6th NUMBER『その女(ひと)のものにならないで』
僕は彼の幼き日を知らない。めくるめく春夏秋冬さえ我が物にしてしまう、あの類い稀なる眩しさがいつから身についたものなのかを知らない。
“カリスマ”。いつか読んだ外国の書籍でその言葉を知った。実にしっくりくると思ってため息をついた。
多くの人を魅了して止まなかったと言われる数々の人物の中にあのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがいる。幼い頃から神童と称されてきたオーストリアの音楽家だ。シェーンブルン宮殿で演奏を披露した際には、わずか六歳にして皇女マリア・アントーニア(後のマリーアントワネット)に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言った逸話を持つ。無邪気な幼心の為せる技か、それとも……
さすがに俺の尻をどうとかって曲が作られてたなんて僕が今まで読んだ本には載ってなかったけどね。あれは貿易業に関わる父親の側で育った夏南汰だから知っていたんだろう。きっと海外の情報を多く吸収しているんだ。って、それはともかく。
輝かしい経歴を持つその音楽家の晩年は寂しく儚くて。弱った心身を擦り減らしながら形作ろうとした
「……行こう」
モーツァルトの伝記を閉じた僕は立ち上がった。未だ慣れない緩さのセーラーパンツ、春仕様の背広の襟を正し、ネクタイをきゅっと締め直す。とっておきの一張羅に合わせるならロイド眼鏡かステッキか……いや、さすがに気合いが入りすぎだろうかと悩んだ末、濃い灰色の中折れ帽子を被せるだけにしておいた。
ここは大学院の図書室だ。顔馴染みの学生たちが何人も出入りする。あからさまに浮かれているのを悟られるのは抵抗があったし、何よりも僕自身が落ち着いていたかった。
「待っていてね、僕のモーツァルト」
それなのに、春空の
大学院進学の為に僕も一人暮らしを始めていた。夏南汰の引越した港町にも近いと知っていた。いいや、正直に認めよう。僕は夢を追うと共に彼のことも追いかけてきたんだ。それでもすぐに逢いに行こうとしなかったのは、以前よりも幾らか誇れる自分となって彼と向き合いたいから……
えぇい! それもちょっと違う。
こうなったらいっそ開き直りだ。格好をつけようと思っても僕にはやっぱり無理。全部認めるよ。僕はね、今度こそ! 夏南汰の心を射止めたいんだ!
何度かやりとりしてきた手紙によると、今の夏南汰は冒険家なる肩書きを手にしているそうじゃないか。高等学校時代よりも更に手強い存在になった気がするけれど、僕の努力だって負けてはいない。
実家の東洋医学に加えて西洋医学も学んできた。お洒落にだって磨きをかけたつもりだ。新しいもの好きな君が飽きないようにと暇さえあれば本を読み漁って、音楽、文芸、紅茶の種類に花の名前、沢山詰め込んで持っていくから見ていてよ。
おろしたての革靴で意気揚々と横浜の町を歩む僕の頰は何度もだらしないくらい緩みかけた。
しかしだ。そんないつになく颯爽とした僕は、目的地間近にして不穏な予感に打ちのめされることになる。
道がわからなくなったところで通りかかりの紳士を捕まえて尋ねた。すると驚くべき言葉が返ってきたのだ。
「美少年と美少女が肩寄せ合って暮らしている屋敷なら知っているが?」
(なん、だって?)
美少女? 一体誰のことだ。僕の思考が一時停止したのも無理はない。だって夏南汰からの手紙にそんなことは一言も書いてなかったんだから。
しかしそれはガセではなかった。唯一訂正するならば“少年”というところくらいで。
「わぁ!」
やっと辿り着いた屋敷の玄関にて僕は盛大によろめいた。そこに見知らぬ少女が居るというだけでも驚きだったのに、まるでカフェーの女給のような際どい衣装まで見せつけられたんじゃこうもなる。
そして僕はすぐに察した。庭一面に咲き乱れる色とりどりの花の中で僕をじっと睨んでいる、フランス人形のような少女が僕に敵意を
真相は夏南汰の口から実にあっけらかんと語られた。
この町に在るカトリック教会で彼女と出逢った。気に入ったから連れて帰ってきたのだと聞いた僕はもう開いた口が塞がらない。
「名前は私が与えたのだよ。夏を呼ぶと書いて“
待って、夏南汰。モーツァルトの次は光源氏かい!? 君は……君という男は、可愛いものならなんでも持ち帰るのかい。
そんなことをされて彼女がどう思ったのか。室内に招かれてなお敵意剥き出しの緑の瞳に睨まれ続けている僕には簡単にわかる。
「ホレ夏呼。彼が私の親友のユキじゃ。仲良くしておくれ」
無理だよ……内心で呟いた僕は深いため息をついた。彼女は君に恋をしている。気付いてないのは君だけだよ、って。
それからの僕はなんとか夏南汰の心を取り戻そうと焦っていたんだと思う。同居こそしていれど彼女の立場はあくまでも家政婦だ。主人とどうこうなるってことはさすがに無いだろうと、思いたかった。
思いたかったんだけど。
ある日の朝、休日を利用して遊びに訪れた僕は彼の部屋の扉に背をつけたまま呆然とした。
白いベッドに広がる漆黒と淡い茶色。頰を桃色に染めた二人が瞼を伏せて額を寄せ合い……
「あ……秋瀬……」
それはまるで対で作られた人形のようだった。とろりと溶けそうな質感のネグリジェ姿の女の子と無防備な寝巻き姿の男の子。安心しきった安らかな寝顔で寄り添う二人があまりにも可愛くて幻想的で、とんでもない場面に居合わせているはずなのに何処か見惚れてしまう自分が居て。
「夏呼……さん……」
密やかな情事を彷彿とさせる光景なのに何故か官能とは程遠かった。それが却って切なさをつのらせる。ただお互いが好きで、好きで、いやらしさも何もなく交わっていたのかと思うだけで頭が鈍く痛んでくる。目が
「ユキ……?」
いつの間にか夏南汰が目を覚ましていた。緩やかに上体を起こす彼の後ろで、多分もっと前から目覚めていた夏呼さんがきゅっと切なげに眉を寄せる。唇を噛み締め夏南汰の胴にしがみ付くいじらしい仕草から彼女の心の声を感じ取れる。
――私のものよ――
「見るつもりじゃなかったんだ……ごめん……っ」
はっと小さく息を飲んだ夏南汰に背を向けて僕は部屋を飛び出した。自分が何を言ったのか、どんな顔をしていたのかもろくにわからないまま。
「ユキ! 待ってくれ、ユキ……ッ!!」
悲痛な声で呼ぶのが聞こえても、せわしなく繰り出す足もドロドロとした疑心暗鬼も止まらない。
やっぱり男と女なんだ。
一緒に居れば
夏南汰が選ぶのは女の子。
こんな冴えないでくのぼうではなく。
僕なんかではなく……!
モーツァルトでも光源氏でも良かった。破天荒でも良かった。我儘でも無邪気でも、何も気付いていなくても。
「何が……成長した自分で、だ。何も変わってないじゃないか」
そう僕らはやっぱり変わってなんかいない。昔から今でもずっと、僕ばかりが焦がれているんだって気付いた。認めざるを得なかった……その次の瞬間には。
――綺麗なままでなんていさせない。
「少しは乱れてみせてよね……夏南汰」
眠っていた僕が目を覚ます。貪欲に。
きっと瞳を鈍く光らせていた。きっと片の口角を醜く吊り上げたりなんかした。僕は知った。失望の果てには歪んだ希望が在るのだと知った。気が付けば足を止めていた殺風景な空き地にて、虚空を睨み上げつつこんなことを思った。
――悪くない気がしてきた。だって私も君が可愛い――
あの日思わせぶりな台詞を零した桜の花弁は、触れようとする僕をするりとかわした。悪びれもせず無邪気な微笑みで僕から逃げた。
届かなかった桜色。あれからずっと、ずっと、残酷なおあずけを食らったまま。ふつふつと沸騰するような感覚が内側から迫り来る。しかも湯ではなく酒が煮えるような。冗談じゃない、ぶざけないでよ、僕は犬じゃないよって。
怒りを鎮める為に僕は希望の種に水をやる。芽吹いたそれをどんどん伸ばしていって……一つの幻想へと辿り着いた。
それは整った形の小さな花弁がぬらりとした唾液と湿った吐息なんかを零しながら嫌、嫌、と。拒絶の言葉を連呼する光景だ。小さな身体を捩って無駄な抵抗を続ける光景だ。ひたすら求める僕は何度も何度も祈りのように君へ囁く。
ここで鳴いて、僕の手で鳴いて。
母親の為の人形だったと打ち明けてくれたあのときみたいに、僕の中で壊れてよ。
このときの僕は気付かなかった。それは僕が夏南汰を最愛と認めた瞬間であり、災厄と認識した瞬間。呆れたって嫌いにはなれない。誰よりも愛おしい君を誰よりも憎んだ瞬間。そうと気付かないまま、僕は……
「駄目だ、やっぱり綺麗。例え汚しても君はきっと」
埃っぽくけぶる春の宙に手を彷徨わす。
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妖精の
光も届かぬ奈落の底
絶望へ追い込んだのが君ならば
絶望の果てに見たのもまた君だ
見失いたくないから
自分で灯すしかなかった
例えこの身を焦がそうとも
触れられぬ幻想
耽美なる君
甘美なる声で鳴いてくれ
僕を酔わせて
束の間の官能だとしても
どんなに
壊れゆく君は僕だけのもの
君の為に壊れるなら本望だ
桜が舞う
吹雪となる
吹雪溶かす火の粉となる
次へ向かう
君と向かう
もう夏の夢を見てる
嗚呼 なんて滑稽で愉快なんだ!
飛んで火に入り一つになりたいよ
君と二人
惨たらしい愛の残骸になってしまいたい
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