第1話
男はゆっくりとヒカルの方に歩いてくる。何故、自分の名前を知っているのかという疑問もあったが、それよりもその男の容姿から、恐怖の方が先に出てしまっていた。顔は暗くてよくわからないが、全身黒ずくめで頭には丸い帽子を被っている。
「なんで……、俺の名前を……」
「失礼だとは承知の上で、貴方のことを少し調べさせていただきました。名前、生立ち、そして現在のことまで」
男は、淡々と話した。それを聞いて、ヒカルの恐怖はピークに達しそうになる。それは、いつ発狂してもおかしくないというレベルにまで陥った。
「誰だよ……、なんで……、そんなことを……」
ヒカルは、必死に恐怖心を殺しながら、男に尋ねた。するとその男は、不気味な笑顔を作るとこう言った。
「申し遅れました。私、黒岩吉見と申します」
黒岩と名乗る男は、ヒカルに名刺を渡した。
その名刺に書かれていたのは、聞いたこともない社名だったが、ヒカルにとってはこの際どうでも良かった。この男の正体が何者なのか、それだけを知りたいと思った。
すると、男は続けた。
「単刀直入に申し上げますと、貴方は今回、我社の開発したプロジェクトの被験者として選ばれました」
「は? 被験者?」
「はい。我社、
(まんまかよ!)
ヒカルはそう思ったが、敢えてここは冷静に質問してみる。
「……どういうことだよ」
すると、黒岩がジャケットのポケットに手を入れ、何かを探し始めた。
「口で説明するよりも、実際に試された方がいいと思いまして」
(試す?)
そして黒岩は中から、小さめのビニール袋を取り出した。そこには、薬のようなものが入れられている。
「この薬を飲んで一晩寝れば、貴方は異世界に行くことができるのです」
「はぁ?」
ヒカルには、黒岩が何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。
(異世界? アニメじゃあるまいし。誰がそんな話信じるんだよ、まったく)
ヒカルが呆れていると、急に黒岩がとんでもないことを言い出した。
「貴方がモテないのは、女心を理解していらっしゃらないからかと思いまして……」
「は? 余計なお世話だっつーの!」
ヒカルは、酔って赤かった顔をより一層赤くした。そして、黒岩は話し続ける。
「これを飲めば、貴方は別の世界に行き、女になります。そして周りからも女性として認められ、貴方の生活はガラリと変わることでしょう。男の時とは全く異なる待遇を受け、女とはどのような生き物なのか、どのような言葉に反応するのか、自然に解ってくるはずです。男に戻る頃には、それを十分に理解し、女性とどのようにして接していけばよいか解れば、恋愛もきっと上手くいくでしょう」
黒岩が言うのに対し、ヒカルは自分が
「ふざけんなよ。そんな話、俺が信じると思うか? ていうか、何なんだよ別の世界って。訳わかんねーよ、もっとちゃんと説明しろよ」
「勿論、それについても、詳しくご説明いたします。これを飲めば、貴方の魂はもう一つの世界の自分の体の中に入ります」
「もう一つの世界?」
「はい。人にはそれぞれ、幾つかの世界線が存在していることは、知っていますよね?」
「あぁ、最後は一つに収束されるっていうアレだろ?それが、どうしたんだよ」
ヒカルが答えると、黒岩も話を続ける。
「はい。しかし今回の研究で、人には無数の世界戦が存在しますが、それが大きく分けて二種類あることが明らかになったのです」
「二種類?」
「貴方が今住んでいる世界は、男としての世界。そしてもう一つは、貴方が女として生きている世界です。つまり、この薬を飲むことによって、貴方の魂だけが女としての世界に召喚されることになるのです」
「ちょっと待てよ。もしも本当にそんなことがあり得るんだったら、向こうの世界の俺はどうなるんだ?」
「ご安心ください。あちらの世界にいる貴方の魂は、こちらの世界の貴方の体に入ります。どういうことかと申しますと、二つの魂がそれぞれの世界で同時に召喚されて、その人の世界線を入れ替えることが出来るわけですね」
ヒカルは、その話を聞いても全く信じられなかった。アニメや漫画の話までなら、まだわかるような気もするが、現実にあると言われても受け入れられないのが普通だ。
「どうですか?貴方がもし、本当にモテたいのであれば、最善の話だと思うのですが」
黒岩が、ヒカルの耳元で囁いてきた。黒岩の息がヒカルの耳に当たる。ヒカルはそれを嫌がるように後退ると、答えた。
「……俺は、信じない」
「そうですか……。でもまぁ、物は試しということで、薬はもらって行ってください」
黒岩は、ヒカルのフードのポケットに薬の入った袋を入れた。
「では、ご武運を祈っていますよ」
「おい、こんなもんいらね……!」
ヒカルが返そうとすると、もうそこに黒岩の姿はなかった。
(どこへ消えやがった……)
そして、
「俺は絶対、使わねえからな! 帰ったら捨てといてやる! 大体、女の気持ち理解したところで、どうしろってんだよ。俺は今のままでモテてやるから、見てろよ。絶対にリア充に、幸せになってやる!!」
そう、ヒカルは誰もいない路地に向かって叫び、交差点目がけて走り出した。その時、すでに酔いは冷めていた。
(何が何でも、幸せに……!)
ヒカルは、ますます心に誓いを立てたのだった。
マンションに着くと、ゲーム機や漫画が床やテーブルに散乱している。
ヒカルは、先に風呂に入った。風呂から上がり、脱ぎ捨ててあったフードを拾うと、ハンガーにかけて吊るした。その時、無意識にポケットの中に手を突っ込んだ。すると、指先に何かが当たった。
ヒカルはそれを取り出してみると、黒岩から渡された薬だった。ヒカルはそれを見て、黒岩が言っていたことを思い出す。これを飲めば異世界に行くことができ、かつ女になることができる……。
「まさかな……」
ヒカルはコーヒーを落とすと、砂糖と一緒にその薬も溶かした。そして、ゆっくりと口に運ぶ。その時、ヒカルはふと我に返った。
(いや、待てよ。これって、もしかして毒薬とかじゃね? だとすると、巧妙な無差別殺人? ってことは俺、殺される? あ、いや、落ち着け。ただの薬だってことも考えられる。どっちだ? まあ、どっちにしろ異世界に行くなんてことはあり得ないだろ)
ヒカルはコップを口から離し、後で捨てようとテーブルの上に置いた。
そして、ヒカルはテレビのリモコンを手に取ると、録り溜めてあったアニメを見るため、電源を入れる。
ヒカルは、アニメをいつも十話くらいまで録り溜め、オールする勢いで一気に見るのだ。その方が、より楽しめる。大学の授業なんて、一日くらいサボっても全く問題にならない。
一通り見終わり、ふと時計を見ると午前三時過ぎを指していた。
(そろそろ寝よっかな……)
ヒカルは立ち上がり、無意識にテーブルを見た。コップに入っていたはずの、コーヒーがなくなっている。
どうやらアニメが面白すぎて、自分でも気づかないうちに飲んでいたらしい。ヒカルはそれを見て焦った。
あれがもし、毒薬だったら……。すると急に、ヒカルは睡魔に襲われた。
やがて耐えきれなくなり、近くのソファーに横たわると、眩い白い光が視界に差し込んだ。それが何なのか理解しないうちに、ヒカルは眠りに落ちてしまったのだ。
何時間が経過しただろうか。
朝日が部屋に舞い込み、外からは鳥の鳴き声が聞こえてくる。
ヒカルは、ゆっくりと目を開けた。時計を見ると、すでに七時を回っていた。昨日のことは、夢だったのだろうか。ヒカルは目をこすり、立ち上がった。そうしたら、妙に身体が軽くなったように感じた。
しかし何も考えず、寝ぼけたまま洗面所へと向かう。ヒカルは、顔を洗おうと洗面所の電気を点け、何気なく鏡を見た。そこには、全然知らない女子が立っている。それを見た瞬間、ヒカルは驚いてその場にしゃがみ込んだ。
(は? え? 今の誰だ?)
ヒカルはそう思い、恐る恐るまた鏡を覗いた。やはり、鏡には知らない女が映っている。その時、昨日の出来事を思い返した。
『あの薬を飲めば女になる』
思い出した瞬間、ヒカルは青ざめ、大声を出した。
「はぁーーーーーーーーーーっ!?」
その時まで、完全に夢だと思っていた。
「嘘、だろ……」
ヒカルはその場で固まったまま、しばらく動くことが出来なかった。これは夢か現実か、それすらもわからなくなっていた。そしてまた、鏡に映る自分を見つめた。
それは、ヒカルが自分自身でも「可愛い」と思えるほどの、美少女であった。
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