3rd NUMBER『君の名前が知りたい』
あの日、相澤の励ましによって自覚した僕の恋愛観。そして出逢った青い花。
なんだろう、僕は……それだけで満たされてしまったような気持ちで何年もの月日を過ごすことになった。運命への憧れは確かに芽生えたはずなのにどういう訳か。自分の中の欲という欲が鎮まってしまったような感覚だ。恋愛なんてもうずっとしていない。
それでも愛らしい青い花は今も僕の胸で生き続けている。摘み取って押し花にしたのだからもうその生命を終えているはずなのに、いつまでも瑞々しく輝いているように思えてならない、僕の大切な勿忘草の栞。それを肌身離さず白衣のポケットにしまっている。
実際のところ何に挟む訳でもないんだよね。それくらい僕が手にする書物の量はあの頃とは比較にならないくらい多くなった。万が一失くしたら嫌だから使わないんだ。
あれから十年ちょっと。現在の僕は広島の地を離れ、この神奈川県横浜市の国立大学にて、理学部生物学科の准教授を務めている。
早いもので僕も既に三十二歳だ。白髪も結構増えたなぁ。顔はそんなに変わってないと思ってたけど、この間二十代の頃の自分の写真を見たら、肌の張りとか頰のラインとか多少は違う。それなりに老けてるって実感したよ。
結婚……実家からの催促はよく受けるけど、どうなるんだろうね? 教授になるまでは待ってくれって先延ばしにしてるんだけど、いや……正直、僕の実家の状況は結構複雑なんだ。
聞いてあんぐりとはしたもののそんなに驚きはしなかった。弟の
僕がそこそこ順調に昇進していってるからって、古くからの地主である実家を継ぐのはあいつになるだろうと言われてた。だけどそう思うようにいくだろうか? 春樹は子どもの頃から自由で無鉄砲で掴みどころのない不思議くんだよ? そう懸念していた矢先のことだった。
お見合い話だってまともに取り合おうとしてなかったらからね、あいつは。いつだってフィーリングとかいうものを重視していた。恋愛なんてそれこそ自由に選びたかったんだろう。厳格な両親が許さないことなどとうに見越してさっさと家を出たんだろうね。容易に想像がつくよ。
僕もその気持ちがわからない訳ではない……と、思う一方で、このままだとだんだんわからなくなっていくんだろうなって、ちょっと寂しさもある。
時期跡継ぎ候補が僕に定まったことがわかっても、まぁそうなるよね……くらいの気持ちしか無いんだ。なんだか乾いてる。ただ一つ思うのは、いつか僕とお見合い結婚させられるのであろう女性が可哀想な思いをしませんように、本当にそれくらいだよ。お見合い自体を否定する気は無いけど、特に僕の母親が厳しいだろうからなぁ。
更に子どもが必要になるから、僕はその人を抱かなくちゃいけないんだものね。ちゃんと相思相愛になれればいいけど、両親が先を急ぐだろうし、もしお互いの気持ちが遠いままになってしまったら……?
そんな状態ならば、出来ればしたくない。申し訳ないもの。綺麗事だとわかっていても、僕が本当に望むのは……
「はぁ……」
(実感、湧かないなぁ)
春の柔らかい陽射しを背負う窓際。一人っきりの執務室にて、研究文書のファイルを閉じた僕は小さなため息を落とした。弟は幸せにやっているのだろうか、どんな恋をしたのだろうか、僕はいつまで夢を保っていられるのだろうか……頭を巡るどれもこれもが今考えても仕方のないことだと気付いたのはだいぶ後のこと。
「わっ、もうこんな時間!」
そう、だいぶ後のことだった。僕のおっちょこちょいは相変わらず治っていなくて、今でもこうしてどうしようもないことにばかり時間を費やしてしまう。反省だ……って、一体何回反省すれば気が済むのよ、僕!
ともかく急がなくてはと僕は次の授業で必要な書類を掻き集めてバタバタと慌ただしく執務室を後にした。
廊下を早足で進みながら時計を確認した。良かった、なんとか間に合いそう。本当はちょっとお腹が空いていたから学食に寄って蕎麦の一杯でも食べていきたかったんだけどその時間までは取れそうにない。しょうがない、後にしよう。
すれ違う生徒たちはちょっと含み笑いをしながらも僕に挨拶をしてくれる。僕が額に汗を滲ませたまま笑う度に、前に抱えた書類がカサカサと危うげな音を立てる。
ふふ、ユキちゃん先生また……
しっ、面白いからこのままにしとこ。ふふふ。
何やら背後で言われてるみたいで、理由もわからないのに恥ずかしいんだけど。もう……っ、気にしない!
はぁ、はぁ、はぁ……
「あ、あれ……?」
息を切らしてようやく辿り着いたレクチャールームで僕は呆然と立ち尽くした。眼鏡が曇っているけどきっと見間違いじゃない。まさか、まさかの事態だ。
「誰も、居ない。え、やだ、教室間違えた?」
うん、やっとわかったよ。向かってる方向がおかしいからみんな笑っていたんだね。もう、面白がってないで教えてよ……!
膝に手を着いて息を整え、真っ赤に染まった顔をうつむかせる。酸欠なんだか恥ずかしさなんだかもうわからない。ところがそんなとき。
バサバサッ
「きゃ……!」
「……え?」
思いがけない音。それから短い悲鳴が耳に届いて僕は目を見張る。もぬけの殻だと思っていたけど、誰か……居る?
気配を探るべく歩みを進めていく途中で僕は思わず目を覆った。思わず叫びそうになった。
出入り口へ向かう階段の途中で、女子生徒と思しき子がこちらへお尻を向けて四つん這いになっている。タイトスカートの隙間から今にも見えちゃいけないものが見えそうになっている。数秒ほど呆然としていたんだけど、やがて我に返った僕は熱を帯びた自身の顔を引っ叩きたくなった。それどころじゃないでしょうと。
「大丈夫かい!?」
散らばった教材、痛々しい青痣、苦痛に耐える呻き声。転んでしまったんだ。ああ、こんな華奢なヒールの靴を履いて。頭は打っていないか、そう尋ねたときに彼女がくるりとこちらを振り向いた。
「…………っ」
じっと見つめる黒の涙目を前に、僕の胸の奥がドク、と低い音を立てた。
――かな……た……?――
――ユキ……!――
気のせい。気のせいかも知れないけど、初めて見るはずの彼女と何かお互いに呼び合った、ような、気がした。
漆塗りのように艶やかな長い黒髪も、煌めく小宇宙の瞳も、しっとりとした桜色の唇も……その全てが眩しく、鋭く、僕の奥深くを貫いて、そして何故だからたまらなく懐かしくて……
「君、名前は?」
「……秋瀬ナツメです」
ぶしつけに名前を尋ねたりなんかする僕に、どんな怪訝な顔を向けられても構わなかった。秋瀬ナツメ。その響きを胸の内で繰り返すだけで、僕は何故か泣きそうになってしまった。
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あの花に出逢った日から
僕は運命に憧れていた
瑞々しい青色を小さな栞に閉じ込めて
ずっと共に歩いてきたのに
憧れは半信半疑となった
憧れは憧れでしかないと思い始めた
摘み取られてなお色褪せぬ花がここに在るというのに
呼吸あれども乾いてしまった僕の心
もう戻ることはないと思っていた
もう潤うことはないのだと
この瞬間を迎えるまでは
『真実の愛』もただの飾りにすぎなかった
歯車が動き出す音がしたよ
それは優しく
だけど哀しく
永遠と見せかけて何処か脆そうに
僕の中で刹那的に響いた
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