第2話

 ヒカルは後悔した。まさか、このようなことになるとは思ってもみなかった。あの男の言っていたことはすべて本当だったのだ。ヒカルが「モテたい」という願望を持っていることや、女心を理解していないということを、あの男は熟知していた。そしてヒカルは、自分の衝動に負けたのだ。気がつけば、渡された薬に手を出してしまっていた。


 あの男、黒岩は確か、それを飲めば性転換して女になれると言っていた。正確に言うと、自分が女として生きている世界、自分から見た異世界に行くことができる。そこで女心を学習し、元の世界に戻ってくる頃には彼女ができるようになる、というようなことも黒岩は言っていたような気がする。

 ヒカルは、再び鏡を覗き込む。どこからどう見ても、女の容姿になっている。ヒカルは、自分の身に起きていることが未だに信じられず、自分の頬を抓ってみた。痛い。


(これ……、マジだよな? 俺、女になってる……)


 次に、そっと自分の胸に手を当ててみる。


(以外と柔らかいんだな……。って、何やってんだよ俺! 状況を考えろ、状況を!やばいぞ、これからどうすればいいんだ……)


 そこの世界では、もともとヒカルは女として生きていることになっている。そのため、誰も不審に思わないのだという。黒岩は、そのようなことも言っていた。ヒカルはリビングに引き返し、部屋を見渡した。寝起きで気付かなかったが、プラモなどが置いてあった場所には小物入れが置かれ、テレビゲームの類はほとんど女性向けのゲームとなっていた。まさかと思い、クローゼットを開けると、女性用の服が並んでいる。


(マジかよ……)


 このまま外に出て良いのだろうかと、ヒカルは悩んだ。そして無難な洋服を選び、ジーパンを履いて外に出た。外を飛び回っている小鳥たちが、まるでヒカルのことを嘲笑っているかのような、そんな視線を感じながらマンションの階段を降りた。


 大学へ着くと、やはり周りからの視線が気になった。本当に自分だとわかってもらえるのかという不安を抱きつつ、ヒカルはキャンパスの中を歩いた。自分以外は何も変わっていないが、今まで見ていた景色が全く違って見える。まるで、神によって洗脳されたかのように、恐ろしくもあった。

 なるべく人混みを避け、足を進めた。段々、速足になっていくのが自分でもわかった。時間という概念的感覚がなくなり、まるで異世界を彷徨っているかのようだ。いや実際、ヒカルにとってはそうなのだけれど。そう考えると、頭の中がおかしくなりそうだった。すると、


「やあ、君何回生?」

「どこの学部? 学科は?」


 と言いながら、男子学生が数人、ヒカルの前に立ちはだかった。


「よかったらさ、ライン交換しようよ」

「すみません、急いでいるので」


 ヒカルは言い、前に立っている学生たちの間をすり抜けるように、足早に歩いていった。


(何がどうなってんだよ……、怖えぇ……)


 ヒカルは、サークルの部室の前まで来ると立ち止まった。ドアを開けるのが怖い。本当に自分は、最初からこの世界の住人だということになっているのだろうか。それともあれは嘘なのだろうかと、ヒカルは本気で悩んだ。そして、一旦その場所から離れることにした。

 心を落ち着かせるため、トイレに入った。個室の鍵をかけると、そのままため息をついて屈み込んだ。


(どうしてこうなった……)


 しばらくして、話し声が聞こえてきた。トイレに誰かが入ってきたらしい。男が二人、用を足しながら話している。いつもならば、自分もあのように良たちと一緒にワイワイと会話できるのにと、ヒカルは心の中で呟いた。その時、ふとヒカルはあることに気づいた。


(自分って…………、今女じゃね?)


 血の気が一気に引いたような感覚になり、上を見上げると、カビの生えた天井だけが、視界に入ってくる。何故か、それは笑っているように見えた。


(ヤバイヤバイ、どうすればいいんだ……)


 焦っていると、幸いにもその男子たちは用を済まし、トイレを出ていった。


 よし、出るなら今しかないとヒカルは腰を上げた。そっと鍵を外し、個室の外を覗く。案の定、今は誰もいない。ゆっくりと外に出ると、出口へ向かった。

 その時、ドアが開いた。ヒカルは咄嗟に、壁の裏に身を隠した。しかし、足音は確実にヒカルの方に近づいてくる。


(もうだめだ……)


 潔く謝ろうと、ヒカルはその人物の前に出た。しかし、そこに立っていたのは、ヒカルと同じ歳ぐらいの女子だったのだ。二人は、しばし見つめ合った。ヒカルは思わず、


「あの……、ここ、男子トイレですよね?」


 と、思わずきいてしまった。その女子はキョトンとしながら、


「え、男子トイレ?」


 と、きき返してくる。


(おいおいおい、マジかコイツ。表示あんだろ)


「え? だってほら……」


 ヒカルは向こうを指すと、確かに男子用の立ちトイレがある。そうすると、彼女は笑いながらこう言ってきた。


「あ、なるほどね! あぁ、ごめんごめん。うっかりしてた」


 ヒカルは、それを聞いて呆れた。


「あ、あの〜、表示、外にありましたよね? てか、見ればわかりますよね?」

「ごめんなさ〜い。ところで、君はどうしてここにいるの?」


 彼女がそう尋ねてくるので、ヒカルも思い出した。自分も、今は女になっているのだ。冷や汗が止まらない。どう説明すれば良いのだろう。


「い、いや……。俺も……、じゃなくて、私も、間違えちゃって……」


 嘘が見え見えなのはわかっていた。でも、これ以上言葉が浮かんでこなかったのも事実だ。すると何故か、その女子がヒカルに顔を近づけてきた。


「ねぇ、名前なんていうの」


 ヒカルは戸惑いながら、本名を答えた。この名前なら、どちらの性別でも通じそうな気がしたからだ。


真宮さなみや希望ひかるですけど……」

「えぇっ!? マジ? ほんとにヒカル?」


 それを聞いて、ヒカルの頭の中は真っ白になった。何故、彼女は自分のことを知っているのか。見たところ、全く身に覚えのない顔だった。ヒカルは、恐る恐る尋ねてみた。


「えっと……、どこかで会いましたっけ」

「俺だよ! 高塚良!」

「あ、はぁ……。……はぁ!?」


 ヒカルは言葉が出てこなかった。この女が、サークルで一緒だった良だと聞いて、ますます混乱した。記憶の整理が追いつかず、パニック状態だ。



 良から話を聞くと、良も居酒屋から帰る途中、黒岩と会っていたのだという。そして、ヒカルと同じように薬をもらい、それを飲んだらこの世界に来てしまったらしい。最初は、良もこの話は信用していなかったようだ。


「まさか、ヒカルまであの黒ずくめと会っていたとはなぁ」


 良は廊下を歩きながら、平然としている。しかしヒカルにとっては、今目の前で起きている現実が、未だに信じられなかった。


「でも、おかしくないか? 世界線を入れ替えるなんてさ。しかも、こっちの世界にいた自分は今頃どうなってんのかな」

「結局は、パラワーになってるってことだろ? そっちはそっちで、俺らの世界に行ってるってあのオッサン言ってたから」


 良は、黒岩に言われたことをすんなりと受け入れているようだ。オカルトの類も信じるような奴だから、ある意味当たり前なのかもしれないとヒカルは思った。

 そして、二人は部室に行った。中には、すでに中原と山田が来ていた。二人は、女にはなっていなかった。


(こいつらは声かけられなかったのか……)


「お前ら、遅かったなぁ」


 中原が言った。黒岩の言った通り、他の人々は二人が女であることに何の違和感も覚えず、前の世界のように受け入れている。


「そうそう、今日から新メンバーが入部した。鳴嶋だ、よろしくな」


 見ると、隣に鳴嶋なるしましゅんという男子学生が座っていた。隼は一回生で、中原と山田の友達の高校時代の後輩であるのだという。良は、


「よろしく〜」


 と言いながら、隼の手を握った。何の戸惑いも見せず、今まで通りに振る舞っている。そんな良を見て、ヒカルは恐怖感すら覚えた。


(コイツ、なんでこんな普段通りにできるんだ? 簡単に、この世界の住人になってんじゃねーよ)


 ヒカルはもう一度、黒岩に会って話を聞いてみることにした。そして帰り道、ヒカルは良に話した。


「俺、もう一度あいつと会ってみる」


 黒岩は、絶対に何かを隠している。ヒカルはそう考えていた。


「でも……、何処にいるかわかんの?」

「……心当たりがあるんだ」


 ヒカルは、黒岩と最初に会った場所に行けば何か掴めると考えた。良は、何か言いたそうだったが、ヒカルはその時、すぐにでもという気持ちの方が強かったため、良を置いてその場を立ち去った。

 そしてヒカルは一人、昨夜の狭い路地へ向かった。もう日はだいぶ落ちて、少し薄暗い。それでも、懸命に黒岩の姿を探した。すると……、


「何かお探しですか?」


 と、後ろから声をかけられた。ヒカルはふり向くと、路地の入り口付近に、黒ずくめの男がヒカルを見つめながら立っている。


「これはこれは、貴方でしたか。どうです? この世界の居心地は」


 黒岩は、そう言って薄く笑った。


「どうですじゃねーよ、わけわかんねーよ」

「貴方はもしかして、私を探していたんですか?」

「そうだよ。じゃなかったらこんなとこ来ねぇからな」

「……そうですか。であれば、きっとお話があるのでしょう。でも、ちょうど良かった。わたくしも、あなたにお話があったのです」


 その話を聞いて、ヒカルは怪訝そうに黒岩を見た。


「……どういうことだよ」


 すると黒岩もまた、薄笑いを浮かべて話し出したのだ。


「先日、言い忘れていたことがございました」

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