侵略される日常

佐藤来世

第1話 日常

 ピピピという目覚まし時計の音で松本凛は目を覚まし、起きる時間を知らせてくれる目覚まし時計の音を止めた。凛の隣にいるのは最愛の人である丸川圭一だ。彼はまだ夢の中で気持ちよく眠っている。凛は圭一の無邪気な寝顔にふと悪戯心が湧き上がり、彼の鼻をそっと摘んだ。圭一は今まで自由に呼吸が出来ていたのに呼吸を妨げられたため、ふごっという声を上げ飛び起きた。凛は圭一の滑稽な姿にケタケタと笑い声を上げた。

「おはよう。圭一」

「こんなしょうもない悪戯をしたのはお前か!?」

 圭一はそう言うと凛の寝巻きに手を差し込んだ。

「駄目だって!今日は仕事でしょ」

 凛は笑いながら圭一の腕をパシパシと叩き彼の動きを止めた。

「そうだね。今はこれで我慢しといてやるか」

 圭一も凛に笑い返し彼女の唇に自分の唇を重ねた。そして二人はキッチンに向かい朝食の準備を始めた。


 二人の出会いは二年前だ。圭一は求人に関する広告の営業部に勤めており、一方凛はIT関係の会社の人事部に勤めていた。凛の務める会社が中途採用を募集するため、求人広告を掲載しようとしていた際に、数ある広告代理店の中で圭一が勤務している会社が選ばれた。その時の担当者が圭一と凛だった。

 圭一は非常に物腰が柔らかくそして周囲に気が利いて、話し合いが加熱しすぎて重苦しい空気になった際にはさり気なく空気を変え、一瞬にして場の空気を暖めた。他の人をいつも笑顔にさせ、笑うとえくぼができるそんな圭一に凛は胸のときめきを覚えた。そして同じく圭一もいつも笑顔で、相手の意見を尊重はするが、自分の意見もちゃんと持ち、それを伝えることの出来る凛に自然と気持ちが吸い寄せられた。そして何より二人の距離を近づけたのは、お互いが料理を作るのも食べるのも好きだということだった。この共通の趣味がきっかけで二人の距離はすぐに近づき、交際が始まった。そして交際が一年経った頃に二人は同棲を始め、既に同棲して一年が経過したが、大きな喧嘩もなくお互いを尊重するいい関係を築けていると凛は感じていた。


 凛は定時に仕事が終わると圭一にメッセージを送った。

「お疲れ様。仕事が終わったよ」

 凛がメッセージを送った数分後に圭一から返信が届いた。

「凛もお疲れ様! 僕も仕事が終わったからいつもの場所で待ち合わせね」

 圭一のメッセージの後には熊が玉乗りをしているスタンプが送られていた。脈絡もないスタンプに凛は思わず笑みを浮かべ、一言「了解」と返事を返し、オフィスを出た。


 凛が自宅近くの駅の改札口に着くと既に圭一が待っていた。

「ごめん。待った? 」

「全然待ってないよ。行こうか」

 圭一は凛にそう声をかけると手を差し出した。凛も彼に手を差し出し、二人は手を繋いで駅近くのスーパーマーケットに向かった。

 スーパーマーケットに到着すると、圭一はショッピングカートを押し、 凛は彼の隣を歩いていた。すると凛は生鮮食材のコーナーで安くなっているキャベツを見かけ、圭一に声を掛けた。

「今日はキャベツが安いよ」

「本当だ。今日は少し寒かったから、キャベツを野菜スープにしようか? 」

「賛成! 」

 凛はキャベツを裏返し芯の切り口が綺麗なのを確認すると、そのキャベツを圭一に渡した。圭一はキャベツを受け取るとショッピングカートに入れた。

 二人は会計を終え、サッカー台で買い込んだ物をビニール袋に入れると、圭一はまるで当たり前かのように重い荷物を手に取り、凛は軽い荷物を持ってスーパーマーケットを出た。

 スーパーマーケットから自宅に戻るには交通量の多い道路を使わなければならない。二人がこの道を使う際には圭一は必ず自分が車道側に立ち、凛を歩道の内側を歩かせた。買い物した時も彼は必ず自分が重いほうの荷物を持ち、凛には軽いほうの荷物を持たせた。圭一のそんな優しさはいつも作為的な所が一つも無かった。さり気なく、まるで水が高い所から低い所へ流れるかのように自然だった。凛は圭一の自然な優しさに触れるたび彼は本当に優しい人なんだと感じ、そして彼から愛されている事を実感するのだ。

「圭一は本当に優しいよね」

 凛は思わずそう口にした。

「そうかな? 普通じゃないかな」

「圭一は優しいよ。重い荷物だって持ってくれるし、圭一はいつも私を道路の内側を歩かせてくれるもん。圭一は本当に優しい人だなって思う」

「どないしたん急に?そうだお稲荷さんにご挨拶しいひんと」

 圭一は急に凛に褒められて恥ずかしくなったのか、普段はめったに出ない京都弁が彼の口からこぼれた。そして話を逸らすかのように道路脇に建立された稲荷神社に駆け寄った。凛は圭一の後を追いかけ、彼は隣に凛が来たことを確認すると手を合わせた。そして凜も圭一に倣って手を合わせ、挨拶が済むとまた二人は歩き出した。

 稲荷神社の前を通り角を曲がると、今までの交通量が嘘みたいに車は通らなくなり静かな住宅街が広がる。角を曲がって少し歩くと二人の住むアパートが見えてくる。二人は稲荷神社から少し歩いた所で、凛が口を開いた。

「こういうところは圭一はやっぱり京都人だなって思うな」

「こういうところって? 」

「神社とかお寺とかを大事にするところ」

「まあ京都は神社仏閣がいっぱいあるからね」

「こっちに引っ越してきた時だって、『ちゃんと土地神様に挨拶しないと』って言ってたもんね」

「何かあったとき土地神様が助けてくれるからね」

 圭一の出身は千年の都と呼ばれる京都だ。圭一は大学進学のため上京し、それ以来ずっと東京に住んでいるからか、あまり方言が出ない。しかし時々ポロッと京都の言葉が出ることがあり、生まれも育ち東京の凛からしたら、圭一の方言が新鮮に聞こえる。そして凛は滅多に出ない圭一の京都弁を聞くと、他の人間は知らない圭一の面を自分だけが知っているようで、嬉しさがこみ上げるのだ。


 凛と圭一がそんな会話をしている内に、二人が住むアパートに着いた。アパートに着くと二人は早速夕ご飯の準備を始めた。二人とも料理を作るのが趣味なので、二人でも料理を作れるように大きめなキッチンが設置されている部屋を借りた。二人は今日みたいに仕事が定時に終わると、最寄り駅の改札口で待ち合わせをする。そして自宅近くのスーパーマーケットで何を食べたいか話し合いながら夕飯の食材を買い込み、家に着くと二人でキッチンで料理を作るのが習慣になっていた。

 夕飯の支度が終わると凛は圭一に声をかけた。

「料理出来たからテーブルに置いてくれる? 」

「了解」

  圭一は料理が盛られた皿をリビングに置いてあるテーブルに並べた。圭一は皿を並べ終えると席に座り、その後に凛も席に腰を掛けた。二人のいるリビングにはテレビが設置されており、そのテレビは夜のニュースを流していた。凛は思わずそのニュースに目を向けた。女性レポーターはテレビの中で凄惨な殺人事件の情報を伝えていた。

「この閑静な住宅街で惨たらしい事件が起きました。帰宅中の女性が何者かに襲われ、殺害されたのです。注目すべき点は遺体の状態です。遺体の腹部と内臓にはまるで食べられたかのような跡が残されており、その跡は人間の歯型ではないかと推測されています。また被害者は生きたまま何者かに腹部を噛まれ、噛まれたことによる失血死が死因だと考えられています。警察は今回の事件を殺人事件として捜査しています」

 惨たらしいニュースに凛は眉を顰めた。

「ごめん。テレビ消すね」

 圭一は凛が不快そうな表情をしているのに気づき、リモコンでテレビの電源を消した。

「私たちが住んでる場所と事件現場が結構近いね」

「本当だね。もし凛の仕事が遅くなりそうだったら、僕に連絡して。駅まで向かいに行くから」

「繁忙期は終わったから大丈夫だと思う。もし仕事が遅くなったら連絡するね。ありがとう」

「うん」

 二人は手を合わせ、「いただきます」と言うと夕ご飯に手をつけた。食事中はお互いに今日の出来事を話したり、食事の感想を言い合った。そして食事が終われば二人はじゃんけんをする。負けた方が皿洗いをして、一方で勝った方は先にお風呂に入る。今日は凛が勝ったので先に入浴し、圭一は汚れた皿を鼻歌交じりで洗っていた。凛が風呂から出ると入れ替わりに彼も風呂場に入った。凛は圭一が入浴している間に、化粧水をつけたり髪をドライヤーで乾かしたりして過ごした。圭一も風呂から上がりパジャマに着替えると、二人は二人用のソファーに並んで座り、二人がお気に入りの番組を観た。テレビでは芸人がドッキリを仕掛けられている映像が流れていた。二人は芸人のリアクションが可笑しくて腹を抱えながら笑った。圭一は芸人の驚いたリアクションを真似てみせると凛は笑い転げた。お目当ての番組が終わると、狭い洗面台に二人で仲良く並んで歯磨きをした。歯磨きを済ますとクイーンサイズのベッドに入った。眠くなるまで二人は色んなことを話す。先程まで見てたテレビの感想や明日の天気のこと。気が付くと二人は抱き合って眠っている。

 毎日その繰り返しであり、それが二人の日常だ。特別なイベントがあるわけではないが、圭一と凛にとってそれが幸せな日常だった。二人はこんな毎日がずっと続くと思っていた。しかしそんな日常は音もなく砂の城が崩れるかのように、消え失せようとしていることに二人は気付かなかった。

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