第3話
「先日、言い忘れていたことがございました」
「何だよ、言い忘れてたことって」
ヒカルが怪訝そうに尋ねると、黒岩は言った。
「ここではなんですので、私の部屋へ参りましょう」
「部屋?」
ヒカルは少し不審に思ったが、ついていった。
路地の奥には、隠し扉があった。黒岩はその戸を開け、ヒカルを中に案内した。中には、長い階段が続いている。その階段を登っていくごとに、不穏な空気が漂ってくる。階段を登りきると、黒岩は部屋の扉を開けた。その部屋には、家具やベッドが揃っており、怪しげなコンピュータが忙しなく点滅している。黒岩は、ここで生活しているのかと感心する一方、なんとなく早く帰りたいという気持ちも出てくるのだった。黒岩は部屋の扉を閉め、そして話し始めた。
「では、これから我がプロジェクトにおける、被験者に必ず守っていただく
「ルール?」
「はい。このプロジェクトでは、三箇条、三つの決まりがあるのです。ではさっそく、その三つをお教えしましょう。その一、このことを自分以外の人間に口外してはいけません」
「このことって、例のプロジェクトのことか?」
「えぇ、もし万が一にも他人に知られてしまうと、貴方はこの世界にいられなくなります。貴方は記憶を消去され、元いた世界に強制送還されます。記憶が消されるということは、つまり、この世界で過ごした時間、このプロジェクトの存在、そしてこの世界に来て知り合ったすべての人、その他諸々を忘れることになります」
ヒカルは、それを黙って聞いていた。すると、さらに黒岩は続けるのだった。
「その二、この世界にいる間、自殺を図ってはいけません」
「自殺?」
「そうです。この世界、もとい今の貴方の身体は、元々この世界で女として暮らしていたもう一人の貴方のもの。いわば、借りものなのです。貴方がもし、自殺をすると女の心を宿した貴方は、この世界に帰ってくることができません」
「ちょっと待て、全然意味不明なんだけど。なんだよ、帰ってこれないって。もっとわかりやすく説明しやがれっての」
ヒカルが言うと、黒岩も気づいてこう話した。
「あ、申し訳ございません。前にも話したと思いますが、人にはそれぞれ、大きく分けて二つの世界線が存在しているのです。男として生まれた世界、そして、女として生まれた世界。仮に、男の世界を表の世界、女の世界を裏の世界としましょう。そうすると、貴方は表の世界から、こちらの世界に来ていることになります。ここまでは、よろしいでしょうか」
「あぁ、なんとなく……」
「つまり、元々この世界で
「……いや、でも確か世界線って収束するんじゃなかったっけ。だったら、俺が女として生まれた世界なんて存在するのか?」
ヒカルが言うと、黒岩はフッと笑った。
「確かに、一般理論で言うとそうかもしれません。ですが、一生交わることのない世界線も中には存在するのですよ。例えば、貴方の両親が結婚しなかったら、貴方はこの世に生まれてくることはなかった。かと言って、別の家の子として生まれるなんてことはあり得ませんよね? つまり、世界線は必ずしも一つに収束されるとは限らないんですよ」
黒岩の説明を聞いても、ヒカルにはわからないことがあった。もしも黒岩の言ったことが本当だとしたら、この世界で生まれた自分も黒岩からこの話を持ち掛けられたということになる。となれば、つまり女として生きてきたヒカルも、「モテない」という悩みを抱えていたことになるのだ。
「あのさ、これ自分で言うのもなんだけどさ、この世界の俺、結構可愛くね? 今日だって、複数の男子たちから声かけられたりしたしさ。それに、男と女じゃ生活リズムも変わってくるし。第一、女があんな時間にあんなとこ通るわけないだろ」
「いえいえ、それは誤解です。確かに、あなたの仰る通りかもしれません。しかし貴方が今、ここにいる以上、彼女は必ず裏の世界にいるのですよ」
「裏の世界……。いや待てよ! アンタさっき男の世界が表の世界って言ったろ? 俺が表の世界から来てんだから、こっちは裏の世界じゃね?」
すると、黒岩は笑いながら答えた。
「いえいえ、こちらが表の世界だということでしたら、間違いありません」
「は?」
ヒカルは、少し混乱を施した。
(何言ってんだよコイツ……)
「よいですか? 貴方が今いる場所、それが即ち、表の世界なのです」
「いや、だからそれがわかんねえんだって」
「それでは、逆に質問させていただきます。裏の裏は?」
「お……、表?」
そこでようやく意味が解り、ハッと気がつく。
「そうです。貴方どちらの世界にいようとも、裏の世界を見ることはありません。それは貴方だけではなく、すべての人間に対しても言えることなのです」
「つまり、表の世界は、どこにいるかで決まるってことか……」
「ざっくり申せば、その通りですね」
黒岩はそう言うと、また薄気味悪く笑うのだった。
「話が脱線してしまいました。では、その三をお話いたします。この世界では、結婚してはいけません」
「はぁ!?」
ヒカルは思わず声を上げると、その声が部屋中に木霊した。そして、怪訝そうに黒岩を見つめる。
「先ほど話しました通り、貴方のその身体はいわば借り物のような存在。なので、それはお控えくださいね」
「いや、するわけねーだろ! 男となんか」
「そうですね。私もそれは思っておりましたが、念のためお話いたしました。まぁ、恋愛は自由ですので、それは一向に構いません。ですが、行き過ぎないようにご注意ください」
「だから俺は男だって……!」
「では、あなたの幸運を祈っております」
ヒカルが言い終わらないうちに、黒岩はそう言うと、部屋から出て行こうと扉を開ける。ヒカルはそれを呼び止め、質問を投げかけた。
「ちょっと待てよ。今言ったことを、一つでも破ったらどうなるんだ?」
すると黒岩はふり返り、こう話すのだった。
「三つのうち、一つでも規則を破れば、元の世界へ強制送還されます。もちろん、その時に記憶はすべて消去いたします。では……」
黒岩は部屋を出ていこうとするが、ヒカルは構わず続けた。
「あ、あとさ、他の人には教えるなって言ったじゃん。だったら、このことについてすでに知ってる良には、話してもいいってことか?」
「はい、もちろんです。これから彼にもお話せねばと思っておりましたので、貴方が言ってくださるということなら、こちらとしてはたいへん助かります」
そう言い終えると黒岩は、とうとうその部屋から姿を消した。その直後、ヒカルは大事なことを思い出す。自分は、黒岩の腹を探るために来たのだった。他に、何か重要なことを隠しているに違いない。そう思って来たはずだが、ききそびれてしまった。黒岩は何を企んでいるのか、ヒカルは気になって仕方なかった。
ヒカルは自分のマンションに帰ると、部屋の電気をつけた。時計の日付が変わっていた。ヒカルは腰を下ろすと、疲れが溜まっていたのか溜息をついた。変なことに巻き込まれてしまった。あの時、薬を飲んだことをひどく後悔した。そして洗面所に行くと、また鏡を見た。もしも、今映っているのが自分ではなく、他人であったならば、間違いなく好きになっていただろう。
ヒカルには黒岩の正体、そして例のプロジェクトの本当の目的、それらがまだよくわからなかった。彼らは、自分をどうしようとしているのか、不安で眠る気にもなれなかった。ただ、他にも気になることが一つある。それはこの世界の自分、もとい女としての自分だ。彼女は、これまでどのような生活を送ってきたのだろう。
ヒカルは中学や高校時代、とにかく目立たなかった。いや、目立たないようにしていただけかもしれないが。それ故に、彼女が欲しいと思ってもできなかったのだ。この世界では、もしかすると彼氏がいたのかもしれない。こんなに可愛いのに、モテないはずはないだろう。そう考えたヒカルは、部屋を調べ始めた。アルバムなど、鍵になりそうなものをとにかく探した。それでも、それらしいものは何一つ出てこなかった。自分とはいえ、人のプライベートを漁っているみたいで、もうやめようと思った。その時、手に一枚の紙が触れた。ヒカルはそれを拾い上げると、広げてみた。そこには、こう書かれていたのだ。
『今年の目標』
その中には、「志望校に合格」や、「友達とカラオケ」など、いくつも目標らしきことが書かれている。達成されたものには○、達成されなかったものには×がつけられている。ヒカルはそれを、微笑ましそうに読んでいった。そして、最後の行まで来た時。ヒカルは思わず紙を落としそうになった。最後の行に、「彼氏が欲しい」とだけ書かれ、その横には大きくバッテンがつけられていた。ヒカルはそれを折り畳み、元の場所に仕舞った。それは自分の考えが、どれほど甘かったかを痛感した瞬間でもあった。
その後、ヒカルはベランダに出た。東京の夜景が、煌々と目に焼きついてくる。そしてまた、ヒカルは怠そうに座り込んだ。人は外見では選ばない。それは嫌というほど知っていたが、この時、それを改めて思い知らされたような気がした。それでも、もしも本気で自分を変えようと思っているなら、それは受け入れなければならないだろう。だからこそ、この世界では明るく生きよう。ヒカルは夜空を見上げ、そう誓った。これは、神が自分に与えてくれた、最初で最後のチャンスなのかもしれない。ヒカルはそう信じて、開き直ることにした。
ヒカルは知っていたのかもしれない。これは、もしかすると自分自身を変えるためではなく、この世界で暮らしていた彼女のためだったのかもしれないと。
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