結婚
結婚した。
そんな日が来るとはまったく思っていなかった。相手は幼馴染の彼だ。はじめての恋人だった彼が、一度の破局をはさみつつはじめての結婚相手になった。きっとふたりめの結婚相手は現れないだろう。彼と別れることは、それなりの確率であったとしても。
人間を愛せるようになったのかと問われれば、「No」と答える。わたしはあの日から変わっていない。否、生まれたときから変わっていないのだと思う。ただ、あの日に認識しただけなのだ。自らの愛すべき対象が、冷たく固い指輪であり、誰か別の他人同士が愛を誓ったすえのものだということを。
それなのに結婚したのは、彼からの強い説得があったからだった。彼はどうしてもこのおかしな人間が好きらしい。たとえ彼自身が愛してもらえなくてもいいのだという。そんな一方的な好意はどうかとも思うけれど、わたしの好意も、結婚指輪という返答の起こりえない物質に対して、一方的なものとしてしか成立しないのだから否定はできない。
彼もまたおかしな人間なのかもしれない。
たまたまその対象の相手が、見た目上は、普通とされているタイプに含まれているだけで、事実としてはその中の異常な人間を好んでいるのだ。
彼は言った。
自らのことを見てくれなくていいから、左手にはめた指輪だけを愛してくれればいいと。
たしかに理屈としては成立する。
彼がわたしに対して愛を誓い、指に通したリングは、わたしの性愛対象としての条件をある意味では満たすように思う。問題はわたしのもとにある指輪だ。こちらはなんら光のない形だけのものとなる。わたしから彼に対しての愛がないのだから、わたしの手にはめられている指輪が愛おしく輝くことはないということだ。むしろ見たくもない醜悪なものになるだろう。
それでも、わたしが好意を向けることが許される指輪が、理解者である彼の手にある状態は望ましいものと考えられる。
おかしな機会を伺って、他人の指輪にさりげなく勝手にさわるようなことをしなくて済む。
だから、そこまで考えてくれるならと、わたしは彼と結婚することを選んだ。
式では、偽りの誓いを口にして、指輪を交換した。
わたしの手で彼の手にはめた指輪は、なによりも輝いて見えた。これがわたしが愛を誓うべきものなのだと心の底から思い、感動に震えた。
式を終えたあとの控室で、わたしは彼のはめる指輪へキスをした。
それが真実の誓いだった。
永遠に愛することを誓いますと。
わたしはきしむベッドの上で彼の指輪をなめている。
じっくりと見つめ、指でなぞり、舌で味わう。繰り返し、繰り返し、やわらかな土台にはめられている指輪をもてあそぶ。指輪は、唾液にぬれて、うす暗い室内のわずかな光を反射させていた。
どうしてこんなに愛おしいのだろうか。
無生物で無機質な金属でしかない。
ほんとうなら人間が愛するようなものではないのだ。人間はふつう、人間を愛するようにできている。彼がわたしを愛してくれているように。
でもそんな悩みはもうどうでもよくなっていた。
考えることは止まらないけれど、幸せがあるからこそ思い浮かぶ惚気のような甘えた疑問だとわかっている。
人間が人間を愛する理由が答えられないように、人間が指輪を愛する理由だって答えなくていい。眼の前に愛すべき存在がいてくれるのだから、わたしはただそれを愛せばいいだけだ。
指輪は、見た目より冷たくはない。味は、おいしいというものではないのだけど、言葉にしようのない感覚が口のなかに広がる。
こわさないようにおそるおそる噛んでみる。
歯とぶつかって口の中から音が響く。
変形するようなやわらかさは感じない。
ずっと変わらずにあってくれるような強さと、飲み込んでしまえるような弱さを併せ持っている。飲み込んでしまえば幸せだろう。だけどそれをしたら終わってしまうから、味わうだけにしておくんだ。
わたしは上気している。
自覚はある。
しかし、止めようという気持ちがない。
だって、こんなにおいしそうなものが目の前にあるんだ。
自由にしていいのだ。
誰かのものじゃない。
誰かに気を使って、他人同士の愛の印を、内心にやましさを抱えながら、ほどこしを受けるような気持ちで触らなくていいのだ。
あれは幸せではなかった。
みっともなく、誰かの残飯をあさるようなものだった。
今は違う。
この指輪はわたしだけのものなんだ。
大切にしよう。
壊さないようにしよう。
失くさないようにしよう。
ずっと、ずっと……。
ふいに、指輪がわたしの口から離れた。
思わず、声を出しそうになった。
だけど、代わりに指輪がわたしの体を愛してくれた。
固さのある金属が体のやわらかな肉にわずかな筋をつける。気持ちのいい痛みが伝わってきた。わたしからはどうしようもできないことが、いささか不満で物足りなくはあったけれど、伝わってくる感触に幸せを感じた。
ああ、どうしてこんなに愛おしいのだろうか。
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