4th NUMBER『本当の君が見たい』
どうやら僕の情報が遅れていただけで、秋瀬ナツメといったら校内ではなかなかの有名人だということがわかった。
クールな面持ちの美女。誰もが一度は振り返るであろう抜群のプロポーション。僕があのタイトスカートを纏った豊かな曲線と艶やかな生足に釘付けになったのも無理はない……よね? 口に出したら間違いなくアウトだけど、准教授だって男だもの。恥ずかしいけど許してほしいな……。
だけど彼女の魅力はそれだけでもなく。
「秋瀬! あいつは成績こそ首席だが、授業態度がまるでなっとらん!!」
ダン、と勢いよく湯のみをテーブルに打ち付けた
僕は締まりのない苦笑いを浮かべる。いつものことだ。この手の話の聞き役は大体僕って前から決まってる。
「でも……教授ほどの人に生意気言うなんてなかなか度胸のある生徒ですよね。教授の講義が非の打ち所がないくらい素晴らしいからこそ、誰にでも真似できることではないと思います」
向かい合って座る僕は、冴えないお世辞を交えつつ恐る恐る湯のみを手に取る。いただきますと一言告げて口をつけたとき、柳沼教授がフン、とつまらなそうにまん丸な鼻を鳴らした。
「言っとくがな、俺はあいつの為を思って厳しくしてるんだぞ。帰国子女だかなんだか知らんが、まだ若いくせに一人でなんでも出来るなんて思い込んだら後々痛い目を見るだろう? ああいう自信過剰な奴ほど将来挫折しやすいんだよ!」
「愛の鞭なんですね」
「そうだ!! どんな生徒でも決して見捨てないのが俺のポリシーだからな!」
本当は自分の講義を乗っ取られたことが腹立たしくて仕方ないだけなんだろうにね。だけどこの教授の扱いやすさには助かっているというのも本音だ。僕、お世辞とかヨイショとか本当は上手くないからね。
そう、こんな具合に教授さえ唸らせてしまう活躍っぷり。溢れんばかりの知性に可能性。生徒たちにとって彼女は羨望の的という訳なんだ。
だけど……実を言うと、僕からしたらそれだけでもなくってね。
「秋瀬、まだお昼食べてないの?」
「あ、もう昼休憩でしたか。時間が空いたら食べますよ」
「もう……食事も休息も必要なことでしょう。必要な時間はちゃんと作らなきゃ駄目だよ」
秋瀬はしっかりしてるようで実は凄く手がかかる。猪突猛進とでもいうのかな。一度研究に没頭するとなかなか戻ってきてくれないんだ。僕は何度おにぎりやサンドイッチの差し入れをしてあげたかわからないよ。その度にちゃんとお金は払ってくれてるけどね。きちんとはしてるんだけど。
僕がどれだけ心配してるかも知らないで。僕のことなんてまるで空気のような扱い。そう思いきや?
「秋瀬っ! ちょ……っ、秋瀬! まだ脚治ってないでしょう。待ちなさい!」
ある日テニス部の女子生徒と話していた僕をじっと見つめていた。僕が気づくや否やなんと猛ダッシュ。怪我をした脚にはまだ包帯が巻かれているのに危なっかしいピンヒールなんか履いて。何を考えてるんだかわからない。
「そんな靴履いてきちゃ駄目だろう! しかも走るなんて!」
研究室のドアの前まで追い詰めて僕が叱ったなら
「そこまで仰るなら、大丈夫かどうか診てくれますか? ……先生」
「…………っ」
後ろ手でドアを開き、僕の手を引いて招き入れる。やけに色っぽい視線で僕の動きを封じたまま。本当に何を考えてるんだからわからない……! 優等生の顔をして本当に、悪い子。
例えるならそう、彼女は猫だ。気高い雰囲気のロシアンブルーみたいな。気品を漂わせ、簡単には触らすまいとしているようなのに、時々やたらと無防備。やっぱり猫っぽい。
その気まぐれかつ妖艶な振る舞いは、ときに僕をからかい試しているようにさえ見える。おっちょこちょいな僕をからかう女子生徒なんて沢山いるけど、彼女のは何か違うんだ。あんな無邪気な感じじゃなくて、音もなく引き寄せる力。海を満ち引きさせる月の引力を思わせる。
……ううん、やっぱり、そう見えてしまう僕の方がおかしいのかな。僕は仮にも准教授。教育者の立場なのに……どうかしてる。
春の嵐のようにして現れた彼女に振り回されること一ヶ月ちょっと。今年の梅雨入りは五月下旬と例年より早い。気まぐれな初夏の香りもやってきた。更なる波乱が訪れなければいいけれど、なんて僕は密かに願っていた。
しかし僕はある日の学食にてとんでもないことを耳にする。
秋瀬さんってさ……
その名が出た時点で既に意識を半分以上は持ってかれていたんだけど。
“重い病気だったって言われてるよね。実はずっと海外の病院に入院してたって”
“ああ、だからあんなに世間一般の常識を知らないんだ。最初にコンパに誘ったとき、なんだそれはって返した話。あれ、ネタじゃないのかもね”
「…………」
サラダの器へぽろりと落ちたブロッコリー。僕の握る箸はそれからしばらく止まっていた。
(病気だったなんて……)
あくまでも噂。本人に訊いた訳でもない。僕は何度も自分に言い聞かせた。例えそれが事実だとしても、本人が話してこない以上、むやみやたらに探るものでもないだろうと思った。だけど……
――時間が空いたら食べますよ――
「…………っ」
寝食を惜しんで研究に励むあの姿勢だって、今まで自由がきかなかった反動なんだとしたら? 階段で転んだ原因がまさか体調不良だったら? 考えれば考えるほどあの根拠もない噂に結び付いてしまって、僕は廊下を進む途中で頭を抱えたい衝動に駆られた。窓を叩く五月雨の音が僕の焦燥を掻き立てる。
元々気がかりなことを隠しておけない性分だと自覚してはいた。慎重になるべきだ。そう考えたこれも、結局は本人に訊くことになってしまった。
――ねぇ、秋瀬。
「聞いてしまったんだ。噂なんだけどね……」
口にするだけで胸が苦しかった。だけど事実だったらこれ以上無理はさせられないもの。
僕の問いかけを受けた彼女は何故だかとても寂しそうな表情をした。赤みの一つも無い夕暮れの窓際。いつものソファの上で長い睫毛を伏せて、そんな事実は無いと言って微笑んだ。
本当に……? 僕はしつこいくらい問い詰めたくなった。その儚げな姿、今にも霞んで消えてしまいそうだよ。豊かな漆黒の髪も綺麗な瞳も今は薄ぼんやりと滲んだ水墨画のように見える。
なのに僕の心の中は様々な色がせめぎ合って混沌としている。心配させまいと隠しているんじゃないよね、という不安がなかなか消えてくれない。
「先生?」
「……ごめん」
僕の目にはおのずと涙が滲んだ。みっともなく鼻をすすってしまったときに彼女がこちらを向いて固まったのだとわかった。
良かったと僕は口にした。明確さに欠ける回答。はっきりしているようで何処かぼかしたような彼女の口ぶり。だって事実でないんなら海外でどう過ごしていたとかもっと話してくれてもいいんじゃない? だから本当は納得なんかしていないんだけど、彼女がこれ以上触れられたくないなら仕方がないと考えてのことだ。
僕は耐えきれず話を逸らした。脚は痛くないか? もう何度訊いたかわからないそれで誤魔化した。苦笑した彼女が聞き覚えのある台詞で返す。
「そんなに心配なら診て下さい。あおじもだいぶ薄くなりました」
あおじ? なんかこれも聞いたことがある。ああ、痣のことかな。僕は既に包帯の外されている彼女の膝へと顔を寄せる。生徒なんだから程々の距離を保って……とか、もうすっかり忘れていた。
きっとそう、忘れていたが為に。
――冬樹さん。
「…………秋瀬?」
こんなことに、なったのかも知れない。
軽やかに舞い降りた花弁がこの髪にとまった感触。僕の頭を撫でた? 最初はそう思って見上げた。だけど違った。
白魚のような細い指先で押さえられた桜色の唇と、漆黒の瞳に満ちていく涙を目の当たりにして悟った。気のせいでもなんでもない。確かに感じた彼女の熱。確かに聞こえた僕の名。まさか……そんなこと。
「秋瀬……? 今……何を……」
――――っ!
「秋瀬!」
「ごめんなさい……!」
彼女は白衣を翻して駆け出した。頰を紅潮させたまま、涙の雫の軌跡を作って一目散に僕の前から姿を消した。
「そんなに走ったら危ないよ! 駄目だよ!」
はっと思い出して扉を開くもそこにあるのは冷たげな廊下だけ。空っぽの空間に降り注ぐ五月雨の音だけ。
「……駄目だよ……そんな」
ぽつりと零れ落ちた呟きは、彼女と僕、一体どちらに宛てたものだったのだろう。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
どうしよう
どうしよう
君が触れた
僕に触れた
僕は予測出来なかった
気付いたら止めたのに
出来なかった
出来なかった
嗚呼 どうしよう
どうしよう
君がくれた
僕にくれた
僕はされるがままだった
禁断の口付け
禁断の果実
嗚呼 駄目だよ
駄目だよ
言うことを聞かない身体
肝心なときに動かない
嗚呼……
関係が変わってしまう
どうしよう
どうしよう
そもそも気付いた方が良かったのか
いっそ気が付かなければ
このまま隣に居られたのに
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