子供
子供を育てている。
血のつながった実子だ。そんなことは起こらないと思っていた。結婚も出産もわたしには関係がないものだと思っていた。
はたから見れば、わたしは、普通の人生を歩んでいるように見えるだろう。
若い頃に諦めていた普通の生き方を、たとえ偽りでも、味あわせてくれたことについて、わたしは彼に感謝している。残念ながら、それでもやはり彼に対して、普通の人間が抱くような愛情を持つことはないのだけれど、彼を他の人間より特別だとは認識している。それで許してほしい。
彼とわたしの間に娘がいる。
彼の左手を娘の右手が掴み、わたしの右手を娘の左手が掴んでいる。わたしは彼の左手にはまる指輪にふれてはいないけれど、手の先にあたたかみを感じている。
人間は気持ちが悪いと思っていた。
今も、そう感じている。
ただ、この子については愛情を感じている。
それだけは、呪いたくもなるような世に対してお礼の言葉を捧げたい。もしも、それすらも感じられないようだったらと考えていたことは、ずっとわたしの中にしまっておこうと思う。運が良かった。
やわらかく小さな手を握っている。
高く陽気な声を聞いている。
雨がぽつぽつと降ってきた。向こうの空がどんよりと暗い雲を浮かべている。これからもっと雨が強くなるだろう。わたしは彼と顔を見合わせる。握っていた子供の手を離した。彼が娘を抱きあげる。娘を抱える手の先に、小さな光があった。愛するものがふたつ視界に映る。
それからふたりで小走りに駆け出した。
家まではやく帰ってしまおう。
娘がきゃっきゃと声をあげた。
彼の肩の上から顔を出し、後ろに続くわたしを呼んでいる。
わたしは笑顔で手をふった。
娘も笑顔で手をパーにしてみせた。
顔の形は彼に似ている。
目元はわたしに似ている。
この子は、普通の人間として生きることができるのだろうか。
「浮気じゃないですか」
あのときのお店で、後輩とふたりで飲んでいる。彼女が笑いながらつぶやいた言葉に一瞬、どきっとしたけれど、彼女には話していないのだからこれは目の前の行為に対して言っているのだろう。
わたしは彼女の左手にはめられた指輪をなでている。
彼女の真新しい結婚指輪は、まぶしく輝いていた。
「そうかもね」わたしは笑った。「本気でそうしたいと言ったらどうする?」
「嫌ですよ」彼女は手を引き抜いて、こちらに指輪が見えるように手をあげた。「もう先約済みです」
「ほんとうに、おめでとうございます」
わたしはふざけて頭をさげた。
彼女の指輪は、ほんとうに幸せそうに輝いていた。だからわたしが変わったというわけではないようだ。年齢を重ねて、いくらか衝動が落ち着いてきたようには感じているが、興味が消えてしまったというわけではない。
では、あれはなんなのだろうか。
最近、夫の手にはめられていた指輪が輝きを失っているように感じられた。くすんで見えるように思えるし、日によっては視界に入れたくもないぐらいにおぞましく感じられるようになっていた。
答えは、推測できている。
今日は、最後の確認のために彼女を誘った。
結果として、夫はわたしへの愛を失ったのだろう。きっと浮気をしているのだ。それは仕方がないことだと思う。彼自身へ愛を向けず、指輪だけを愛するなどというおかしな人間に対して、これまで愛を向けてくれただけでもすごいことだ。そんなおかしな人間を相手にするのではなく、まっとうにお互い愛情を与えることのできる人間に出会えたのならそれは彼にとっていいことなのだろう。
わたしからしても彼個人に対しては興味がないし、指輪も汚れてしまったのなら一緒にいてもしょうがない。静かに別れられればと思う。怒りのような感情はなく、ついに異常な関係が終わり、当たり前の状態に戻ったかという程度の感想しかない。
ただ、それは個人として見た場合の話だ。
今はもうふたりではない。
娘がいる。
彼に対して、親としての責任を求める気持ちがある。わたしが普通ではないから悪いのだとは思う。こんな人間と一緒にいたくないという気持ちはわかる。だけど、娘がいるのに、浮気などということをしてしまえる彼に、わたしは怒りを覚えた。
「なにか悩みでもあるんですか?」
後輩が伺うように首をかしげて言った。
わたしは一呼吸おいてからつぶやいた。
「あなたの指輪がおいしそうで困っている」
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