7th NUMBER『今だけは聞かないで』
季節は巡って梅雨明け間近の頃に僕は一人の女の子に呼び出された。近くの高等女学校の制服。僕の友人の恋人の……その友達だ、確か。
大学の裏の木陰で向き合うと、頰を染めた彼女がおさげの髪を落ち着きなくいじりながら打ち明けた。
「好き、なんです、春日さん。その……私と、お付き合いして頂けませんか?」
へぇ。これが告白というものか、なんて、何処か他人事のようにして見ていた。だって実感湧かないよ。こんなの初めてだもの。
一体僕の何処に惹かれたんだか興味深くはあったけど、さすがにそれだけ聞き出すなんて残酷なことはしない。答えはもう決まっているんだから。
「ごめんね」
「…………っ」
「僕には好きな人がいるから」
かぁっと更に赤く染まり、涙目になっていく彼女に胸が痛む。だけどこれ以上出来ることなんて無い。軽く頭を下げて立ち去ろうとしたとき。
――それでもいいです!
「え?」
「一番じゃなくても、いいんです。友達でいいから、私の傍に居て……お願い……!」
まさかこう来るなんて。僕はしばらく呆気にとられていた。それからすーっと冷めていったんだ。告白……嬉しいものだって聞いてたんだけどね。ときめきとは程遠かったよ。
何より不毛な恋にさえ身を投じかねない彼女に教えてあげなきゃと思ったんだ。
「……やめときなよ。恋心を
更に僕は言った。君の気持ちを知ってしまった以上、友達として見るなど無理だって。やがて僕が身を翻すとこの背中に届いた。低い声色で。
「……冷たいんですね、春日さんって。優しい人だと思ってたのに」
振り返ると、ちょうど両手で顔を覆った彼女が走り去るところだった。ざわめく新緑の
「わかってくれて良かった」
僕は自分を優しい人だなんて思ったことは一度も無いよ。
こんなことがあった日も、僕は何食わぬ顔で夏南汰の屋敷を訪れた。あれから何度か短い航海に出かけては戻り、出かけては戻りを繰り返していた夏南汰が、いつも僕を迎えてくれる応接間にて海外から持ち帰ったある恋物語を聞かせてくれた。
経験がそうさせるのだろうか、夏南汰は航海を重ねる度に少しずつ妖艶になっていく。童顔でこそあれどもうすっかり美青年と言っていい。ごくりと喉を鳴らしながらも僕は至って平静を装って元通りの自分を演じている。
そんな彼が艶めいた桜色の唇に時折カモミールティーの香りを運びながら、好奇心に満ちた悪戯な眼差しで僕らに問う。黄色い薔薇・ソレイユドールが似合う美麗の紳士は、運命的出逢いを果たした孤独な町娘と幼少の頃からの許嫁、どちらを選ぶかと。
僕は自分の中の辞典をめくり、一つの記憶を引っ張り出した。黄色い薔薇の花言葉はいくつかある。友情、友愛、それから……嫉妬。最後のそれに辿り着いたところでちょうど夏呼さんと僕の意見が割れた。
夏呼さんは言う。紳士は明らかに町娘に惹かれていると。
僕は負けじと主張する。幼い頃から彼をよくわかっているのは許嫁の方だと。
愛に年月は関係ありません。
年月だって欠かせない絆だ。
夏呼さんと僕はもはや言葉ではなく視線でそう言い合っているようだった。静かに静かに白熱していく。そこにはやがてチカチカと眩しい火花が散り始めたんだけど……
「良かった」
なんて、夏南汰は言う。実に満足げな声色にさすがの僕もカチンときた。何が! とばかりに彼の方を睨みつけた直後にぽかんと見入った。
風もないのに揺らいでいるように見える、長い漆黒の前髪。細められた大きな瞳の星屑がやけに小さくチラチラと。八の字の細い眉と薄い微笑みが何処か切なげな表情を作り出している。なのに頰だけが熟れた桃……どころかもっと赤い
どうしたの、夏南汰。そんな顔をして……
「本当に……良かっ…………」
ガタンッ!
「かっ……、秋瀬!?」
「夏南汰様!!」
突如椅子から転がり落ちた夏南汰の元へ僕らはすぐさま駆け寄った。ぐったりとした身体を抱き上げると熱く湿っているのがわかった。薄く開いた唇から零れるのは風邪特有の苦い吐息。
「秋瀬、しっかりして!」
「ユ、キ……」
小さく呼んだのを最後に夏南汰は僕の腕の中で眠り姫となった。
さすがに気が動転してしまったのか、お医者様を呼びましょうと夏呼さんは言った。落ち着いてと僕は引き止めた。ここに医学生がいるでしょうと。
夏南汰を寝室に運びベッドに横たえるとすぐに熱を測った。低体温であるはずの彼の熱は三十八度を優に超えている。これ、平熱三十七度の僕からしたら四十度近い高熱に相当するよ。
辛かったね……言葉には出さないけれどそんな思いで、僕は虚ろな目でこちらを見上げている夏南汰の髪をほどいた。上質なベッドに身を沈めると長い黒髪がはらりと広がる。こうして見ると本当にお姫様みたい。
「ごめんね」
気がつくと僕は口にしていた。不思議そうに目を丸くする夏南汰に僕は、今更とも言える後悔を更に告げる。
「寂しいと倒れてしまうって……言ってたのに」
夏南汰は熱っぽい顔を更に赤くしてそんなこと言ってないとムキになるんだけど、僕にはそうとしか思えなかったんだ。つい最近、原因となるようなことを夏南汰に促してしまったから。
君と夏呼さんは……やっぱり違うよね。
一緒に寝るのとか、やめなよ。
だいぶ濁した言い方をしたけど、つまりは二人の間に肉体関係は無いと判断したんだ。凄く危うい関係ではあるし、夏呼さんが夏南汰に想いを寄せているのは明らか。だけど夏南汰の方がまるでわかってない。ただ人肌恋しくてくっついてるだけだってわかったもんだから、そういうのはお互いの為にもならない。夏呼さんだって可哀想だからやめなさいって言ったんだ。
そうだよ、だって……僕が夏呼さんの立場だったら耐えられない。これで良かったんだ。そう思っていたんだけど……
「ユキ……」
迷子の子どもみたいに潤んだ目をして僕に手を伸ばす夏南汰を見ていて胸が詰まった。その直後。
「抱いてくれ」
今度は息が止まった。頭の中は一面の雪景色だ。
だいぶ間を置いて、え? と、訊き返す。何かの聞き間違いかと思ったけれど夏南汰はもう一度言う。先程よりも更に切なげな声色で、抱いて、と。
(えぇぇぇぇえぇぇぇ!??)
待って、待って待って待って! これってまさか広島弁で別の意味とかそういうことないよね? 抱いてっていったらそういう意味、でしょう? だとしたらとんでもない。何を血迷ったの、夏南汰。そんな物欲しそうな目をしてどうかしてるんじゃない!?
「いやいやいやいや!!」
「嫌……か」
いやそうじゃないけど。
「嫌な訳ないだろ!!」
そうだよ。そうなんだけど……でもね……
疼く手元に落ち着けと言い聞かせ、更に自分に言い聞かせる。駄目、駄目、と。真っ赤な顔を滅茶苦茶に振りながら心の中で繰り返す。
正直理性がどうにかなりそうだけど、やっぱり病人にそんなこと出来ない。夏南汰が死んじゃうよ!
「ぶちさびいんじゃけ、こう、ぎゅーっと」
…………
「あっ…………」
自身の身体を抱き締めながら震える夏南汰の仕草でようやく気が付いた。どうやら血迷っていたのは僕の方だったらしい。
それから僕は夏南汰の望み通りにした。同じベッドに横たわり上から柔らかく包み込む。浅い呼吸を繰り返す君が眠れるまで髪を撫でながら、大丈夫と優しく囁いた。やっとこの大きな身体が役に立った。
すぅ、すぅ、と安らかな寝息が聞こえて僕はそっと半身を起こす。上から夏南汰に覆い被さる姿勢になって、しばらくはそのままで。
「夏南汰……」
口にしてみるとやっぱりわかる。目覚めている君にはやっぱり言えない。呼んであげられない。だってこんなに切なく響くんだもの。
眠っているのをいいことに僕は小さな桜色の輪郭を指先でなぞる。ふに、と柔らかく形を変えるそれをもっと感じたくて、抑えきれなくて、僕はそっと自分のものを重ね合わせた。
(あぁ、柔らかい)
いつか夏南汰が振舞ってくれた洋菓子の感触に似ている。マシマロと言ったっけ? このまま重なり続けていたら僕の中へと溶けていくのかな。
う、と苦しそうな声が聞こえたとき僕の嗜虐心が唸りを上げて湧いてきた。汗ばんだ夏南汰の頭を両手で鷲掴みにし、更に求めようとした、そのときに。
“ユ・キ”
――――っ!
僕は反射的に離れた。すぐさま自分の唇を手で押さえるもドキドキと暴れる鼓動が止まらない。
触れ合った唇で感じてしまったのだ。君の持つ小さな花弁が確かに僕の名を形作ったことを。僕の胸元をきゅっと握る感覚もあった。
「夏南汰……」
それからじわりと湧いてくる。情けない嗚咽が後に続く。わかってきたんだ。ようやく僕は、自分が何をしたかったのか。ここ最近の僕の行動が一体どんな思惑によるものだったのか。
夏呼さんが可哀想? そんなの嘘だ。僕は嫉妬しただけだ。ちゃんと男女の関係になっていない今ならまだ間に合うからって期待した。尤もらしい言葉を駆使して君たちを引き離しただけだ。
その上夏南汰の弱みに付け込んだ。人肌が無くては眠れないと知っていて、僕はこのときが訪れるのを待っていたんじゃないのか……? 女の子とああいうことをしてはいけない。ならば頼るのはもう男しかいない。そんな
「ごめんね、こんなやり方しか出来なかった。君が大切なのに……どうして……ねぇ、夏南汰……っ」
こんなに苦しんでいる君を滅茶苦茶にしてしまいたいだなんて……僕は……
自分がこんなに酷い男だなんて思わなかった……!
ぎゅうっと瞼をつぶると幾つもの熱い雫が君の元へと降り注ぐ。それなのにまだ目を覚まさない君は、あろうことか恵みの雨を喜ぶみたいにほんのり微笑んだんだ。
いくらか救われた罪悪感。僕はそっと彼の髪を撫でる。
「ここに来る途中、
そして自覚する。夏呼さんと引き離したあのとき、僕は君が好きだと言った。君はその意味を何処か履き違えていた。
「早く良くなってね、夏南汰……“愛らしい人”」
無理もないかも知れない。だってもう……好き、どころの話じゃない。愛らしい、いつからか自然とそう思っていた。誰もが見てわかる容姿だけの問題じゃないよ。
胸に宿った僕の真実が告げる。
「愛しているよ」
今だけは純粋に、出逢えた喜びを噛み締めていたい。
僕が夏呼さんから恋敵宣言を受けたのはそれからしばらくの七夕の日だった。彼女は言った。はっきりと。僕を気に入らないと思うのは男だからではないのだと。
「そうだね、僕らは対等な立場だ。君の言う通り、想いに年月は関係ない。そして性別も関係ないと言うなら……」
強気な眼差しで睨み上げる彼女に僕は微笑みながら言い放つ。
「僕は諦めないよ」
女の涙を武器にしない彼女だからこそ戦い甲斐がある。僕は恋敵にも恵まれたのかも知れない。
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やっと届いた 触れられた
実に簡単なことだった
だけど君の想いは遠く
触れることも
繋がることも
叶わないままだから
僕は泣いた
切なくて泣いた
こんなに近くに居るのにと
恋し続けた桜色
ふわり香る甘いお菓子は
確かに僕の名を呼んだのに
舐めてみればきっと塩辛い
無念の滴り この雨は
小さな君の微笑みの上で
甘い甘い蜜となった
熱が引いてきたね
まだ万全とは言えない
こんなに汗をかいて疲れただろうね
なのに僕ときたら
こんなのとても口には出せないけれど
この時がずっと続けばなんて思ってしまったんだ
ね、優しくなんてないでしょう
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