第2話 違和感

 目覚まし時計が鳴り、凛は手を伸ばして目覚まし時計のアラームを止めた。凛は隣でまだ眠っている圭一に声を掛けた。しかし凛が起こしても圭一は中々起きない。三回ほど凛が声を掛けて、ようやく圭一は目を覚ました。しかし圭一はまだ睡眠が足らないらしくどこかぼんやりとし、何度もあくびをしている。

 最近は校了が近いため、圭一の帰りも遅くなっている。圭一はあまり睡眠時間が取れていないためか、彼の顔には疲れが滲み出ている。いつもであれば二人で朝食の準備をするが、圭一がそのような状態なので凛は一人で朝食の支度をしながら、彼に声を掛けた。

「疲れてるみたいだから朝ごはんはおかゆでいい? 」

「うん。ありがとう。作ってもらってごめんね」

 凛はキッチンで鍋に米を入れながら圭一に返事を返した。

「ぜんぜんいいよ。仕事はもうそろそろで落ち着きそう? 」

「今日を頑張れば土日は休みだし、しばらくはゆっくりかな。今日も一緒に買い物行けなくてごめんね」

「平気だよ。荷物なら一人で持てるし」

「それもあるけど、まだ犯人捕まってないから心配で……」

 圭一と凛の近所では若い女性が生きたまま腹部と内臓を噛まれ、何者かに殺害されるという事件が起きており、一週間前にもまた同じ手口で一人の女性が殺害された。三日前にはまた女性が同じように殺害されており、段々と手口が大胆にそして残虐性が増してきている。警察も総力を挙げて捜査をしているが、未だに犯人を捕まえるまでには至っていない。この事件が起きてからは圭一はなるべく定時に仕事を終わらせて凛と一緒に帰ろうとしたり、彼女の仕事が遅くなりそうな時は駅まで迎えに行ったりしている。しかし最近は圭一の仕事が忙しく凛の傍にいてやることができず、彼は彼女が事件に巻き込まれるのではないかと心配しているのだ。そして凛も自分と同年代くらいの女性が見るも無残に殺害される事件に不安を感じないわけがなかった。二人の間にはなんとなく重苦しい空気が流れた。

「大丈夫だよ! 今日は早く帰ってくるから心配しないで」

「そう……。それなら安心かな。そうだ凛は土日は休みだよね?  日曜日ににどこか出掛けない? 」

「本当?  近所の公園に行くのはどうかな? 最近いい天気だから、外でご飯を食べたら気持ちいいと思う」

「それじゃあ日曜日に公園に行こうか」

 凛が努めて明るく話そうとするとそれに呼応するかのように、圭一の声のトーンも上がった。日曜日に二人で公園に出掛ける話をしていると、先ほどまで流れていた重苦しい空気が和らいだようだった。日曜日の予定が決まるのと同時に凛は朝食の支度を終えた。凛は圭一の前の席に着くと、二人で出来たてのお粥に口を付けた。


 凛は仕事終わりに家の近所にあるスーパーマーケットで色々な食材をかごの中に入れていた。そのかごの中にはオムライスを作るための牛乳や卵などの食材も入っている。凛はしばらく仕事が忙しかった圭一を労うために、彼が帰ってきたら彼の好物であるオムライスを作ろうとしていたのだ。

 圭一は昔ながらの玉子がよく焼かれていてトマトケチャップがかけられているオムライスが大好物だった。同棲し始めてすぐの時に、凛は圭一にオムライスを作ったことがあった。圭一は凛が作ったオムライスを一口食べると、すごい勢いでオムライスを口へ運び、すぐに平らげてしまった。それ以来、凛は圭一を労う意味を込めて、時々オムライスを作ることがあった。オムライスを何度も作っていくうちに今ではオムライスが凛の得意料理になった。

 凛は買い物が終わりスーパーマーケットを出ると、買い物袋が彼女の手に食い込んだ。しかし凛はオムライスを食べた時の圭一がえくぼを作って幸せそうな顔を想像すると、手に食い込んだ荷物は気にならずむしろ荷物を軽く感じた。


 凛は自宅に着くと一人きりの夕食を簡単に済ませた。夕食が終わるといつもなら圭一とじゃんけんして、負けた方が使い終わった皿を洗い、勝った方がお風呂に入るが、今日は圭一がおらず一人きりだ。なので凛は一人で皿洗いをし、入浴を済ませた。それらが済むと好きなテレビの番組を観て夜を過ごした。凛はクイーンサイズの大きいベッドに横になると、いつもなら自分の隣にいる圭一が今日はいないため、一抹の寂しさを感じた。しかし彼と過ごす休日を想像すると寂しさは消え、自然と眠りに入っていった。

 凛は気配を感じ夜中にふと目を覚ました。気配を感じたのはリビングからだ。凛は体を起こし気配のするリビングに目を向けた。そこにはスーツ姿のままの圭一がぼーっと立ち尽くしていた。凛は圭一の目がいつもと違うことに気づいた。圭一の目を言葉で例えるなら「観察」という言葉が当てはまり、彼女は彼の目から感情を読み解くことが出来なかった。圭一の目はただカメラのレンズみたいにただ物を見ているだけの器官のように変化したようだった。凛は彼の目を見ると背筋が寒くなるような感覚がした。彼女は意を決して声をかけた。

「そこでぼーっと立ってどうしたの? 」

 凛の呼びかけに圭一はくるりと首を動かし、彼女の方を向いた。

「ただいま。ごめん、ちょっとぼーっとしてた」

 そう言う圭一の目には既に光が宿っており、いつもの笑顔を浮かべていた。

「お疲れ様。疲れてるだろうしお風呂に入ってきたら」

「うん。そうだね。僕はお風呂に入ってくるから、凛は寝てていいよ」

「分かった。寝てるね」

「おやすみ」

「おやすみ」

 圭一は脱衣場へ行き、しばらくすると水が流れる音がし始めた。凛は圭一のあの目が忘れられず、目が覚めてしまった。凛はベッドの中でじっとしていると浴室のドアが開く音がした。そして圭一が凛のいるベッドに入ってきた。凛は目を閉じ眠ったふりをしていると、圭一は凛に抱きついてきた。圭一の体からは二人で使っているボディソープの香りが漂ってきた。凛は圭一が身に纏っているシャンプーの香りを嗅ぐと、心が安らいだ。

 圭一は疲れていたからあんな目をしていたんだ。だって今私を抱きしめている圭一はいつもと同じだ

 凛はそう感じると先程の違和感が消え、少しずつ瞼が重くなっていった。


 凛はいつも起きる時間より遅めに起きた。隣には夜中に帰ってきた圭一がまだ眠っている。いつもの休日なら二人で分担し家事をこなすが、凛はまだ寝足りないだろうと思い、圭一をベッドに一人だけ残した。

 凛は洗濯や掃除をこなしていると、十時になった頃に圭一が起きてきてリビングに

「おはよう。よく眠れた? 」

「ごめん寝過ぎちゃった」

「全然いいよ。もう少し寝てても良かったのに」

「ありがとう。よく眠れたから平気だよ」

「本当? なら良かった。朝ご飯の準備するね」

 凛がキッチンで手を洗っていると圭一が彼女の隣に立った。

「昨日も遅かったから疲れてるでしょ? 私が朝ごはん作るからゆっくりして」

「昨日は作ってもらったから今日は一緒に作るよ。今日の朝ごはんはどうしようか? 」

 圭一はそう言うと冷蔵庫を開き、冷蔵庫の中身を吟味し始めた。

「お豆腐と大根が冷蔵庫にあるからお味噌汁でも作る? 」

「いいね。それじゃあお味噌汁は僕が作るよ」

 そう言うと圭一は冷蔵庫から、豆腐や大根といった味噌汁に使う食材を取り出した。そして圭一は食材をまな板に置くと、いつもの慣れた手つきで食材を包丁で刻み出した。凛は圭一の手際を確認すると、冷蔵庫に入れて置いた鮭を取り出し、二尾の鮭をグリルに入れた。そして魚を焼いている間に、凛は白米を研ぎ、研ぎ終わると炊飯器に釜を入れて炊飯のスイッチを押した。しばらくすると味噌汁から湯気が立ち、鮭が焼けるぱちぱちという音、米が炊ける匂いが二人の鼻腔をくすぐった。魚が美味しそうに焼けると凛はグリルから鮭を取り出し、皿に乗せた。圭一は汁椀に出来上がったばかりの味噌汁を注ぎ入れ、茶碗に白米をよそった。出来上がった朝食をテーブルに並べると二人は席に着き、朝食を食べ始めた。圭一は無言で焼き鮭を口に運んでいる。

「美味しい? 」

「うん。美味しいよ」

「そう……」

 凛は何か釈然としないものを感じた。普段ならお互いに食事の感想を話し、会話の多い食事なのだが、彼は何も言わず黙々と食事をしている。凛は訝しむ視線を圭一に向けていると、彼は彼女の視線に気づいたのか口を開いた。

「どないしたの? 」

「なんか静かだなと思ったの。いつもの圭一ならご飯の味付けとか今日は何するか話すのに……」

「ああそうだね。今日の焼き鮭はいい感じに焼けていて美味しいね」

「本当? なら良かった……」

 凛は取ってつけたかのように話を始めた圭一に、何か引っかかるものを感じた。しかし彼女はそれを口に出さず、食事を続けた。


 遅めの朝食の後はまだ終わっていなかった家事を二人で片付け、家事が終わると夕方までソファに座ってテレビを観て過ごしたていると、圭一が凛に声を掛けた。

「今日は何作ろうか? 」

「今日は私が作るよ」

「僕も作るよ」

「ううん。今日は私が作りたいの。だから圭一はソファでテレビでも観てて」

 凛はキッチンへ行こうとする圭一をソファに押しとどめた。凛は冷蔵庫から卵、牛乳や鶏肉などを取り出し、圭一の大好物であるオムライスを作り始めた。圭一は凛と話している時は優しい顔をしていたが、キッチンで料理をする凛の姿を能面のように冷たい表情で眺めていた。

 オムライスが完成すると、オムライスを載せた皿をテーブルに置いた。圭一に声を掛けようとすると、彼は夕方のニュースに眼差しを送っていた。そのニュースは二人の近所で起きている連続女性殺人事件の続報を伝えていた。事件は手口が大胆にそして残忍になってきている。いつもなら落ち着いてニュースを伝える男性のキャスターが、連続して起きている惨たらしい殺人事件に些か興奮した口調で話している。

「被害者は若い女性であり、最初の二件は腹部と内臓には食べられたかのような跡が残っていました。しかし今週起きた事件では腹部と内臓だけではなく体全体に跡が残っており、一部骨が露出した部分がある状態で死体が発見されました。死体の状態からしてどんなことが分かるでしょうか? 」

 男性キャスターの隣には元刑事である男性が神妙な顔つきで口を開いた。

「死体の状態から判断すると、被害者は生きたまま犯人に食べられたと考えられます」

「食べられた? 人間が人間を食べたんですか? 」

「この地域は人間を襲う動物はいませんし、死体には人間のDNAや歯型が検出されています。全く信じ難い話ですが、人間が人間を生きたまま食べて殺害したと警察は判断しているようです」

「そんな人間がいるなんて信じられません……。元刑事の経験から判断して犯人はどのような人物だと思われますか? 」

「被害者の死体から男性のDNAが残されていましたから、犯人は男性でしょう。防犯カメラや監視カメラでは、身長が一七〇cmの痩せ型で黒い服を着た男性が被害者の後をつけている姿が確認されています。恐らくその男性が何かしら事情を知っているということで警察はその男性を捜しています」

 凛はあまりにもおぞましく鳥肌が立ちそうなニュースから目を逸らしたが、圭一はそんな凛の姿に気にもとめず、ニュースを淡々と見続けている。ニュースは引き続き事件のことを伝えており、キャスターの男性は元刑事の男性に更に詳しい犯人像を引き出そうとしている。

「テレビ消して」

 凛は圭一に話しかけた。圭一は彼女に振り返って言った。

「なんで? 今見てるのに」

「なんでって……。分からないの? 」

 凛が前にこのニュースを聞いて不快感を抱いた時には、圭一はテレビを消してくれた。しかし凛の目の前にいる圭一は、彼女がニュースを見たくない理由が分からないようで、引き続きニュースを観ようとしている。

「食事前にこんなニュース見たくないよ」

「そっか……。食事前だから見たくないんだね。分かった。今テレビ消すね」

 圭一は凛の言葉に納得したような様子で、彼はテレビを消した。圭一がテレビを消すと二人のいるリビングには静けさが広がった。

「どうしたの圭一? なにかあったの? いつもだったらそんなこと言わないじゃん」

「何もないよ。大丈夫」

「本当に? 明日公園に行こうって話してたけど止めようか」

「大丈夫だよ。ちょっと疲れててイライラしてるみたい。きついこと言ってごめんね。約束してたから明日は出掛けようよ」

「分かった……」

「それより早く食べない? 凛がせっかく作ってくれたオムライスが冷めちゃうよ。僕は凛の作ってくれるオムライスが大好きなんだよね」

 圭一はスプーンを持つとすごい勢いでオムライスを食べ始めた。凛はいつもならオムライスを美味しそうに食べる圭一の姿を愛おしく感じるが、なぜかその時は圭一の姿が芝居がかっている気がして不気味に感じた。

 凛は二人の間に少しずつずれみたいなものが生じているのではないかと感じた。そのずれは段々と大きくなり耐えきれなくなると二人の足元をぐらつかせ、そして這い上がることができない闇へ飲み込もうとしているという予兆めいた不安を抱いた。圭一はスプーンでオムライスをザクザクと切り裂き、赤いケチャップを口の端に付けて食べ進めていく。しかし凛は圭一とは対照的に食が進まず、彼が食べている姿を眺めていた。



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