5th NUMBER『許されるなら愛したい』
六月に入ってからは本格的に湿度の高い日々が続いた。
いつ見上げても、見上げても、空の色は重く鬱蒼としている。激しく叩きつける音よりもさめざめと啜り泣くような音が日々の大半を占めていた。
そしていよいよ下旬。曇り空は多くても日は長い。夏の足音を彼方に感じるよ。夏休みに入れば生徒たちはきっと花火をしたりBBQをしたり、それぞれの形で夏を謳歌するんだろうね。陽気な季節がやってくる。
それなのに……
雨音が泣き声なんかに聞こえるのも、未だ落ち着かない僕の心の問題なのかも知れないと実感する。あの五月雨の夕暮れ時、僕の頭に口付けたのであろう彼女とは距離が開いたままだ。一言も交わしていない。あんなに毎日顔を合わせていたのが嘘のように、彼女の姿を見つけることさえ困難なんだ。
僕の立場はあくまでも教師だから、自分から避けるなんてもちろんしていないよ。たまたま近くを通れば何事も無かったように挨拶だってしている。彼女も返してはくれている。ただし会釈だけだ。そこにあの涼しげな声は無い。
どうしてこうなっているのかは明白だ。僕が逃げているんじゃない以上、そういうことなんだろう。
「秋瀬……」
――冬樹さん――
「…………っ!」
夕方の執務室で僕は一人かぶりを振った。例えそう呼ばれたって僕は応えちゃいけない。物欲しげに見つめる彼女の残影にそれは駄目だと繰り返す。
(寂しかったのかな? もう、そう結論づけてもいい……?)
すっかり冷めた珈琲の入ったカップを両手でぎゅうと握り締めながら、僕は願いのような独り言を内心で零した。一雫、一雫、その両手の中へ注いでいくみたいに。
彼女は勉強熱心で……
いつだってそればかりで……
荻原くんだったかな? 彼女へ熱心に話しかけてる子ならいるんだけど……
彼女の方から積極的に友達を作っている様子も無い……
生い立ちとか全然わからないけど……
たまたま側に居た僕に甘えたくなったのかも知れない……
そもそも海外育ちなんだ……
あんなの挨拶程度の感覚だったのかも……
一通りの思考を出し切った後にぬるく苦い液体を喉へ流し込んだ。しっかりしていたってまだ若い女の子なんだ。間違いくらいある。やっと、やっと、その結論に辿り着いたところだったんだけど。
執務室を出て間もなくそれは僕の耳に飛び込んだ。
“秋瀬さん倒れたってよ”
「…………え」
凄く遠い場所からの話し声だったのに、雨空に響く鐘の
「あ、ごめん!」
「……はい」
保健室へ向かう途中で一人の生徒とぶつかりそうになった。荻原くんだ。
彼が助けたんだ……きっと。そう悟った瞬間に胸がぎゅっと締め上げられて、僕は実に教師らしからぬ態度をとったような気がする。心なしか冷たい目をした彼から逃げるみたいに視線を逸らし、事情を聞いたり褒めたりすることさえ忘れたんだ。
我に返ったタイミングが何処だったのかよく覚えていない。いや、もはや我を忘れたままだったのかも知れない。どんなに急いでいたって廊下を走るなんて普段は絶対にしなかった。それに……
ガラッ!
こんな勢いよく扉を開けることも
ナツメ……ッ!
ましてやいつも呼んでいる名前のそれ以降を口にするなんてあり得ないと、思ってた。
彼女はベッドの上で半身を起こしていた。息を切らせながら歩み寄る僕を呆然と見つめていた。
「先生、今……私の……」
潤んだ瞳をして。何を訊きたいのかはわかるよ。だけど、もう、二度と、繰り返す訳にはいかないんだ。無かったことにしなければ、いけないんだ。
「秋瀬」
僕はつい先程の響きへ上書きするようにそう呼んだ。君がどんなに悲しい顔をしても駄目だよ。断固として譲らない。そう思っているはずなのに身体は自分の意思じゃ止められないくらいの勢いで突き進んだ。
――――っ。
気が付けば彼女は僕の腕の中に居た。痩せた背中を撫でながら僕は叱った。無理ばかりしたことを。たった一度の間違いを気にして僕を避けたりなんかしたことを。こんなになるまで一人で抱え込んでいたことを叱り、涙声で悪い子だと罵った。
彼女は身体を小刻みに震わせ、すんと鼻を啜った。そして小さな声で僕を呼ぶ。
「……冬樹、さん」
ああ、やはりもう遅いのかい? やはりもう、君の中の僕は変えられないのかい……?
身体を離して彼女を正面から見つめた。滑らかな頰を伝う涙を指先で拭うと僕の視界もじんわりと滲んだ。
「秋瀬、何度も訊いてごめんね。君は本当に病気じゃないのかい?」
「……はい。過去のことを話せないのには……訳があって。だけど違います」
「そう、良かった。今度こそ信じるからね。僕は君が元気でいてくれればいいんだ。君さえ居てくれれば……」
そこまで言いかけて自身の口を封じた。小さく息を飲んだ彼女にこれ以上は見せまいと僕は再び抱きすくめたんだけど、これじゃ逆効果じゃないか。何を、してるんだろう。
僕の心は否定したがるけど、僕の身体はもう全てを認めている。漆黒の髪の滑らかさ、この手で感じ続けられたらどんなにいいだろう。桜色の唇、ここで重なり合えたらどんなにいいだろう。
長かった、君と言葉も交わせなかった日々。たった一ヶ月をこんなに長く感じたことは初めてだと思う。辛かった。本当は凄く辛くて切なかった。早く触れたかった。
君が欲しい。君が……欲しい。
……ナツメ。
自分なりに努力を重ねて准教授になったのに、こんなにも自分の立場を恨めしく思う日が来るだなんて。
それから僕らの距離は再び縮まったのだけど、やはり完全に元通りという訳にはいかなかった。だって間違いじゃないってわかってしまった。例えそれが間違いと称される間柄でも。
僕は何処までも逃げ腰だった。彼女が一歩こちらへ迫る度に関係のない話ではぐらかそうとした。その振る舞いこそが、彼女の中の憤りと切なさを着実に育てていくことになるとも知らず。
時は流れて七月七日。
よく彼女と二人っきりで過ごしている夕方の研究室にて、僕は春と冬の話をした。季節外れもいいところだ。
春はあいつ、冬は僕。
多くの人に愛される自由な弟と、何処か枯れてしまったような僕。そう、これは比喩だった。この比喩を用いて僕は彼女に気付いてもらおうとした。
僕はある種の諦めの元で生きている。いつまで好きな道を歩んでいられるのかもわからない。この枯れ木にはいつか強制的に灰を振り撒かれ、強制的に花が咲く。誰とどんな花を咲かせるべきか、決めるのは両親になるだろう。それこそ弟と同じことでもしなければ、本当の自由なんて手に入らない。つまり君に自由を与えてあげることも出来ない。例え卒業まで待ってくれたって簡単なことじゃないんだよ。
そこまでふんだんに詰め込んだつもりだった。しかし彼女は容赦もなく、そんな僕の思惑を全否定する。
「そんな言葉で私を遠ざけられると思ったんですか!」
激しくかぶりを振り、煌めく瞳から幾つもの星屑を散らして、切なる願いを僕にぶつけた。
「聞かせてよ……ねぇ、お願い。もう一度……私を呼んで」
「あき、せ」
――冬樹さん……!
僕はもう……限界だった。僕の中で何かが、砕けてしまった。
「ナツ……メ……ッ」
声にしたらもう止まらない。
「ごめん、ね。ごめん。ナツメ……好きだよ。好き……大好き……」
本当はずっと前から、きっと出逢った瞬間から、欲しくてたまらなかった桜色の唇と僕のそれがついに重なり合う。何度も何度も味わい尽くす。抱き合うだけでは足りないと互いの全身が訴える。
彼女の白衣がはらりと滑り落ちた。汗ばんでいるのかシャツの胸元が少し透けている。首筋に貼り付く乱れ髪に魅入り、やがては吸い寄せられるようにしてそこへ口付けた。
「……ッ」
押し殺した嬌声に押し付けられる柔らかい感触。鼻腔を抜ける女性らしい香りにほんのちょっと混じった無防備な汗の匂いが僕を刺激した。欲情が抑えられない。
そんな
――君、名前は?――
――秋瀬ナツメです――
――へぇ、ナツメさんかぁ。もしかして親御さんは文学好きかな?――
何も考えず何気ない会話が出来た。今思うと一番幸せだったとき。
あのとき僕は嬉しかったんだ。ナツメ、君という人に出逢えたことが本当に嬉しかった。すぐには自覚できなかったけど、今ならわかるよ。ただ側に居られるだけで良かったんだって。
なのにどうしてこんなことになったの。
ねぇ、どうして……
重なり合う唇は淫らな音を立て、吐息は次第に甘くなり、漆黒の髪をまさぐる僕の手は彼女の隠された部分までをも欲した。ついに僕は情けなく涙を垂れ流しながら、息を切らせて懇願する。
「もう……駄目だ。君の全てを求めてしまう。お願い、止めるなら、今……」
「……全部あげます」
最後の願いだったのに。こんな甘い音色で打ち砕くなんて、彼女は思った以上に残酷だった。
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禁断の果実がありました
誰に教わった訳じゃないけど
それは口にしてはいけないと知っていました
禁断の果実がありました
たわわに実り そよ風に揺れ
瑞々しい煌めきと甘い香りで僕を誘います
それでも手を伸ばしてはいけないと知っていました
禁断の果実がここにあります
もぎ取るならばそれ相応の覚悟が必要だとわかります
だけどどうしようもなかった
愛欲の疾風に激しく揺さぶられ
一つ また一つ
ついには一気に雪崩れてしまう
禁断の果実は僕の手の中へ……
一口嚙ったその後に
天と地がひっくり返るような目まぐるしさの中で
僕らは男女になりました
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