第5話 巨獣
リヒトが何者であるかなど僕には関係ない。新たに購入した鉄製の棒は手に良くなじんだ。そろそろ試しに使ってみたかったところである。
「凄腕の護衛がいると聞いた」
「たった一人かい?」
襲撃者はリヒトの言葉を無視した。その視線は常に僕に向けられている。トーレ国の町から町へと移動している最中に山賊などに襲われることは全くなかった。治安は非常にいいのがこの国の特徴である。だが好ましい事に、それでも人通りの少ない道で待ち伏せにあう理由がリヒトにはあるようだった。
「リヒト=アンデクラード、ここで死ね」
だめだ、雑念は動きに影響を与える。僕は死地を求めているのであって、戦いの中で雑念が足を引っ張るかたちで下手をうって死にたいわけではない。だが、アンデクラードがラバナスタン帝国の皇帝の姓だというのは誰だって知っている。リヒトは皇族だったのか。それにしては御供が一人もいない。いや、そんな事を考えていてはいけない。後だ、後にするんだ。もしこの襲撃者が僕に死を与えてくれるほどの手練れで、それに応えきることができなくなってしまってはいけないと、焦りが僕を包む。
「出でよ」
しかしそれは杞憂だった。襲撃者は召喚士だったようである。それに魔術も使えるようで、杖をこちらに向けている。
喚び出されたのは召喚獣の中でも最強に近いものだった。
もはやリヒトが誰でも構わない。この召喚獣と戦えるということを喜びとして体が答えてしまっている。これは僕に死をもたらしてくれるかもしれない。
大巨獣ベヒーモスと呼ばれるそれは、僕らの体の数倍は大きい図体をしているくせに俊敏な動きと伝説にまで登場する剛腕が特徴の召喚獣だった。大軍と大軍がぶつかり合う主戦場において先頭を走っていてもなんら不思議ではない。
つまり、この襲撃者は一人であるにも関わらず軍を率いるほどの高位に属する実力者であるということだった。
「面白い」
武者震いである。ブルっと全身が震えるというのは久々の感覚だった。手に力が入る。だが、肩の力は自然と抜けていた。
左半身を前に向け、リヒトの方を見ずに言い放つ。
「この子猫は僕の獲物だ。雇い主でも手出ししたら許さない」
「この状況でそんなことを言えるのはダン殿だけですよ」
これが刀であったらいかに素晴らしいことだろうか。だが不幸な事に僕はもう刀を握る資格なんてなく、そして死に場所を求めている。
棒を構える。この鉄製の棒であの巨獣の頭蓋を砕くことができたならばと考えると喜びが足から脳天に突き抜けるようだった。
「やれ、ベヒーモス」
襲撃者が短く言った。自身も攻撃してくるのかと思いきや、防衛に徹するらしい。そこまでの能力を持ち合わせていなかったのは仕方ないだろう。この巨獣を召喚するだけでも国で有数の実力者に違いなかった。
「ふっ」
視界がやけにはっきりと分かる。刀の間合いと違い、槍や短刀の間合いが違ったために戦いにくいこともあったこの数日であったが、その間合いの調整は終了した。そこで、ああそうだったのかと気づいたのは、その間合いの調整が僕を一段階強くしていたということだった。
剛腕が迫りくる。死を身近に感じることのできるそれは非常に愛おしく感じた。真正面から受ければ望み通りのところに連れて行ってくれるだろう。だが、他にも試しておきたい事はまだまだあるようで、僕はその前足を避けた。頭では何を考えて動いたのか追いつかないが、体があの巨獣の頭蓋の感触を求めて勝手に動いているのである。
刀だったら! 手入れを欠かした事のない僕の愛刀だったならば、この剛腕を断ち切ることができたかもしれない。だが、今の僕の両の手に収まっているのは無骨な鉄の棒だった。
ゴギャッと音がしてベヒーモスの右前足が砕ける。もちろん、それを為したのは避けた動作の力をそのまま流れに乗せて鉄棒に込めた僕だった。四足獣が一つの足を砕かれただけで倒れることはない。だが、明らかにバランスの崩れた巨獣はそれでも攻撃の手を緩めようとはしなかった。
激しく空気が裂かれていくのが分かる。左の前足が通過したのはさっきまで僕がいた場所で、そこにまた空気を裂いて鉄の棒が振るわれる。
かなり雑な動きをしたとしても純粋な鈍器は馬鹿正直に応えてくれた。刃物と違い、角度など気にせず、引く事も押すことも必要としない。単純に力を込めて、その力を逃がさないように叩きつけるのである。動作が大きく振れれば振れるほどに棒に込められる力は膨れ上がった。
両前足を砕かれたベヒーモスが後ろの二足で立ち上がろうとする。倒れこみからの噛みつきを狙っているのだろうが、その動きが僕を捕らえることなどあるわけがなかった。代わりにベヒーモスはその強靭な尾を振るうようになった。これは厄介である。あっと言う間に間合いの取り方が変わってしまったが、僕はそれすら楽しんでいた。
「馬鹿なっ!? 単騎でベヒーモスとやり合うだと!?」
やり合うというのは少し語弊がある。
「僕を殺してみろ。僕に死を運んで来い」
尾をかわすことに慣れた僕はついにベヒーモスの背後を取り、背中を踏み台にして跳躍した。見上げる巨獣の脳天に、放物線を描いた鉄の棒が振り下ろされる。
かなりぶ厚い頭蓋骨だったが、僕の渾身の一撃がそれを砕く感触が棒ごしに伝わってきた。脳を破壊された召喚獣は強制的に送還され、光の粒子となって消えていった。
「ベヒーモスを無傷で……もはやあなたには呆れますよ、ダン殿」
「いや、まだ次の召喚獣を喚びだすかもしれない」
「あなたが本気で言っているという事は数日一緒にいて理解しましたが、それは普通の人には嫌味にしか聞こえませんよ」
リヒトの呆れ顔にもすでに慣れた。
襲撃者はベヒーモスを強制送還されると同時に逃走を図ったようである。僕もリヒトも追うつもりがなかった。リヒトがなぜ追わなかったかは分からないが、僕はまたあの召喚士と殺し合いをしたいと思っていたのである。
「次は、僕を死地に連れ込んでくれるかもしれない」
「なんとまあ、生き生きと死にたいと言う……」
リヒトが言った言葉は風でかき消されて僕には聞こえなかった。
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