第18話 おかえり
凛はエマの両親と別れた後、一人家路を歩いた。夕焼けが道を眩しく照らしていて凛は思わず目を細めた。凛はふと圭一のことを思い出した。お互いに仕事が定時に終わると近所のスーパーマーケットに寄って、食材を買い込んだ。圭一は軽い荷物を凛に持たせて必ず重い方の荷物を自分で持った。凛は二人の家路に向かうとき夕日をいつも見ていたが、こんなにも夕日が眩しくて美しいことを知らなかった。凛はもう二度と戻らない日常が懐かしくて愛おしく感じた。そんな日常を破壊したのは今の圭一なのに凛はどうしようもなく圭一に会いたかった。しかしそんな考えを追い出すかのように何度も頭を振った。
凛は圭一と距離を取れば彼のことを考えずに済むと思っていたが、そんなことはなくむしろ今の圭一のことで頭がいっぱいだった。それは嫌悪感や怒りではなかった。そのことに気づいた凛は自分が嫌いになりそうだった。
凛が家に戻ってくると既に雅之は帰ってきていた。
「鈴木さんとどんな話をしたの? 」
美和は心配そうに声を掛けてきた。
「ちょっとね……」
凛はそう答えると口を閉ざした。
「もしかして何か嫌なこと言われたの? 」
「そうじゃないよ。ただ少し疲れちゃっただけ」
凛は力無く笑った。
その夜、凛はリビングの窓からぼんやりと満月を見ていた。
「こんな所で何をしているんだ? 」
雅之が凛に声を掛けた。
「満月を見ているの」
「そうか今日は満月なのか」
雅之は窓に近づき満月を見上げた。
「いい月だな」
雅之は窓から離れ冷蔵庫に向かった。冷蔵庫から缶ビールを二本取り出すと、凛に一本渡した。
「それじゃあいただきます」
二人は缶ビールのプルタブを引き起こすと缶に口を付けた。
「お父さんはさぁ、慣れたくないのに慣れちゃうことってある? 」
「慣れたくないのに慣れちゃうこと? 」
雅之は首を傾げた。
「悲しみとか怒りとかそういう感情のこと。あんなに悲しくて苦しかったのに慣れている自分がいて嫌になる」
凛は自虐的な笑みを浮かべた。
「鈴木さんのことか? 」
「うん……」
「お父さんもそういう経験がある。お父さんが高校生の時に仲が良かった友達がいたんだ。お父さんは彼を親友だと思っていた。向こうもお父さんのことを親友だと思ってくれていたと思う。お父さんが会社員になっても一年に一度は会っていた。頻繁に連絡も取っていたけど、十年前にその友達が突然自殺してしまったんだ」
「どうして亡くなったの? 」
「分からない。遺書は残っていなかった。本当にショックだったよ」
凛が高校生の頃に雅之が大変ショックを受けて葬儀から帰ってきたことを思い出した。
「最初はどうして死んだのか分からなくて悩んだよ。もしかしたらもっと話を聞いてやれば良かったのかって。あいつの贖罪のためにこの辛い思いを忘れてはいけないと思ったよ。でも無理だった。辛い思いは慣れていくし忘れていく。そんな自分が薄情な気がして嫌になった。でもお母さんが言ってくれたんだ」
「お母さんが? 」
「今までは思いを引き出しの手前に置いていたけど、引き出しの奥に入れるようになっただけだって。忘れた訳でも無くなった訳でもなくて置き場所を変えただけだから時々引き出しを開けて思い出してあげましょうって言ってくれたんだ」
「そうなんだ……。いい言葉だね」
「うん。その言葉を聞いてからあいつとの楽しかった記憶を思い出せた。だから悲しみに慣れたからといって薄情になったわけじゃない」
「うん」
「それにお父さんたちは生きている。前を歩いて生きていかなければならない。無くなったものを数えるより今あるものを大事にした方がいい」
「そうだね。お父さん、ありがとう」
「もう遅いからそれを飲んだらもう寝なさい」
雅之は凛の言葉に照れを隠すように彼女に強く言うと、リビングを出た。凛は目を閉じると今までの圭一と過ごした日々が色鮮やかに思い出された。
悲しい思い出より楽しかった思い出を大事にしたい。
凛は涙を拭くと、もう一度月を見上げた。その顔は何かを決意した顔をしていた。
次の朝、休みにも関わらず雅之はいつもの様に新聞を片手に朝食を食べ、美和は家事をしていた。凛はリビングへ降りると背筋を伸ばした。
「私、帰ります。短い間でしたがお世話になりました! 」
凛は両親に頭を下げた。
「まだ一ヶ月もいないじゃない。もう帰るの? 」
「うん。お陰様で色々と考えることが出来たから」
未だに美和は心配そうな顔をしていた。
「凛が決めたんだからいいんじゃないか」
雅之はいつものつまらなそうな顔をして言った。
「そうね。凛が決めたんだもんね。分かったわ。気をつけて帰るのよ」
「ありがとう」
凛は微笑み席に着くと、朝食を勢いよく食べ始めた。
凛は朝食を終えると荷造りを済まし、凛は両親に挨拶をすると家を出た。今日は日曜日なので圭一は家にいるだろう。しかし帰っても圭一が受け入れてくれるかわからない。しかし受け入れてくれなかったとしても圭一に会いたいという思いが彼女の足を動かした。二人の住んでいるアパートに近づくにつれ、凛は段々緊張をしてきた。凛は圭一と住んでいる部屋に続く階段を昇り始めた。凛が階段を上がるたびにカンカンと高い音が鳴る。階段を昇り終えたところで突然ドアが開き、部屋からは圭一が出てきた。
「どうして私だと分かったの? 」
まるで分かっていたような圭一に凛は驚いた。
「凛の足音が聞こえたから」
「そっか……」
「もう帰ってこないかと思った」
帰ってきた凛に圭一は驚いていた。
「どうして? だってここが私たちの家だよ」
「おかえり」
「ただいま」
凛は圭一のドアノブを握る手にそっと触れた。圭一は凛の顔を見ると彼女は優しく微笑むと圭一はぎこちなかったが微笑んだ。二人の生活はまた始まった。
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