ミューチュアル・ツーツクワンク

スイセン

ミューチュアル・ツーツクワンク

「お前はなぜ生きている?」

赤と黒。深紅こきべに色の絨毯と漆黒の壁。壁と同化し、金のドアノブがなければ判別できないドアがひとつ。

「そりゃあ、神ってのが勝手に生かしてるんだろ。俺には関係ない」

光と闇。頼りなく点いている四隅の蠟燭と、明かりによって生み出される、細く伸びる影。

「お前はなぜここにいる?」

音楽と野次。繊細で清らな絵画に絵の具を無造作に塗りたくる愚かさ、それに似たもの。

「おいおい、お前が勝手に呼んだんだろ?つれないぜ」

動くのは、指と口。賢しい白蛇のようにピアノを這う指と、葉巻を銜える肥えた口。

「お前はなぜ俺の演奏を聴いている?」

男と男。キングの高尚な趣味ではなく、向かい合ったポーンがやがて行き着く堕落。

「そんなことすらわからないのか?」

罪と罰。生まれながらにして。

「お前が勝手に弾いてるだけだろが」

ただ、それだけの話で、それ以上でもそれ以下でもない。



二人の男はまさに両義的な存在であった。

二人とも黒を基調とした、上流階層の者がよく用いるスーツに身を包んでいたが、他は全く異なっていた。

臙脂のネクタイをした、確実にもう一人の男に対して好意を抱いていない若い男、シックザール・リフレインはただずっとピアノを弾いていて、それ以外には全く気を払っていなかった。ピアノは素晴らしく優れたもので、その音色はむしろシックザールの締まった服装と相まって一種のコンクールのような様相を呈していた。

二人のいる部屋は防音室のようだった。床には高級そうな絨毯が敷かれており、汚れひとつないグランドピアノと、大きな背もたれとひじ掛けが備え付けられた、豪華な一人掛けのソファがある。壁にはいくつかの肖像画が掛けられ、明かりは蠟燭のみ。二人の他に人はいなかった。

シックザールの演奏にも目を瞠るものがあった。決して程度の低いものではなく、その指先の動きから、長い年月の間、ピアノという楽器と接してきたことが容易に見て取れる。

だが、シックザールのそれの弾き方はまさに型通りで、演奏の技術が高いことには変わりないのだが、それこそ、まるでコンクールで点数を取るための弾き方で、つまり、

「お前の演奏には心が足りねえ」

もう一人の墨色のネクタイをした男、ライヒェが、いつまでも続く劇役者のくだらない問答に耐えかねる高尚な観客のように呟いた。

「ま、メフィストワルツの第一番弾いてるのはなかなかだと思うが」

そこで、ピアノを弾く手がぴたりと止まり、部屋には少しばかりの沈黙が流れた。

ピアノの前で、何かについて逡巡しているような、躊躇っているようなシックザールと、ソファに呼吸が困難になるほど浅く座り、葉巻を吹かし続けているライヒェ。どちらの男も黙っていたが、その理由は異なっていた。

だが、各々の黙る理由に、それほど大差はない。



「おい、なんで弾くのをやめるんだ。さっさと弾けよ」

シックザールの演奏に、これまで仰々しく耳を傾けていたライヒェが吐き出す煙とともに指図する。ライヒェは自分が上の立場であると認識しているらしい。

その言葉を聞いてか否か──聞いてなどいないと断言できるが──シックザールはまた違う曲を弾き始めた。

その音色は、やはり完璧と言えるほど丁寧かつ清らか。楽譜に記されている演奏記号と寸分違わないその演奏は、

「マゼッパ」

欠如しているそれを浮き彫りにしていた。

「リストのマゼッパだろう?」

シックザールは鍵盤を殴りつけた。ひどく耳障りな激しい不協和音は、狭く薄暗い部屋の中に響いた。いきなりの行為であったが、ライヒェは気にしていないようだった。それはシックザールが激情のあまり行っただけであって、

単に、一種の不安や怒りを覚えただけに過ぎない。



この子たちにはピアノの才能があるかもしれない。

物心ついた時から私と兄様はピアノの音が聞こえる環境に住んでいた。兄様は素晴らしくピアノが上手かった。私自身、兄様の演奏を見て育った。兄様の弾き方は、決して弾こうと思って弾いているレベルなのではなく、自然とあふれ出る兄様の才能自体を表していた。

おお、また金賞か、やったじゃないか。それに対してお前は……。

兄様は演奏だけでなく、指や容姿、人格までもが美しかった。白い肌に細い四肢。自分よりも人の幸せを優先して、自らの犠牲さえも厭わないような、本当によくできた人だった。私にだって優しく接したのだ。

あぁ、神よ……何故私の息子を奪ったのですか……。

そう、兄様は死んだ。肌の白さも、指の細さも、決して神の贈り物などという都合のいいものではなかった。

私の年齢が、兄様に追いついたその日からだった。

早く演奏を聞かしてくれよ、なあ。

その男は、兄様とは全く正反対の存在で、

決して、兄様と似ているだとか、そういう話ではない。



止まっていた時間を再び動かしたのはやはりピアノの音色であった。

また演奏を始めたシックザールは、今までと同じように弾いていたが、しかし、大きく異なっていたのが、シックザールはその曲を十分に弾けていなかったのだ。

指が追いつかず、リズムは疎かになり、次第と聞くものを不安にさせ、最終的にはシックザール自ら演奏をめた。「なんで演奏をめる。レズギンカは結構好きな部類なんだが」

ライヒェは、火の消えかけた葉巻を──いつの間に立っていたのか──ピアノに押し付ける。その行為は、シックザールのピアノの再度の演奏を、決していい意味ではなく、ライヒェは待ち望んでいるのだと伝えるには十分であった。

「わかった、わかった。今から弾く」

目線は決して動かさず、言葉のみでライヒェをなだめ、席に座らせる。ライヒェは胸ポケットに葉巻をしまい、膝に肘を置き、頬杖をついて、貧乏ゆすりさえしている。

シックザールは二度深呼吸し、鍵盤に手を伸ばし、そして、また音を紡ぐ。

何ら変わらない、型に嵌まっている、形骸的な演奏。

だが、ライヒェの方が黙っていない。



「おい」

低く暗い声。決して友好的でない声。だが、音色は形に縛られたまま自由に流れ続ける。

「おい!」

怒気を孕ませる。もはやライヒェはピアノを演奏させる気がない。しかしシックザールの指肢は鍵盤の上を踊り続ける。

「そんな曲聞いたことないぞ!」

「そうだろうな」

ライヒェはシックザールの予想外の反応にたじろぐ。シックザールはピアノを演奏しながら答えた。

「これは兄様が作曲した曲だからな」

それを聞いてライヒェの顔から明らかに血の気が引いた。そして、貧血の症状であるかのように椅子に倒れこみながら座り、手で顔を覆うようにして頭を抱え言った。

「そうか、そうか、これこそがあの曲だったのか」

自ら消した葉巻を、異常とさえ震えた手で胸ポケットから取り出して、

落とした。

それほどに、ライヒェは手を震わしていた。

だが、ライヒェは全く気にせず──気にすることさえままならなかったのかもしれないが──そのまま呟いた。

「『気味が悪い曲』でしかない」



このまま弾き続けるのだ、ピアノを

この曲は、誰も知らない、自分と兄様しか知らない

いつまでもついて回る、大人の汚い欲と名誉

それこそが私と兄様の、生まれついた時からの呪い

いや、きっと兄様は呪いだと考えたことなどないのだ

だから、兄様はこんな曲を作ったのだろう

それなら、私は兄様に比べ何とも不出来な子だ

だから、いつまでも兄様の真似と陰郎

この曲は、唯一の私の心の癒し

幼い時から聞き続けた、優しい音色

私が、貴方より後に生まれたこの卑しさが

弾けるのは所詮、どうしようとなくこの程度

この曲こそが、この世に生きる私を私足らしめ

この私のみが弾ける、敬愛する我が兄の遺詠



「もういい、もういい、興ざめだ。さっさと出てけ」

ライヒェは、自らにとって不快な旋律を流し続けるピアノを忌み嫌い、背もたれに項垂れ、声帯だけで苦しそうに発声した。

シックザールはピアノを弾く手を止め、

「ここからが変調なんだが」

と、皮肉と愁嘆の情を隠すことなく大げさに伝えた。その後、鍵盤を見つめ、少し間を空けてから、音を立てないよう、静かに鍵盤の上を撫でた。

深呼吸。

鍵盤に布を敷き、そのまま鍵盤蓋を閉じる。

その、シックザールのピアノの演奏を止めるという動作を見て、ライヒェは声を上げて露骨に喜び、ソファから立ち上がって右手でドアを勢い良く引き開ける。その先は何一つ見通せない闇。ライヒェは早口で捲し立てる。

「さあ、エンドロールといこうじゃないか。お前の退場でこの物語は終わる。カーテンコールは受け付けないぜ?」

「どこの演奏会にカーテンコールがあるものか。望まれようと二度と弾くまいよ」

ライヒェの喋喋に背を向けたまま答え、シックザールは一切の躊躇なくトムソン椅子から立ち上がり、ピアノから離れ、この部屋から足早に立ち去ろうとし、ドアを跨ごうとした時だった。

「おい」「なんだ」

「さっきの曲、名前はなんだ」「そうだな、つけるとするなら『シャトランチ』だ」

「ふん、面白くねぇ、くだらねぇ。さっさと出て行け」「そうか」

「ああ、そうだ」「悪かったな」

「また、来るのだろう?」「お前が巣食っているのだろうが」

「どちらでも構わないじゃないか。俺はいつでもいる。お前の心に、な」

その言葉を聞いて、ピアニストは、シックザール・リフレインは、一歩前へと踏み出した。

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ミューチュアル・ツーツクワンク スイセン @Fakespeare

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