第7話 毒

 凛と安田が会うようになってから、一か月が経とうとしていた。二人は凛の仕事終わりや休日にカフェで宇宙人に関する情報交換をする。今日も凛と安田は彼女が宿泊しているビジネスホテルの近くにあるカフェで会っていた。

「松本さん。宇宙人に寄生された人間は人並み外れた運動能力を持っているとは思いませんか? 例えばですけど、泉達也は噛みついて女性を殺害しました。だけど人間の歯では人の肌をかみ切るのは難しいですよね」

 凛は少し考えるそぶりをした。

「確かに……。難しいと思います」

「それで調べてみたんです。宇宙人に寄生されると寄生された人間の運動能力が向上し、自然治癒力も向上するみたいです」

「それってどういうことですか? 」

「人間は日常生活をしている中で自分の持っている力を全て出し切っているわけではありません。もし全力を出してしまったら、体そのものに負担がかかり、精神的なバランスもとれなくなってしまう。脳が全力を出し切らないようにストッパーになっているんです。しかし宇宙人に寄生されることによってそのストッパーが破壊され、通常ではありえない運動能力を手に入れることができるんです。自然治癒力は怪我や病気を自然に治す力です。人間には怪我や病気を自然に治す力が備わっているんですけど、宇宙人に寄生されると免疫に直接働きかけて怪我や病気を早く治してしまうみたいです」

 安田の取材力に凛は驚いて目を丸くさせた。

「やっぱり安田さんはすごいジャーナリストなんですね」

「何ですか急に? 」

「だってこれだけのことを調べるなんてすごいなって思って」

「僕を褒めても何も出ないよ」

 安田は頬を緩める様子を隠すようにホットコーヒーに口をつけた。

 凛と安田は誰にも言えない秘密を共有していることで距離が近づきつつあった。安田の一人称は私から僕に変わり、敬語が崩れてきた。そして凛と安田に心を開こうとしていた。彼の温和な性格と表情がコロコロと変わる様子が優しかった圭一を思い出させた。凛は安田と過ごす時間が唯一、心が安らぐ時間だった。

「ところで、元に戻る方法は見つかりました? 」

「残念だけどまだ」

「そうですか……」

 凛は残念そうに下を向いた。

「必ず元に戻る方法は見つかります。だから気を落とさないでもう少しだけ待ってて」

「はい」

 安田の言葉に凛は微笑んだ。


 安田から連絡がきたのは一週間後のことだった。凛がホテルの部屋でくつろいでいると安田が慌てた様子で電話を掛けてきた。

「もしもし。安田さん? どうしたんですかそんなに慌てて……」

「分かったんだよ! 元に戻る方法が! 」

「本当ですか! 安田さん、明日会えませんか? 」

「大丈夫だけど……。松本さんは明日仕事だよね? 」

「私は大丈夫です。それより早く彼が元に戻る方法が知りたいんです! 」

「分かった……。それじゃあ松本さんが泊っているホテル近くのカフェで十一時に待ち合わせでいいかな? 」

「分かりました。お願いします」


 凛は待ち合わせよりも三十分も前にカフェに着いてしまった。早く答えが聞きたくて安田の到着が待ち遠しく、落ち着かなかった。安田は待ち合わせの時間よりも五分早くやってきた。二人は席に着くと店員にアイスコーヒーを注文した。頼んだものが出されると否や凛は口を開いた。

「本当に元に戻る方法が分かったんですか? でもどうして分かったんですか? 」

「安心して確かな情報筋からの情報だから」

 凛は情報筋という言葉が引っかかった。

「確かな情報筋ってどこからですか? 」

 安田は言いにくそうな顔をした。

「実は、日本政府なんだ……」

「日本政府が? でもどうして政府が出てくるんですか? 」

「脅威を感じた日本政府は密かに調査チームを作って、宇宙人に関する調査をしているんだ。それで政府が圧力をかけて、警察が捜査していた泉達也の事件を打ち切りにさせたらしい」

「そうだったんですか……」

 凛はまさか国家権力が名乗り出てくるとは思っておらず、あまりのスケールの大きな話に驚くばかりだった。

「これはオフレコだから言っちゃだめだよ」

 安田は真面目な顔で念押しをしてきたので、凛は頷いた。

「それで、元に戻す方法なんだけどこれを丸川さんに飲ませて」

 安田は鞄から茶色い小瓶を取り出し、テーブルに置いた。凛は小瓶を手に取り眺めた。小瓶の中には白い粉末が入っている。

「これはなんですか? 」

「これはヒ素だよ」

「ヒ素って毒ですよね? 」

「うん。農薬や木材の防腐のために使われていたりするね。人間が飲んだら、腹痛・嘔吐・痙攣を起こして最悪の場合は死に至らしめる恐ろしい薬物だよ」

 凛は恐ろしくなってヒ素の入った小瓶をテーブルに戻した。

「なんでそんなものを? 」

「これで丸川さんを殺すんだ」

「何を言ってるんですか!? 」

 凛は思わず声が大きくなり、不思議に思った客たちが彼女たちに視線を注いだ。凛は少し頭を下げると、客たちはまた自分たちの世界に戻っていった。

「落ち着いて聞いて。これを使って殺せば元に戻るんだ」

「どういうことですか? 」

「殺すことで丸川さんに寄生していた宇宙人は死んで、丸川さんの人格が戻ってくるんだ」

「でも殺すなんて……」

 凛はヒ素を飲ませて宇宙人を殺しても、元の圭一に戻るとは到底思えなかった。それに例え圭一の体を乗っ取った相手だとしても、殺すことは出来ないと思った。

「僕の言うことが信じられない? 」

 安田は凛の顔をまっすぐ見た。凛は安田の言葉と表情にハッとした。今まで安田は嘘をついたことはなかった。凛は安田がいつも正直で自分と向き合ってくれたことを思い出した。

「分かりました……。これで彼は元に戻るんですよね? 」

「大丈夫。飲み物にヒ素を入れて飲ませれば全ては元に戻るから」

「はい……」

「いい知らせ待ってるよ! 」

 不安と緊張で凛の顔は強ばっているのとは対照に、安田の顔はどこか楽しそうだった。


 凛は圭一と暮らしていたアパートのドアの前で悩んでいた。彼女は安田と話した次の休日に、圭一と会おうと思った。しかし実際に彼のいる部屋の前に立つと頭が真っ白になった。どんな顔をしてどんな表情をすればいいのだろう。そんなことが頭を駆け巡った。凛は持っていた合い鍵を使おうかと思ったが、インターホンを押した。しかし圭一は出て来ない。凛はまた出直そうと思い、踵を返した。その直後にドアが開く音がした。凛は振り向くとグレーのよれよれになったスウェットを着た圭一が立っていた。圭一は凛がしばらく見ない間に髪が伸びたらしい。久しぶりに見た彼の姿に凛は彼のもとに駆け寄りたくなった。しかしすぐに現実に戻った。圭一の眼には光がなく、まるで人形の眼のように何を見ているのか分からなかった。

「何か用? 」

「荷物を取りに来たの。入ってもいい? 」

「どうぞ」

 圭一はドアを大きく開き、凛は二ヶ月ぶりに家に入った。

 凛はもっと汚れているかと思ったが、案外綺麗なままだった。彼女はクローゼットの中から服を何着か取り出し、鞄に詰め込んだ。圭一は彼女には目もくれずテレビを眺めていた。

「コーヒー飲んでもいい? 」

 凛がそう声をかけると、圭一は彼女の方を向かずいいよと返した。

 凛はヒ素が入った茶色い小瓶を手に隠し持ちキッチンに向かった。凛はインスタントコーヒーの瓶を探していると、キッチンの上にある棚に置いてあることに気付いた。凛は瓶を取ろうと手を伸ばしたが、手が届かない。精一杯手を伸ばしていると後ろから手が伸びてきた。凛が振り向くと圭一は瓶を彼女に渡した。そしてそのままリビングに戻りまたテレビを観始めた。凛はスプーンで茶色い粉末を二つのマグカップに入れた。茶色い小瓶からヒ素をスプーンで掬って、一つだけマグカップに入れた。ヒ素を入れたマグカップは圭一に渡すものだ。凛はお湯を注ぎ入れると丁寧にスプーンで掻き回した。彼女は圭一のコーヒーの匂いを嗅いでみた。コーヒーの香ばしいいい匂いがした。ヒ素が入ってるなんて誰が思うだろう。凛はマグカップを二つ持ってリビングに向かった。コーヒーの水面は彼女が歩く度にゆらゆらと揺らめく。彼女は覚悟を決めたはずなのに、悩んでいた。圭一が自分のためにインスタントコーヒーの瓶を取ってくれた。たったそれだけのことなのに泣きそうになるほど嬉しかった。覚悟が揺らいでいく中、確実に圭一に近づいていき、凛はソファに座っている圭一の後ろに立っていた。いつまでも立ったままの凛を不思議に思ったのか、圭一は後ろを振り返った。

「何してるの? 」

「ううん。別に……。圭一の分もコーヒー入れたから飲んで」

 凛は圭一にヒ素の入ったコーヒーを渡した。圭一は素直に受け取ると、マグカップに口を付けようとしたその瞬間、

「駄目! 」

 凛は圭一のマグカップを持つ手を払った。コーヒーはカーペットに溢れ、茶色い染みが広がった。

「何を入れたの? 」

 圭一の声に、凛は何か言わなければと声を出そうとしたがそう思えば思う程、声帯がぐぐっと締まり声が出なかった。突然圭一はリビングを抜けて玄関に向かい、ドアを開いた。凛は玄関に目を向けるとそこには安田が立っていた。

「安田さんがどうしてここに? 」

 安田は凛の疑問に答えず土足のまま家に上がり込んだ。

 圭一と安田は何も話さず一〇秒間ほど目を合わせると、圭一が口を開いた。

「君か? 彼女に変な入れ知恵をしたのは」

「ばれた? 」

 安田はいたずらが成功した時の子供のような笑顔を浮かべた。

「どういうこと? まるで圭一と安田さんが知り合いみたいじゃない……」

「彼は同胞だ」

 圭一の言葉に凛は信じられず安田の顔を見た。安田は楽しげだった。

「私のことを騙したの? 」

「少しだけね。僕がフリージャーナリストだということは本当。あと日本政府が僕たちのことを調べていることも僕たちが人並み外れた身体能力を持っていることも本当。騙していたとしたら、それは僕が安田望に寄生した時点で既に彼の人格は無くなったこと。そして宇宙人を殺したところで元の人格は戻らないということぐらいかな」

 いつまでもヘラヘラと笑っている安田にとてつもない怒りを凛は感じた。

「なんでそんな嘘をついたのよ! 」

「なんでって実験だよ。もし信用した地球人が地球人を殺せって言ったら相手は本当に地球人を殺すのかっていう。興味深い実験結果だったよ。自分の恋人を乗っ取った相手だとしても殺すということは心理的ハードルが高いんだね」

「それじゃあ圭一は元に戻らないの? 」

「元に戻らないに決まってるじゃん。死んだものを生き返すのは無理でしょ? それと同じだよ」

 安田は何を変なことを言っているのと言いたげだった。

「なんで……。あなたたち仲間なんでしょ? それならなんで仲間同士で殺し合いをするの? 」

「確かに僕たちは同じ種族だよ。だけどそれ以上も以下でもない。ただそれだけだよ」

 凛が安田の言葉に絶句していると、圭一が口を開いた。

「言いたいことはそれだけ? 」

「うん。言いたいことは全部言ったからね」

 安田はそう言うと玄関へ行き、ドアを開いた。そして何かを思い出したかのようにあっと声を上げた。

「ヒ素はあげるよ。また何かで必要になるかもしれないからね。じゃあね松本さん。楽しかったよ」

 安田は手を振って部屋を出て行った。ドアがバタンと閉まると、凛はカーペットに頭を擦りつけて謝った。

「ごめんなさい! ごめんなさい! 私は本当に許されないことをした……。本当にごめんなさい! 」

 圭一は不思議そうだった。

「どうして謝るの? 恋人が殺されたならその報復として殺したいって思うんじゃないの? ましてや僕を殺せば元に戻るって言われば、殺そうと思うのは当然だろう」

 凛はなんて言えばいいのか分からなかった。だがゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「確かにあなたを憎む気持ちはある。安田さんにあなたを殺せば優しかった圭一に戻るって言われた。だけどそれでも殺していいっていう言い訳にはならないから……」

「分からないな……」

 しかし圭一は凛の言っている意味が分からずため息をついた。二人の間に沈黙が流れた。その沈黙を破ったのは圭一だった。

「一緒に住まない? 」

 圭一の突然の提案に、凛は驚きで目を見張った。

「どうして? 私はあなたを殺そうとしたんだよ」

「君に興味が出た。どうして僕を殺せなかったのか理由が知りたい。僕は君を傷つけるつもりはない。もし僕の同胞に襲われそうになった時は僕が守る。どう? 」

 凛はもうどうでもよかった。凛がどう足掻いてもあの頃の優しかった圭一に戻らない。一人で暮らしたら宇宙人と遭遇するかもしれない。それなら宇宙人から自分を守ってくれる彼と一緒に生活したほうが得だと思った。

「いいよ」

 凛は力なく頷いた。









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