告白

 大人になった。

 日々、労働に勤しんでいる。朝、出社し、これがどう世のためになっているのかわからない作業をこなして、夜になると帰宅する。

 なぜこれでお給料がもらえるのか不思議だけど、それによって生きていけるのだからさほどの不満はない。時間がきびしい仕事でもなかったし、同僚にも恵まれて、人間関係の悩みも少ない。やさしい上司や元気な後輩と楽しく働いて生きている。

 

 飲み会の席でわたしは上司の手を握っていた。手相を見るような形で上司の左手を持つ。上司は見るからに仕事のできる女という感じで、一見、怖いのだけど実際はそれほどでもない。仕事は素晴らしくできるがきびしくはなく、どちらかといえばやさしい。ただ、それが表にでないようなタイプだった。今も、しかめっ面をしつつ、わたしのなすがままに、手をもてあそばれている。頬が赤い、酔っているのだろう。わたしもいささか酔っていた。

「なにしてるの?」上司が問う。「手相が見れるとか?」

「見れません」わたしが答える。「綺麗な手ですね」

 わたしは自分の人差し指で、上司の手のひら、そして薬指をなぞった。途中で指輪の山を超えて、指の先にある爪へと達する。そのままUターンして、今度は手の甲の方を目指して、また指の上を滑らせた。

「くすぐったい」

 上司が手を外そうと動かしたけれど、わたしは抵抗して離さない。

 気付かれないようにしなくてはいけない。でも、内心で興奮していた。めったにないチャンスだ。じっくりと楽しもう。

 上司の携帯電話が震えた。

「電話だから離してー」

「右手が空いてますよ」

「もう」

 上司が体をくねらせて空いた右手で電話を取る。夫からの電話のようだった。彼女は既婚者だ。どうも今日の飲み会について伝えていなかったらしい。仕事はできるのに、こういうところはこんな人なのだ。

 わたしは笑ってしまう。

 上司は「遅くなるよ」というような言葉を、愛の言葉と一緒に伝えていた。

 うらやましいなと思う。

 わたしには幸せな結婚なんてできない。だから、目の前にささやかな幸せを楽しむことした。

 上司の手をくすぐる。

「ちょっとなにするの」

「おあついですねー」

「そう、ラブラブなの」

 上司が左手を引き抜く。あっ、と声を出しそうになった。

「酔い過ぎてない? 大丈夫?」

 上司がこちらの顔を伺ってくる。心配しているのだ。やさしい人。

 わたしは笑顔を作った。酔っているかと心配している人に笑顔を返すのはどうも違うような気がしたけれど、酔っていたのでそんなに正常な判断はできないし、なによりそれがわたしにできる限界だった。

「どれぐらい大丈夫かといえば、これぐらいですね」

 わたしは手のひらを前に出して、なにかを止めるようなジェスチャーを見せた。

 上司の意味がわからないというような顔が見える。

 わたしも意味がわからなかった。


 気付くと別のお店にいた。

 さっきまでの喧騒ざわめく居酒屋と違う暗く静かなお店だった。

 二次会だとかいう話だった気がするけれど、上司もいないし、あんなにたくさんいた同僚たちも姿を消していた。ただひとり知っている顔が隣に座っている。後輩だ。いつも元気な彼女は、お店の空気に合わせたのか、今は静かに真面目な顔をしていた。

 わたしは目の前にあった水を飲む。

 ゆっくりと記憶を取り戻していく。

「なんでしたっけ?」

 わたしはぼーっとしたままで言った。後輩の彼女の口から出た言葉が夢だったのかどうかあやふやだったので聞き返したのだ。

「先輩は、あの人が好きなんですか?」

「あの人って?」

 わかっていたけれど、一応、確認する。

 後輩の口からは予想通り上司の名前があがってきた。

「嫌いなの? いい人じゃない」

 仕事もできて、やさしいし。見た目とは裏腹に愛嬌もあり、そんなギャップもいい。

「そういう好き嫌いじゃないです」

 でしょうね、という言葉を飲み込んだ。

「じゃあ、どういう?」

「わたしじゃだめですか?」

 彼女の右手が私の左手の上に乗る。問い掛けに問い掛けが返ってきた。だから問い返した。

「繰り返すけど、どういう意味で?」

 わたしは手を引き抜いた。テーブルの下にしまう。

 彼女は黙っていた。言葉を考えているというよりも拒否されたことにショックを受けているように見えた。

「残念だけど、わたしはあなたとは違います」

 さきほどの姿やこれまでの行動から勘違いしたのだろう。それは仕方がないとも思うし、彼女のようであったらとも思う。

「別にあの人に対して仕事上以外の好意を持っていることもありません」

 言葉がいくつも頭に浮かんでくる。そのなかのどれを口にしていいか、不安で押しつぶされそうになる。これが愛の告白をはじめるまえの不安であったのなら、どれだけよかっただろう。いや、それだってつらいものかもしれないが、わたしにはそれをすることもできない。

「わたしはあなたが望むような意味で人を好きになったことがありません。たぶんこれからも」

 異性も同性も好きになったことはない。年上も年下も、人を好きになったことがない。わたしが愛しく思うものは……。

「結婚指輪が好きなの」

 あのリングが、たまらなく愛おしい。

 指で撫で、舌でなめたいとすら思う。

「たぶん、あなたが、人を愛するのと同じぐらい」




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