友の肩を滲ませた。


 それから会話はなかった。ただ最後、「ありがとう」と少女が言うと、彼女は微笑んで手を振った。背中が徐々に小さく見えた。


 部屋に戻った。机の引き出しからカッターを取り出した。風呂場に向かい、桶に座った。手首をしばらく刃で押し付けた。後、手首を切り裂いた。二本目の、出来立ての線から血が溢れた。たたたた、床に落ちると、音は浴槽を反響した。そのリズムはやはり徐々に遅くなった。リタルダントの五線譜は次第に終わりを近づけた。リズムは更に遅くなった。流れ落ちる血を、少女は眺めていた。口は熟睡した人間のように開き、うつろだった。



 少女は既にこの行為の意味を知っていた。しかし、この傷跡をきっかけに、初めてできた愛しい彼に拒まれてしまうことを、少女はまだ知らなかった。

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「亜麻色の髪の少女」 康 忠功 @yasutadakatu

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