5th NUMBER『独りきりで泣かないで』
それから僕らは三年間の中学校生活を共にした。僕はゆっくりと知っていった。
夏南汰は貴族の家系の次男、なかなかのお坊っちゃまだ。耳慣れないあの方言はかつて生まれ育った広島のものだったらしい。
何度か家にもお邪魔したからわかる、中性的な顔立ちは母親似だ。年の離れたお兄さんとは話したこともないけれど、がっしりとした体格に鋭い一重瞼の目、角刈りがしっくりきている絵に描いたような日本男児。小動物みたいな夏南汰とはほとんど似ていないとすぐにわかった。
それとちょっぴり怖い印象があったな、お兄さんは。いつの日か学校の帰り、僕らは川辺に寄り道をしていた。そこへお兄さんが通りかかった。凄く遠くからだったけどこんな言葉が届いて。
「おう、夏南汰ぁ!
何故あんな苛立った口調だったのだろう。僕まで睨まれた気がするよ。
いつもはまんまるな夏南汰の目がじとっと暗く陰を帯びた。せせろーしい。小さくそう呟いたのが聞こえた。僕にその方言の意味はわからないけど、多分うるさいとか
「駄目だよ、秋瀬。お兄さんのことをそんな
悪い友達だと思われないようにしなきゃね。そう気持ちを新たにした僕は不機嫌そうな夏南汰に笑みを浮かべて言ったんだけど……
「……ユキにはわからんじゃろ」
「え?」
「……いや、兄はほんまに口うるさくてのう。家族でなきゃあの頑固さはわからぬ、そういう意味じゃ」
ははっと
そんなことはあったけれどさほど気にも止めなかった。綺麗な黒髪は相変わらず長いまま、周りから浮いてしまうくらいの愛らしい容姿に訛りのある口調。だけど、僕が心配していたどれもこれもを問題ではないといった
彼の無邪気かつ冒険心溢れる物言いは、当時の僕らにとっては実に斬新なものに感じられた。そのせいもあってなのだろう、気が付けば彼の周りには友達がいっぱい。僕とは比べものにならないくらいの勢いであっという間に周囲を惹きつけるのだ。言葉遣いも次第に周りと馴染んでいった。
いつだったか何人かの学友たちと一緒に帰る途中、燃えるような紅葉の
夏南汰に変声期はあったのだろうか。僕にはそんなに変わったようには思えない。いつまでも少年のままであるような、あどけない声が愛おしくて。
「し、り、な〜め〜ろ〜〜!」
まぁ、残念なことによく歌っていたのは『俺の尻』なんだけど。哀愁の秋色に咲き誇る真夏の君。ほんのり酔っていた矢先にこうしてブチ壊すのも……なんだかずるい。
「お〜れの、し〜り〜」
「お〜れの、し〜り〜」
しかも『俺の尻』は輪唱なんだとかで、最近仲良くしている綱島や高泉の声まで続いてくる。
「もうみんなやめてよ、恥ずかしい!」
僕は顔を真っ赤にして彼らを叱咤するのだけど効果なんてまるでありはしない。
でも大多数の友達が腹を抱えて笑う中で夏南汰も無邪気に笑っている。良かった、君が楽しそうで本当に良かった。
そう安堵しているはずなのに、僕は……時折この胸に訪れるチクリとした小さな刺し込みに戸惑った。こんな痛み、あってはならない。理由もわからない罪悪感から意識を逸らそうと試みたことが一体何度あっただろう。
それでも夏南汰は
「ユキ! 一緒に行こう」
登下校の際にはいつも僕の元へと駆け寄ってきた。その距離感はいつだって近い。いいや、それどころか僕の腕にぴたりとくっつき、人なっこい仔猫のようにを頰を擦り付けたりなんかするんだ。
無防備にピンとはねた前髪の数本が揺れていて、
いつの間にか僕にあだ名までつけちゃって……
なのに、僕の方ときたら……
「秋瀬、くすぐったい」
せいぜいこれくらいしか言えないんだ。名前もだ。秋瀬と呼ぶのが馴染み過ぎて口にする機会を見失ったままだった。
いいや、むしろ呼び過ぎたんだ。心の中で。
僕にとっての“カナタ”の響きはきっと普通じゃない。友達とは言い難い甘い音色で届いてしまうんじゃないかと恐れていたんだ。
そうやって飽きない日々を送るうちに更に月日は流れ、僕らは同じ高等学校に進学した。ここでまた同じ組になったのだけど、持ち前の明るさで中学時代以上の人気を博した夏南汰はますます眩しい存在になってしまったように思えた。
バンカラに身を包むようになった頃から強気な口調が多くなった。童顔のすぐ下で撫で肩をいからせ、華奢な身体を左右に大きく揺すり、高下駄を派手に鳴らしながら歩く姿は言っちゃ悪いけど滑稽だった。葉っぱを咥えてたときなんて草食動物の食事にしか見えなかった。みんなの目は騙せても僕からしたら全く怖くない。むしろ危なっかしくてヒヤヒヤしたくらいだよ。
「おう、ユキ! 一緒に帰るぞ!」
「うん、秋瀬」
一見すると僕らの関係は変わらないように思えたけれど。みんなの前では封じ込めている広島弁も僕の前ではちらりと零すことがあるんだ。それが嬉しかったりしたんだけど……
僕の中でつのっていく言い知れぬ寂しさは見事に的を得ていたと思う。
だってやっぱり本来の夏南汰らしくないんだ。三年生になる頃にはもう随分と確信していた。
改めて見てみれば夏南汰にはやっぱり確かな気品が残っている。僕が彼の家に遊びに行った日には庭の花を指差して。
「見てごらん、ユキ。綺麗じゃろう。あれが母の仕入れたトルコキキョウ、あっちはコチョウランじゃ。ええのう……実に麗しい」
含んだ光を潰すように目を細めてふふ、と笑う。熟れ始めた桃みたいにほんのり色付いた頰。
僕の誕生日には紫を基調とした糸で繊細に織られた本の被せ物を贈ってくれた。添えられていた小さな鈴はお揃いだと。涼やかな音色を奏でてみせながらまたうっとりと目を細めて無防備な妖艶さを漂わす。
その日の別れ際、僕はちょっと離れた場所からこちらに手を振る彼の笑顔の下半分を手で隠してみた。瞬時に胸が軋みを立てた。
(泣いてる)
ねぇ夏南汰、君本当は泣いてるでしょう?
君が好きなのは綺麗なお花やお洒落な紅茶さ。猥談なんて本当は得意じゃないんでしょう。そして凄く寂しがり屋だ。その繊細な身体で一体何を抱え込もうとしているの?
夏南汰が密かに泣いていた理由。それを知ったのは卒業間近の晩秋だった。
たった一人で実家を出て遠い港町に住もうとしていると知った僕は、やるせない気持ちからつい彼に詰め寄ってしまった。追い込まれた図書室で、二人っきりの空間で、夏南汰はついに涙目で叫んだ。
「ユキは……っ、私を可愛いと言ったじゃろ……!」
えっ、と驚きの声を漏らした僕を強く睨んだ夏南汰が繰り返した。そういう私の方がいいんだろ、と。
何故そこまで確信を持っているのか不思議に思ったんだけど、この後すっかり無防備になった夏南汰が話してくれた。
そうまでして愛されたかった。見捨てられるのが怖かったと夏南汰は泣いた。何より母親に依存している自分が嫌で嫌で、悔しくてたまらなくて、一人でもやっていける自信が欲しかったのだ、と。
だから髪が長いんだ。だから俺でも僕でもなく“私”なんだ。合点がいったすぐ後に後悔の念が足元からざわざわと這い上がる。
そのままでいいよ。
可愛いよ、秋瀬は。
僕は確かにそう言ったことがある。僕は気付いてしまったんだ。今更。
――ユキにはわからんじゃろ――
あれはただの不機嫌なんかじゃない。今更になって凄く哀しく響いてきて。
「かな……」
自分も夏南汰に偽りを演じさせた一人。
「あ……秋瀬……っ」
こんなになるまで追い詰めた一人。自分が情けなくてたまらない。だけど今こそ知ってほしい。
「ごめん……ごめんね、秋瀬……ごめんね……!」
無理に男らしくならなくていいよ。決して馬鹿にしているんじゃない。僕はそのままの君が……ううん、どんな君だとしても
好きだよ。僕は……君が好きだ。
僕自身も大いに肩を震わせながら、泣き噦る夏南汰を夢中で抱き締めた。震える手で彼の頭を撫でた。僕はなんでも遅すぎるんだ。相手の気持ちに気付くのも行動を起こすのも、遅い。
それに比べて夏南汰は正反対だ。嵐のように感情を撒き散らしたかと思ったらもう次へと進んでる。僕から受け取った不器用な想いを花束みたいに抱え込んで涙目のまま嬉しそうに笑ってる。
「悪くない気がしてきた。だって私も君が可愛い」
細い指先を唇に宛てがわれ、思わせぶりなことを言われてドキッと高鳴ったのも束の間。
「君と私は生涯の友じゃ!」
ねぇ……嘘でしょ、夏南汰。拍子抜けもいいところだよ。どうするの、この疼く両手に熱を持った唇。このまま空気と戯れてろって言うの? ねぇ。
なんでも早すぎる、駆け足の君。もう恋心を認めるしかなかった、のろまな僕の心はまたしても置き去りだ。
それでも僕は決意したんだ。もっともっと強くなって必ずこの子を迎えに行くんだと。
僕は思い知ったんだ。恋焦がれた人間は何処までも往生際が悪くなれるのだと。
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気付いてくれなくたって
君の笑顔で全て帳消しになる
空回る想い
届かなくたって
憎たらしいくらいの無邪気さに
触れられる幸福を感じてる
君はずるい
君はずるい
しなやかな指先宛てがって
はい そこまでって
お預けの
この先もずっとくれないの?
僕は馬鹿だ
僕は馬鹿だ
複雑な心境だなんて
それらしいこと
嘘だ
嘘だ
格好つけるな
実際は何処までも単純だよ
雪肌に熱を携え
切に願う
僕は
僕は
ただ君が欲しいだけ
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