第4話 急襲

 凛は自分で作った朝食を黙々と食べていた。宇宙人に乗っ取られたと告白した圭一はテレビを観ながら朝食を食べ進めていた。今までなら二人でテーブルに向き合って食事をしていたが、圭一から宇宙人だという告白を受けてから、向き合って食事をすることは無くなり、会話も無くなった。圭一は食事をただの栄養補給の時間にしか考えていないらしく、彼が食事中に口を開くことは無かった。食事だけではなく今までの生活パターンも変わった。今までは二人で料理を作っていたが、圭一は全く料理を作らなくなった。また仕事が定時に終わった時には二人で買い物をしていたが、食事に興味を無くした彼はスーパーマーケットに行かず、凛が一人で買い物に行き重い荷物を持って帰宅する。そして凛が食事の支度をしている間、圭一はリビングでテレビを観ているのだ。

 凛は食事が終わると皿やコップをキッチンに置いて朝の支度を始めた。一方で圭一は未だに一言も発さずテレビを観ながら食事を続けていた。凛は支度が終わると玄関に向かった。

「行ってきます」

 凛がそう声をかけたが、リビングから圭一から返事は無かった。

 凛は彼から自分が宇宙人だと告白された時は混乱し、彼の言葉を信じてしまったが、少し日が経ち冷静になってきた。彼が圭一だとは思えない。しかし宇宙人だとも思えない。凛はもしかしたら圭一は精神的な病気なのではないかと考え始めていた。凛は圭一の仕事が忙しかったのでそのストレスで自分を宇宙人だと思い込んでいるのではないかと考えていた。

 恐らくそうに違いない。宇宙人なんているはずがないのだから。それなら圭一をカウンセリングや精神科に連れていかないと

 そんなことを考えながら歩いていると、男性が前からやって来て声を掛けてきた。

「おはようございます。すいません。ちょっといいですか? 」

 その男性はホームレスの男性が殺された公園で凛たちが見かけた目の鋭い刑事らしき男性だった。獲物を見つけるかのような鋭い目は凛に警戒心を抱かせないためか、目と口が三日月の形をしている。しかし不自然に目と口を釣り上げているため、凛は不気味に感じ警戒心を強めた。

「おはようございます。私に何か用ですか? 」

「お忙しいところ申し訳ございません。私警視庁捜査一課の桜井徹と申します。最近起きたホームレスの男性が殺害された事件を捜査してまして、ちょっとお話しを伺いたいなと思いまして……」

「話って言われても……。私は何も知りません」

 凛は事件について何も知らなかったので答えなかったが、桜井は引き下がらず更に質問をしてきた。

「些細なことでいいんです。何か物音がしたとか不審な人物を目撃したとかでも」

 そう言われても凛には心当たりがなく口を閉ざしていると、桜井は事件のことを聞いても意味が無いと判断したのか事件以外の質問をしてきた。

「現場であなたを見かけたんですよ。あなたの近くにいた男性はご主人ですか? 」

「いいえ。主人ではなくて彼氏です」

「そうなんですか。いやいやとても仲睦まじく見えたから夫婦に見えましたよ。二人で暮らしているんですか? 」

「そうですけど……」

「どこで知り合ったんですか? 」

 凛は事件とは違う自分たちのプライベートなことを聞いてきたので異様さを感じた。

「どうしたの凛? 」

 凛の後ろから声が聞こえた。凛と桜井が話している内に圭一が彼女に追いつき、彼女に声を掛けたのだ。

「この人は? 」

「刑事さんだって……。ホームレスの人が殺された事件を捜査しているって」

 桜井は相変わらず目と口を不自然に釣り上げ、笑顔を作っている。

「おはようございます。警視庁捜査一課の桜井と申します。事件のことを知りたくて彼女さんにお話しを伺っていたんです。彼氏さんも何か知りませんか? 」

「いいえ。事件起きた時は僕たちは寝ていたので何も分からないですね」

「そうですか……。実はね刃渡りが十五cmから二〇cmくらいの包丁のようなものが事件で使われていたんですよ。もし人を殺したら返り血を浴びる思うんですけどね……」

 桜井の話し方は意味ありげな口調だった。しかし桜井の話を聞いている圭一の表情や声の調子は変わらなかった。

「そうですか。でもすいません。本当に僕たちは知らないんです。そろそろ行かないと仕事に遅れてしまうので行ってもいいですか? 」

「大丈夫です。お時間を取ってしまい申し訳ございません。気をつけて行ってらっしゃい」

 圭一はそう言うと凛の肩を抱いて桜井から離れた。凛は振り返り桜井を見ると、彼は気味の悪い笑みを浮かべながら彼女たちを見送っていた。


 桜井が見えなくなると圭一は凛の肩から手を離した。そして二人が駅に着いた時に彼がぼそっと呟いた。

「包丁を捨てといてよかった……」

 凛は圭一の言葉を理解出来なかった。

「何を言ってるの? それじゃあまるであなたがホームレスの人を殺したみたいじゃない」

「そうだよ。僕が家にあった包丁を使って殺した」

 凛の足が止まり、圭一と向き合う形になった。

「つまらない冗談は止めてよ」

「冗談じゃないよ。本当だよ」

 凛はあまりにも不謹慎な冗談だと思い怒りを感じたが、彼圭一がこの冗談をどこまで続けるのか気になり、質問をしてみた。

「包丁を使って殺したの? 」

「うん。ホームレスを殺したら思いのほか血が吹き出してびっくりしたよ。返り血を浴びたから洗濯するの大変だったよ」

「だからあの時洗濯してたんだ。それじゃあどうして殺したの? 」

「それは捕食するため」

「捕食? どういうこと? 」

「僕たちは地球人の食事でも生存は出来る。だけど地球人はタンパク質で構成されているから、地球人を捕食するとタンパク質を多く摂取できる。必要以上に摂取する個体もいればほとんど摂取しない個体もいるけどね」

「つまり人を殺して食べたということ? 」

「そういうことになるね」

 圭一があることないこと真面目な顔で言うので、凛は怒りを通り越して呆れを感じた。二人の険悪な雰囲気に駅に向かおうとする人々が不思議そうな視線を向けた。しかし凛はそんな視線を気にせず、彼と話を続けた。

「なんでホームレスの人だったの? 」

「だってホームレスって社会とは断絶した存在だろう? だからホームレスが一人死んだところで誰も気にしないと思ったのに、警察がすぐに来たのは計算外だった」

 凛は圭一の話に耐えきれなくなり、苛立ちを隠せなくなった。

「もういい。そんなこと聞きたくない。冗談でも言っていいことと悪いことはあるでしょ」

「だから冗談じゃないよ」

「言っておくけど私はあなたが宇宙人だということも信じてないから。あの時は動揺してて少し信じちゃったけど、冷静に考えたら宇宙人なんているわけないから」

 凛は強い口調で言い放つと、足早に駅へ向かった。圭一はその姿を「観察」していた。


 凛は定時を過ぎてもまだオフィスに残っていた。いつもなら定時に終わる仕事が朝の出来事がきっかけで集中出来ず、凛は残業になってしまった。オフィスには凛を含めて三人しか残っておらず、凛はパソコンに向かって作業をしていた。凛は思わずため息をついた。圭一とのやり取りのせいで残業になったからだ。しかしある意味では残業が有難くもあった。あのやり取りの後に顔を合わせるのは気まずいからだ。問題を先送りにしていることは分かっているが、それでも今は圭一と顔を合わせたくない。凛は長時間のデスクワークで凝り固まった肩をほぐしていると、後ろから声を掛けられた。

「まだ残業? 」

 声を掛けてきたのは凛の同僚である鈴木エマだった。凛はエマと入社式の時に出会った。エマは竹を割ったような性格で、いつも笑顔を絶やさずパワフルな女性だった。凛とエマはすぐに打ち解け合い、今では名前で呼び合っている。凛は定時に帰ったはずのエマがわざわざ会社に戻ってきたことを不思議に思った。

「エマどうしたの? 」

「凛がまだ仕事終わってなさそうだから心配して来てあげたの」

「ごめんね……。ありがとう」

 凛はわざわざ自分のために戻ってきたエマに申し訳なさを感じた。エマにとってはいつもの冗談だったのに、凛がとても申し訳なさそうにしているのが気になった。

「そんな気にしないでよ。でも今日はどうしたの? 今日は遅刻ギリギリで来るし、凛ならすぐに終わる仕事も時間かかってる。それに仕事が終わったらすぐに彼氏に連絡するのに連絡もしてない。彼氏と何かあった? 」

「大丈夫! 朝にちょっと喧嘩しただけだから気にしないで。そういえばエマは彼氏とどうなの? 付き合って長いよね」

 凛は圭一が宇宙人に体を乗っ取られ、「捕食」するためにホームレスを殺したなんて話を流石のエマでさえ信じはしないだろうと思い、さりげなく話を逸らした。エマには大学時代から交際している恋人がいる。凛はエマの恋人と実際に会ったことはないが、エマに写真を見せてもらったことがある。色白で細面な男性で凛は写真を見て少し頼りなさそうな感じを受けたが穏やかな雰囲気を纏っており、少し気の強いエマとはお似合いだと感じた。エマは自慢気な笑顔を見せた。

「実はね彼氏にプロポーズされました! 」

「本当?! 」

 凛は思いがけない吉報に立ち上がり喜んだが、その声が大きかったのでまだオフィスに残っている社員たちにジロジロと見られた。凛は声の大きさを落としてエマに話し掛けた。

「おめでとう! よかったね」

「彼がどうしても私と結婚してくれっていうから仕方なくね。私もいい歳だし彼で手を打っとくかなって思って。頼りがいはないけど優しい人だから、結婚相手には申し分ないと思って」

 エマは婚約者の文句を言っているが、彼のことを愛していることが凛には分かった。その証拠にエマは言葉とは反対に表情は明るく幸せそうな顔をしていた。

「そっか……。本当によかったね。結婚式には絶対行くからね! エマのウエディングドレス姿綺麗だろうな」

 凛がうっとりした様子で呟いた。

「残業は私がやっておくから帰っていいよ」

「何言ってるの? そんな悪いよ」

「いいからいいから。だって凛の近所で起きた殺人事件の犯人がまだ捕まってないでしょう? 」

 凛の近所で起きた殺人事件は、最後の事件が起きてから一週間近く犯行は起きておらず、少しずつ町の喧騒も落ち着きつつあるが未だに犯人は捕まっていない。

「でも悪いよ……」

「ここまで来たんだから、何もしないで帰るのはおかしいでしょ。だから凛は早く帰りな」

 凛はエマの懇意を無下には出来なかった。

「ありがとう……。ごめんね」

「いいよ。それくらい。結婚式の時にいっぱい御祝儀貰うから」

「それじゃあ奮発させていただきます」

 二人は周囲に気をつけながら声を押さえて笑い合った。


 凛はエマの厚意に甘え、帰路に就いていると稲荷神社を見かけた。いつものように稲荷神社に手を合わせた。凛は信心深くはなかったので、神社仏閣に参拝するのは初詣くらいだった。しかし圭一は京都出身だからか信心深い性格だったのでここの稲荷神社の前を通りかかると、必ず手を合わせていた。信心深くなかった凛も圭一と同棲するようになると、彼に見習い手を合わせるようになった。朝は一日を無事に過ごせることを願い、夜は一日無事に過ごせたことの感謝の思いで手を合わせていた。しかし最近の凛の願い事は圭一が元の圭一に戻ることだった。

 圭一が優しい圭一に戻りますように

 凛はそう願っていると、強い力で引っ張られ神社の境内の奥に引きずり込まれた。


 凛は引きずり込まれた拍子にうつ伏せで地面に倒れ込んだ。凛が急いで体を仰向けにすると、彼女の前に男が立ちはだかっていた。その男は身長が百七〇cm位の中肉中背の体型で、黒いTシャツに黒いパンツを穿いており、全身黒ずくめだった。男の目はまるで薬物中毒者のようにギラギラと光っている。その男は先日テレビで放送されていた犯人の容貌と似ていた。凛は瞬時にこの男が近所で起きている連続女性殺人事件の犯人であることに気づき恐怖と動揺で足がすくみそうになったが、それでも立ち上がり逃げようとした。けれども男はすぐに凛の口と足を手で押さえつけて身動きがとれないようにし、凛の服を捲り上げて彼女の腹部を露出させた。凛は男の体を何度も拳で殴りつけて抵抗したが、男は手を離す素振りを見せず、凛の腹部に噛み付こうとした。凛は何か武器になる物はないかと地面を探っていると、指に棒状の物が触れた。凛がその棒状の物に目をやるとそれはペンだった。凛が男に押し倒された際に鞄の中身が地面に散乱し、ペンもその時に落ちたらしい。凛はペン先を出し、男の腕にペンを突き刺した。男は痛みで暫く動きが止まり、その隙に凛は男を突き飛ばし逃げ出した。しかし男はすぐに腕に突き刺さったペンを抜くと、凛の手を引っ張り彼女を押し倒した。

「痛いな。何するんだよ」

 凛が身動き取れないように男は体全体で彼女の体に乗っかり、空いた手で彼女の口を塞いで腹部に噛み付こうとした。凛は死を覚悟して目を瞑った。

「何をしてるの? 」

 その声に凛と男は声の方向に顔を動かした。声を発していたのは圭一だった。圭一は仕事が終わった後に家で着替えたのか、スーツ姿ではなくポロシャツにチノパンというラフな格好だった。凛は突然現れた圭一に驚いている様子の男を押しのけ圭一の元に駆け寄った。

「圭一! 逃げよう」

 凛は圭一の腕を引っ張ったが、彼は彼女の腕を振り払った。そして男と圭一はお互いにじっと目を見据えていた。まるで二人は声を発さずに意思疎通をしているようだ。

「お前こんなところで何やってるんだよ? この地球人はお前の知り合いか? 」

 口火を切ったのは男の方だった。

「ああ。僕は彼女と一緒に暮らしている」

 圭一と男はどうやら知り合いらしい。

「この人を知っているの? 」

「うん。同胞だよ」

 同胞ってどういうこと? 仲間ってこと? 

 凛が圭一の言葉を理解できないでいると、男はギャハハと下品な笑い声を上げた。

「マジかよ。近くに同胞がいることは気づいてたけどまさかお前なんてな。しかも地球人と暮らしているなんてな」

「君も相変わらずだな。食べ方が汚い所は変わっていない」

 男は凛たちに手を伸ばした。

「なあ。その地球人の女を俺によこせよ。もう一週間くらい食べてなくて腹が減っているんだよ」

「悪いけど彼女は渡せない。彼女は僕にとって地球人の生態を調査するための大切なデータなんだ」

「別に調査なら他の地球人でもいいだろう。その女を早くよこせ」

「彼女なら恋人という近い立場で有意義な調査が出来る。彼女を渡すことは出来ない」

「なら仕方ないな。無理矢理にでも奪ってやるよ! 」

 男はそう言うと凛と圭一に向かって走ってきた。

「圭一! 」

 凛は圭一を引っ張って逃げようとしたが、彼は動こうとしない。凛は一人だけ圭一から離れ、境内に植えられている木の後ろに隠れた。男は圭一の顔に上段回し蹴りを食らわせた。男の足が圭一に当たり鈍い音がした。あの蹴りをまともに食らったらただでは済まないだろう。しかし圭一は片手で男の足を受け止めていた。そして圭一は男の足を引っ張りバランスを崩れさせ、男を地面に強い力で叩きつけた。地面に倒れた男を目掛けて、圭一は足で踏みつけようとしたが、男はすぐに立ち上がった。男は圭一の顔を殴りかかるが、圭一が華麗に避けていく。圭一は隙を見計らい男の腹を思いっきり殴った。男は衝撃でその場に崩れ落ち、腹を押さえて掠れた声で圭一に言った。

「分かった! もうこの女には近づかないから勘弁してくれ」

 男は圭一に命乞いをしたが、圭一は男の命乞いを聞き入れず、男の首根っこを掴んですごい勢いで殴り始めた。

「圭一止めてよ! その人もう襲わないって言ってるから、それ以上殴らなくていいよ。警察に電話しよう! 」

 凛は圭一に近づいて、彼がこれ以上男を殴るのを止めようとした。しかし圭一は男を殴り続けた。男の顔はどれが目で鼻で口なのか分からないぐらいに血が流れている。その血が圭一のポロシャツとチノパンを汚した。男は最初は腕を動かして圭一の拳を避けようとしていたが今は微動だにせず、ぐったりしている。

「止めてよ! これ以上殴ったらこの人死んじゃうよ」

「駄目だよ。彼は警察に追跡されている可能性が高い。ここで殺しておかなければ警察は僕たちのことを気づくかもしれない」

 凛は圭一の腕を掴んで殴るのを止めさせたが、彼はまるで機械のように男を殴り続け、バキっという骨が折れるような音がした所で殴るのを止めた。音がすると男の首が急にぐっと下がり、凛が見ても男が事切れたのは明白だった。凛は思わず後ずさりし、口から何かがこみ上げてきそうになり下を向いて懸命に手で抑えていた。するとブチブチという何かが千切れるような音がした。凛は顔を上げて音のする方向を見た。そこには餓えたライオンのように圭一が動かなくなった男の腹に噛みつき、食いちぎっている姿があった。ブチブチという音は男の皮膚が圭一の歯で千切れる男だった。凛は自分が見ている物が現実だと思えず、吐き気も消えて圭一が男を「捕食」している姿をただ眺めていた。圭一は男の内蔵を全て食べきった辺りで凛はようやく口を開くことが出来た。

「何をしているの? 」

 圭一は血で濡れそぼった口を腕で拭った。

「捕食しているんだよ」

「ホームレスの人もそうやったの? 」

「そうだよ」

「狂ってる……」

「どこが? 」

 圭一は凛の言葉の意味が分からない様子で、不思議そうな顔をした。

「全部よ! 人を殺してしかも食べるなんて! 」

「何を言ってるの? 凛だって殺してるじゃないか? 」

「何を言ってるの……。私は殺してない」

「殺してるよ。生命活動を維持するために他の生物を殺してそれを食べているじゃないか。君たちと僕たちはどう違うの? 」

 圭一が真っ直ぐな目で見るので凛は少し答えに窮した。

「それは人間じゃないから……。私たちは人間を食べたりしない」

 圭一は凛の答えを聞いて嘲笑を浮かべた。

「勝手な理屈だね。地球人はいつだってそうだ。勝手な理屈を作って自分たちに有利に物事を進めていく。僕たちは生命活動を維持するために地球人を捕食している。それの何が悪いの。弱い者が強い者に捕食されるのは自然の摂理だろう? 彼らは弱かった。だから僕に捕食されたんだ。それだけだよ。いつまでも地球人が食物連鎖の頂点に君臨出来るなんて思うことが傲慢な考えだよ。そろそろ地球人は自分たちが食物連鎖の頂点に立っているという考えを捨てた方がいいよ」

「おかしいよ。あなたは人間じゃない」

「あの時言ったじゃないか。僕は宇宙人だって」

「そんなの信じない……。明日一緒に病院に行こう? 圭一は多分病気だよ。病気だから自分を宇宙人だと思い込んだり、人を殺して食べても罪悪感を感じないんだよね? そうだよね? 」

 凛は血で濡れた圭一の腕を掴んで優しく語りかけた。彼女はまるで祈るかのような口振りで彼に縋った。そこには今朝の強気な彼女はいなかった。しかし圭一は動揺する凛とは対照的に冷めた顔で彼女を見下ろしていた。

「もういい加減事実から目を逸らすのを止めたら。凛は賢い女性だ。だからあの時公園で僕が丸川圭一ではないことに気づいたんだろう? 」

 凛はその言葉を聞いてゆっくりと掴んでいた腕を離した。それは残酷な現実を突きつけられた瞬間だった。凛は彼の言う通りに圭一が既に別人になっていたことに気づいていた。そして自分が愛した圭一は二度と戻って来ないことも分かっていた。しかしそんな現実を素直に受け入れられる訳はなかった。だから現実から目を逸らしていたのに、たった今彼の手でそんな甘い考えは打ち砕かれたのだ。凛は愕然とし、足が震え立ちすくみそうになった。凛は足の震えを抑えようと手を膝に置くと顔は血みどろで腹が食い散らかされた男が目に入った。

「とりあえず警察呼ぶから」

 凛は力無くそう呟き、スマートフォンを操作しようとした。しかし宇宙人が凛の腕を掴み、通報を止めさせた。宇宙人が凛の腕を掴んだ際にまだ生暖かい血が彼女の服に付いた。凛はその感覚に思わず鳥肌が立ち大声が出た。

「触らないで! 」

 凛は彼の腕を振り払った。しかし彼は全く表情を変えなかった。

「警察に言ってどうするの? 」

「あなたを逮捕してもらう」

「私の恋人が宇宙人に寄生されたせいで人を殺して食べたなんて言うつもり? 前にも言ったけど誰もそんな話を信じてくれないよ。言った所で凛が頭がおかしいと思われて、それで僕が捕まるだけだ。捕まったら丸川圭一は殺人者として生きていかなければいけない。彼の社会的地位は失墜するよ。それでもいいの? 」

 宇宙人は説得させるというより事実の羅列をしているようだった。だからこそ彼の言葉には重みがあった。確かに彼の言う通りだ。宇宙人に体を乗っ取られたせいで人を食べるために殺したなんて話は誰が信じるだろう。圭一と今の彼は別人なのに、圭一が殺人を犯したと思われる。愛しい人がそんな汚名を着せられるのは、凛は耐えられなかった。圭一が警察に逮捕されないことが彼の名誉を守る唯一の方法だ。そのために凛はこの件に目を瞑るしかない。凛は圭一を殺した宇宙人の言うことを受け入れざるを得ないことに悔しさで涙が溢れそうになった。しかし凛は圭一の顔をした化け物をきっと睨み、地面に散乱した荷物を鞄に詰め込んで走り出した。神社が見えなくなると凛の目からは我慢していた涙が溢れ、何度も足がもつれて倒れそうになったがそのまま家まで走り抜けた。


 凛は家に着くと洗面所の鏡に映る自分の姿を見た。凛の服には男に押し倒された時に付いた土の汚れだけではなく、男の血も付いている。凛は着ていた服や下着をゴミ箱に入れると、風呂場に入り熱いシャワーを頭から浴びた。凛はボディーソープで何度も体を洗うが汚れが落ちていない気がして、肌が赤くなるまで何度もタオルで肌を擦った。凛は風呂から上がり服を着替えると、髪を乾かすことも忘れてリビングの真ん中で座り込んだ。凛は動こうとしたが、先程の衝撃的な出来事に体が動かなかった。凛がリビングで動かなくなってどのくらい時間が経っただろうか。凛が座り込んでままでいると圭一が帰ってきた。圭一は凛と同じように男との格闘のせいで土と血で服が汚れていた。だが唯一違ったのが服に付いている血の量であり、男を「捕食」した彼の方が服に付着している血の量が多かった。

 凛はリビングに入ってきた圭一を見ると否や立ち上がり彼に詰め寄った。

「出ていって。この家から出ていってよ! 」

「どうして? 出ていくのは僕じゃなくて凛だよ」

「何言ってるのよ? 」

「だってあのアパートの名義は僕だよ。凛はただの同居人なんだ。凛が僕を追い出す権利は無いよ」

 圭一とこの家に引っ越す際に名義を彼の名前で登録した。圭一と凛しか知らないはずの記憶だが、彼の言う通り寄生主である圭一の記憶は彼にちゃんと継承されているらしい。

「だったら私が出ていく」

 凛は旅行用の鞄に下着や洋服など必要な物を詰め込んだ。その鞄は圭一と旅行するので買ったものだった。凛は今から家を出ようとしているのに、圭一との思い出が詰まった鞄を持って行くなんてどういう皮肉だろうと思った。

「外には僕の同胞が大勢いる。僕は凛を傷つけるようなことはしないから、この家にいた方が安全だと思うよ」

「あなたと一緒に暮らすくらいなら、宇宙人のいる外で暮らした方がマシよ! 」

「分からないな。どういう理屈? 」

「理屈じゃない。感情の話よ」

 凛は話ながら鞄に荷物を詰めていく。彼は凛の言葉に納得していないようだ。

「僕は凛は傷つけたりしないのに。だって凛は僕の大事なサンプルなんだから」

 凛はその言葉に激しい怒りが込み上げ、感情が爆発した。

「私はサンプルなんかじゃない! なんで圭一を殺したあなたと暮らさなきゃいけないのよ。例えあなたが私を殺そうとしなかったとしてもあなたと暮らすつもりはない。あなたなんか大っ嫌い! 」

 凛はそう言うと旅行用の鞄を抱え、彼の脇をすり抜けて玄関のドアを力強く閉めた。

 圭一は一人だけ残された部屋で興味深そうに呟いた。

「地球人はあんな風に怒るんだ」


 凛は誰もいない静かな道を大きな鞄を抱えて歩いていた。凛は宇宙人に言われた「サンプル」という言葉が頭の中でリフレインしていた。凛が「サンプル」に選ばれたのは愛情があったわけじゃない。ただ恋人というポジションで宇宙人は彼女の事を観察したかったからだ。凛と圭一が恋人ではなかったら、もしかしたらホームレスの男と殺人犯の男のように「捕食」されていたかもしれない。凛が「捕食」されなかったのは運が良かっただけだ。凛はその事実に気付くと言いようもない恐怖を感じた。しかし恐怖よりも凛は悲しみを強く感じた。凛は二度と圭一とくだらない話をしながら買い物をしたり食事をしたり、そして夜には一つのベッドで抱き合って眠る。そんなありふれたことができなくなってしまったのだ。凛は二度と圭一と愛し合うことが出来ない。凛はそのことがなによりも悲しく、身が引き裂かれそうな痛みを感じた。

 凛の頬に涙が伝った。彼女は手で涙を拭ったが、拭っても拭っても涙は止まらない。むしろ勢いが増すばかりだ。凛は悲しみが抑えきれず、道の真ん中に座り込んだ。まるでバラバラになって壊れそうになる体を押さえるかのように鞄と体をを強く抱きしめ、そして子供のように声を上げながら泣いた。そんな彼女の様子を冷たく光る月が見下ろしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る