カルテ9−6 踏み出したサキはミライへ

あくる早朝、当直のために起きていたサキは、誰もいないエントランスのソファーの中に身をうずめていた。ついさっき飲んだコーヒーのせいもあり、昨晩の出来事のせいもあり、いつもよりも目と脳が冴えているように感じていた。昨晩立っていたエントランス前の庭が少しずつ明るく染まっていくのを眺めつつ、サキは昨晩のことを思い出した。


兎にも角にも、ライオンたちは私が博士の治療をすることを認めてくれた。しかしそれは治療をする上での前提条件でしかない。治療の成否は私の手術が成功するかどうかにかかっている。ヒイラギと私は何度も検討して安全な手術予定を練り上げてきたわけだが、手術は常に想定外の事態が起こりうる。油断は許されない。更に外科医は手術中のアクシデントに加え、術後の合併症についても考えなくてはならない。


「FCCSの腫瘍摘除術の術後合併症は未知の領域と言ってもいい。例えば、腫瘍摘除の際に神経を傷つければ脊髄神経の障害が起こる。二次感染では髄膜炎や創部感染。それに手術する場所は脊椎だから、走ったり飛んだりといった運動能力にどこまで影響がでるのか・・・もしかしたら運動機能回復の目的で追加の手術が必要になるかもしれない。」


このような事態を予防するために様々な検査や機材が用いられる。しかしどれほど注意していても合併症が出る確率は0にはならない。


「結局、臨機応変に、適切かつ迅速に診断・対処。それしかないのよね。特に重要なものはいっそ紙に書いて手術室に貼っておこうかしら。」


サキがぶつぶつと独り言を並べていると、病院に向かって歩いてやってくる誰かの影がドアのガラス向こうにちらりと見えた。


「こんな早朝に誰かな。」


サキがエントランスの鍵を開けて待っていると、荷物を抱えたその人は急ぐ様子でサキの前に駆けつけた。


「サキ先生ですか。すみません、こんな朝早くに。あの、私はアナウサギっていいます。博士は起きていますか。」

「おはようございます。博士は今は寝ていますが・・・アナウサギさん、私の名前を知っているのですか。」

「はい。昨日の夜、ここで先生の話を聞いていたので。それで、これを博士に渡したくてやってきたんです。」


そう言ってアナウサギは手に持っていた紙袋をサキに渡した。中を覗くと、あまり見かけないオレンジ色をした、甘い香りのするジャパリまんが入っていた。


「博士へのお見舞いの品です。いくつか入っているので、よかったら先生も食べて下さい。」


そう勧められたので、サキはそのジャパリまんを小さくちぎって口に運んだ。ニンジンとオレンジの甘い味がした。当直で疲れていたサキはちょうど甘いものを欲していたので、ジャパリまんの甘い味には思わず頬が緩んだ。


「とっても美味しいですね。今まで食べたことのない味です。」

「でしょう?よかったわ。」


アナウサギは嬉しそうにピョンと跳ねた。


「このジャパリまん、私が作ったんです。とは言っても博士に選んでもらった調理の本に載っていたレシピを参考にしたんですけど。なのでこのジャパリまんが出来上がったらまずは図書館に持っていって博士に食べてもらおうかなと思っていたんです。でも持っていった時、図書館には誰もいませんでした。博士がここに入院していると知ったのは1週間前です。でもここに来る勇気は出ませんでした。」

「・・・そうですよね、私の体のことはみんな知っていますものね。」

「先生には申し訳ないですけど、なんとなく怖いと思ってしまって・・・。でも、昨日の先生の話を聞いて、私は考えを改めようと思いました。体がセルリアンだとしても、きっと先生は私たちフレンズのために頑張ってくれるお医者さんなんだろうって思ったんです。そう思ったら、ここに来るのがそんなに怖く無くなりました。だから早速ジャパリまんを持ってここに来たというわけです。私、何分せっかちなもので。」

「そうだったんですか。そう言っていただけるととても嬉しいです。」

「ヘラジカさんも言っていましたけど、私も先生を信じています。博士の治療の成功を祈っています。」


アナウサギはそう言い残すと猛スピードで丘を駆け下りて行ってしまった。サキは渡された紙に手を入れ、ジャパリまんをもう一欠片ちぎって食べた。またニンジンとオレンジの風味が口いっぱいに広がった。


「甘くて美味しい。」


我慢できずサキはちぎられた残りのジャパリまんを取り出して、直接かぶりついた。


「甘い・・・いやちょっと甘しょっぱいかな・・・」


いつもはジャパリまん一つくらいぺろりと食べてしまえるのに、この時は何故かいつもより少し時間がかかってしまった。



午前8時、博士が起きて朝の診察をし終えた後、サキは昨晩の出来事を博士に伝え、それから今朝もらったジャパリまんをみんなに渡した。博士は窓際に立ち、ジャパリまんを美味しそうにかじりながらサキの話に耳を傾けていた。サキが一通りの事実を伝えると、博士は多少嬉しそうに目を細め窓を開ける。涼しい風が気持ちよく吹き込んできた。


「やれやれ、命拾いしたのです。もし連中に無理やり連れ戻されることになっていたら、私の命はあと1年だったのです。このまま放置すれば私が死ぬこと位は連中も理解できたのでしょう。尤も、その方がエリアの統治に新しい風が吹いて良かったのかもしれませんが、ねえ助手。」

「縁起でもないこと言わないでほしいのです。」


助手がツンと顔を逸らすのを見て博士はイタズラな笑顔を浮かべる。


「それと、知らないうちに一人客が増えているではないですか。」


博士はそう言って部屋の隅にどっしりと座り込んでジャパリまんを口に放り込むヒグマをジロっと見た。ヒグマは動じることなくジャパリまんの最後の一欠片を無造作に喉の奥に投げ込んでゴクリと飲み込み、悠長に答えた。


「ああ。私はあなたの護衛ってことになってる。私が有事の際あなたの身を守ることが、先生があなたを治療を続けるための条件でね。」

「そうですか。ただし、お前の仕事は100%無いですよ。サキの本質がセルリアンでないことは、お前もよく知っているはずなのです。」


それを聞いてヒグマはクックッとしゃくり上げるように笑った。


「その方が良いんですよ。あなたにとっても、わたしにとってもね。とはいえ、私がここにいることが他のフレンズたちの安心材料になるんです。先生はこれで余計なことを気にせずあなたの治療に集中できるってわけ。というか博士、立って歩けるんですね。FCCSってもっと重い病気かと思っていましたよ。」

「FCCSは発作が致死的ではありますが、非発作時は元気なんです。」


サキが口を挟む。


「発作の原因は背骨の中の腫瘍でして、それを切除し発作の原因を取り除くことが手術の目的です。助手から予め口止めされていたのでライオンさんたちには伝えていませんが、腰の腫瘍はセルリアンの性質を持っているようです。」

「ふうん。」


ヒグマは平然とした反応をしたのでサキは面食らった。


「驚かないんですね。」

「まあね。私はセルリアンハンターだからセルリアンについての正しい知識は一通り持っている。でもセルリアンについての知識がない多くのフレンズたちはそれを聞いたらびっくりするかもね。先生の話を聞いてやろうという生まれなかったかもしれない。助手が口止めしたのは正解だよ。」

「言わぬが花、という事もあるのですよ。」


助手は得意げにふんぞり返る。博士はレースのカーテンを窓にかけるとベッドに腰掛け、それから改まってサキに言った。


「サキ、お前はよく頑張ったと思うのです。あれだけの大人数の前にして、自分の存在と意思を伝えるべく誠意と言葉を尽くした。その気持ちがフレンズたちの認識を変えたのです。」

「いえ、私はただがむしゃらに・・・それに私一人だけではあんな勇気は出ませんでした。博士や助手やヒイラギ、アライさんたちが見守っていてくれたから出来たことです。」


サキは照れて頭を掻くが、博士は変わらず穏やかな表情でサキを見据え続ける。


「その仲間たちも、お前が努力して勝ち得た仲間なのです。ミライさんも言っていましたが、生き方には嘘はつけない、そして言葉とは本人の生き方から滲み出てくるものです。お前の生き方や発した言葉に嘘偽りが無いことを、きっとライオンたちも感じてくれたのでしょう。」

「そうだといいんですが。」

「事実、ヘラジカやこのジャパリまんを持ってきてくれたアナウサギのように、お前の存在を認めてくれるフレンズたちもちょっとずつ増えているではないですか。間違いなく、お前はお前自身の力で、お前に対するフレンズたちの意識や空気を変えつつある・・・意識が変われば運命も未来も変わります。きっとサキが行こうとする道筋に光が差しはじめたのだと思う。私はそれが本当に、自分の事のように嬉しく、誇らしいのです。」


そう言い切って博士は屈託のない笑顔をサキに見せた。

博士の労いの言葉と柔和な表情に、サキの心はまた救われた。特に、自分のことのように誇らしいと博士が言ってくれたことが、サキにとっては何より嬉しかった。これまで博士の優しさに何度も助けられ生きてきたサキ、それは医師と患者という立場になっても変わらなかった。患者である博士に教え導かれている自分がいた。

だからこそ、その恩に少しでも報いたい。あなたに救われて、ようやく一人のフレンズとして歩き出せた私を、もう少し見守っていて欲しい。だから博士に死んでほしくない、絶対救けたいという強烈な意思が湧き上がるのだ。


(いつだって全力。でも今度はもっと全力。)


「手術と治療、必ずやり遂げてみせます。」


主治医は声に出して博士に伝えた。



それ以降、博士は何度か軽い頭痛を訴えたのみで病状には大きな変動はなく、手術は予定通り行なわれることとなった。

手術前日の夜、サキはいつもより早く寝ようと宿直室の畳の上に仰向けに寝転んでいた。手術へのプレッシャーと緊張のせいで中々寝付けないサキに、隣で寝ていたヒイラギが小さな声で話しかけてきた。


「いよいよだね。」

「そうだね。」

「なんか目が冴えちゃって。すぐにでも寝たいのに。」

「私もそう。あんなに準備して、プランも何種類か考えたのにね。本番前はやっぱり緊張してしまう。」


サキは手を伸ばしていつものようにヒイラギの頭を撫でてやると、ヒイラギは気持ちよさそうに尾を振り顔をほころばせた。それから撫でるサキの右手をとって眼前に持ってきて、それをまじまじと見つめた。


「FCCSの腫瘍もセルリアンなんだよね。いろんなセルリアンがいるんだなって思うよ。FCCSのセルリアンはフレンズを苦しめる悪いヤツだけど、サキさんの手足のセルリアンはそれとは真逆だもの。」


サキは左手を天井にかざすように持ち上げて、青い色をした自身の手の甲を見て言った。


「だとしても、私はセルリアンなのよ。マツリカから採取されたFCCSの病理標本が入ったガラス瓶があったじゃない、私のセルリアン的部分は多分それから発生したんだと思う。もしかしたら私のこの腕はFCCSのセルリアンの遺伝子を基に作られたものかもしれないわけ。・・・奇妙よね、セルリアンの私が、同じセルリアンであるFCCS腫瘍を退治しようとしているわけなんだから。」


するとヒイラギは頭を畳に擦り付けるようにして首を振って、サキの右腕を抱えるようにして余計に強く抱きしめた。


「おかしくなんかないよ。サキさんは医者だし、フレンズなんだから。セルリアンからフレンズを守ろうとするのは当然のことだよ。ギンギツネのお姉さんも言っていたけど、サキさんは博士の治療を通して、サキさんが本当にフレンズであることをみんなに証明するんだ。」

「・・・うん。」

「僕もできることを全力でして、サキさんのお手伝いをする。だから、一緒に頑張ろうよ。」


右腕全体にフレンズの温かさを感じた。その感触がこの時無性に有り難く感じられたので、サキはもう少しヒイラギの方に体を近づけた。そしてその肩を優しく持って抱き寄せた。


「・・・ありがとう。これまでの治療も手術も、どれもこれも、私一人じゃ出来ないことばかりだった。ヒイラギがいてくれることが、私にとってどれだけ救いで、ありがたいことだったか、言葉じゃとても表しきれない。

だから明日も、これからも、よろしくね。」

「・・・うん。」


胸元でヒイラギが小さく頷いた。それから間もなくして微かな寝息が聞こえるようになった。サキはヒイラギの肩に回していた手をどけて、再び仰向けの姿勢になって藍色の陰の落ちた天井を見上げた。そして一度深く息をして、静かに目を閉じた。今度はすぐに眠ることができた。



翌朝7時、術前診察を終えた後サキは博士にいつものように白湯を持ってきた。そしていつも通りの声色をなんとか作って連絡事項を伝えた。


「手術の予定開始時間は9時です。全身麻酔を使用するため、手術前の水分補給はこれが最後になります。これ以降の飲食は出来ません。」


博士はそのコップを受け取り、それをすぐに飲み干した。それからサキの顔色をちらりと窺った。


「多少、固いですね。緊張ですか。」


繕いは無意味だった。一方で博士はいつもどおりのハッキリした口調だった。


「そうですね。一応昨日は良く眠れたのですが。」

「緊張するのは至極当然のことなのです。ある程度緊張感があった方がパフォーマンスが上がると言われているのです。肝心なのは、不必要な緊張を背負い込み、手元が狂ってしまうことではないのですか。」

「その通りだと思います。」

「お前とヒイラギはこの1ヶ月ずっと手術を安全かつ確実に行えるよう検討を重ねていたのですよ。それだけの準備をしてきたことを思い出すのです。それに私はお前たちの考えた手術計画を聞いてOKを出したのですよ。どうか安心して、落ち着いて手術に臨んで欲しい。

それが手術を受ける私からのお願いなのです。よろしく頼むのです。」

「はい。」


サキの返事を聞き届け、博士はベッドに体を沈めた。病室を離れる際、博士の足が小さく震えていたようだった。少なくともサキにはそう見えた。



午前9時、博士は予定通り地下1階の手術室に入室。手術台の上にうつ伏せに乗ってもらい、モニターを装着した後シートをかけて術野を消毒。そして麻酔を導入した。

種々の機械類を設定した後、緑色の手術着に着替えたサキは手術室に入った。


同じ手術着を着たヒイラギ、助手、ヒグマが一斉にサキの方を見て、頷く。サキも頷き返した。

ヒグマは博士の護衛という任務があるため手術室の隅の椅子に座って控え、助手は手術台から少し離れた位置でPCに向き合っていた。助手には術中に分からないことが浮上してきた場合、ユウホの論文などを読み直して不明な点を確認して欲しいと頼んである。そして手術台のすぐ前には、ヒイラギが真っ白な無影灯の下でサキが来るのを待っていた。


「麻酔導入完了、デスフルランで鎮静深めに維持します。バイタルは安定。」

「了解。マンニトールはそのまま続けてOK。」


サキも無影灯の下に立ち、四角形に切り取られた青いシートの窓から覗く博士の腰部を見下ろした。そして一度深呼吸をして、ヒイラギ、助手、ヒグマをそれぞれ一瞥した。


「いよいよですか。」


助手が小さな声で囁く。サキは頷いて目を閉じる。

この手術で博士の未来、そして私の運命が大きく動く。その先に訪れる未来がどんなものかなんてことは神様にしか分からない。医者は神様ではないのだから。私はただ、私の知識と技術、周りにいてくれる人たちを信じて、この運命を切り開き、幸せな未来を目指して前に進んでいくだけ。


「始めます。」


サキは一言そう告げると部屋中に緊張感が走った。ヒイラギも助手も、いつになく固い表情でサキを見つめていた。執刀医サキは無影灯の下で煌めく灰白光を纏い、博士のすぐ側に正対した。


「・・・これより髄液濾過交換術を併用したFCCSに対する根治的手術療法を行います。患者はアフリカオオコノハズクの博士、フレンズ齢9歳。手術プランはいくつかありますが、原則腫瘍を一塊に切除することを目的とします。では・・・」


一瞬にして重くピリッとした空気が部屋の中に満ちた。



髄液濾過交換術を併用したFCCSに対する根治的手術療法、この手術はまず髄液の濾過及び交換をすることから始まる。

これは髄液中に既に散らばった微小な腫瘍片を可能な限り除去するために必要な処置である。マツリカの手術の際には、この髄液中の腫瘍片が術後凝集し、最終的に致命的な脳機能障害を起こした。それを防ぐ目的で行なわれる操作だ。

頭部と腰部の2箇所に髄液ドレナージ管を設置し、腰部の方から髄液を取り出す。取り出された髄液は濾過にかけられ、腫瘍片が取り除かれる。濾過された髄液は脳のドレナージ管より再び脳室内に戻される。この作業を髄液中から腫瘍片が完全に除去されるまで続けるのだ。

髄液は普通150ml程度しかないので濾過の作業自体にはそれほど時間はかからないが、髄液を取り出すスピードと脳へと戻すスピードのバランスを間違えれば、脳圧が上がりすぎたり下がりすぎたりしてしまう。そのようなことが起きないよう、サキとヒイラギは細心の注意を払ってこの作業を行った。


手術開始から1時間後、ようやく髄液から腫瘍片が検出されなくなったため、サキはようやく腰部のFCCS腫瘍の切除に取り掛かる。


「メス。」


サキはメスを受け取り、術野であるL1L2腰椎間の正中にそって第一刀を入れた。



(*筆者注。手術のシーンについて。術野をより具体的にイメージして頂けるよう、イラスト付きのスライドを1枚作成しました。もしよければ御覧ください。以下にリンクを添付します↓)

https://twitter.com/DrSAKIfriends/status/1305853879880265729



臼のような形状の椎骨が重なり合って出来ている脊柱は、思うよりもずっと深いところに埋まっている。この手術は背骨の真ん中を通る脊髄まで到達する必要があるわけだが、それには脊柱に付着し覆い被さっている厚い脊柱起立筋や頑丈な靱帯をどうにかして処理しなければならない。サキは外視鏡モニターを見ながら一部の棘突起を削り取り、脊柱起立筋と棘間靭帯を切り開いて左右に寄せ、黄色靭帯を露出させた。黄色靭帯の奥には硬膜に包まれた脊髄がある。


「電気メス。」


ジュッという音とともに冷却水が蒸発し細い白煙が立ち上る。深層の硬膜を傷つけないよう、少しずつ黄色靭帯を除去していく。時間をかけて黄色靭帯を四角に切り抜くと、脂肪の下にようやく硬膜が姿を現した。


「これか・・・」


ピタリと手が止まる。


椎孔の中に収まった、灰色の硬膜に包まれた脊髄。腫瘍があると思わしき箇所は腫瘍によって内側から少し押され膨れているように見えた。指先で軽く触れてみると、一枚の薄い膜を隔てた奥にスライムのような不思議な弾力が感じられた。


「脳圧は下がりすぎていない?」

「むしろ少し高いかも。」

「わかった、FiO2を5%上げて。腫瘍は硬膜にくっついているわ。腫瘍と一緒に硬膜も切り取りましょう。足りない部分はフィブリンシートで塞ぐ予定。」


サキは癒着のある正中から少し左にずれた場所で硬膜とくも膜を縦に切開し、翻転させた。硬膜がめくりあげられ、髄液が漏れ出した。そして真っ白な腰髄と脈打つ真っ赤な後脊髄動脈が覗いた。それと同時に腫瘍のある部分が固まっていくような感覚をメスの先から感じた。予想通り、サキは慎重にペアン鉗子を使い硬膜とくも膜を持ち上げ、術野を完全に露出させた。


「吸引管。それから鉗子。」


術野を覆っていた血液や髄液を除去すると、腰髄の末端である円錐部の右側にFCCSの腫瘍は居座っているのが目に入った。マツリカから採取された病理標本は黒曜石に似た形態をしていたが、この腫瘍はそれとは少し違っていた。

見た目の水晶のような鉱質感は同じ。しかし色調が黒ではなく藍色、光の当たる角度によっては群青色に見えた。サキの手足に似た色だった。


「・・・こんにちは。」


なぜか挨拶が口をついて出た。ツンと鼻の奥を突くセルリアンの臭いを感じ、同時に手足の神経を微弱な電流が走ったような痺れを感じた。その臭いはどこかで一度嗅いだことのあるもので、それから自分の手足の臭いにほんの少しだけ似ているように思えた。


「セルリアンの臭いが感じられるのです。マスクの上からでも分かるのです。」

「ああ。セルリアン腫瘍というのは本当だったんだな。」


助手とヒグマが口々に言った。ヒイラギも頷いて術野の腫瘍をまじまじと覗き込む。


「画像検査じゃ色までは分からなかったけれど、黒じゃないんだ。」

「セルリアンにも様々な色をもつものがいるのです。黒、青、紫、赤など。同じような体を持つ色違いな個体もいるのです。」

「ということは、FCCSの腫瘍とその色調に、特に関連は無いということですね。」

「ええ。そこは岬医師を信頼すべきなのです。」


サキは再びモニターに映された術野の拡大像に目を向ける。事前の検査の通り、腫瘍は脊髄実質や血管への浸潤は認めない。外側の硬膜には癒着を認め、内側のくも膜に癒着は無かった。代わりに通常は見られない薄い膜が一層形成されていた。これが腫瘍を包み、腫瘍組織に血液を補給している皮なのだろう。この膜とクモ膜の境界に沿って剥離すれば、FCCS腫瘍を丸ごと切除できるはずだ。


「予定通り腫瘍を切除しましょう。特殊紫外線ライトを持ってきて。」


サキに言われヒイラギは手術室の隅に置いてあったスタンドライトのような機械をカートに載せて持ってきた。ライトが術野の上に被さるように設置し、周波数を調整してスイッチを入れた。すると腫瘍全体がライトグリーンに光った。


「おお。これが腫瘍蛍光マーカーというやつなのですね。」


光を放つ腫瘍をみて助手は感嘆した。


「ええ。手術の前に、博士には腫瘍に集積する特殊な薬を飲んでもらいました。その薬は特定のスペクトルを持つ光に照らされると光を放つ性質があります。だから、その薬がたくさん集まっている腫瘍部位だけがはっきりと緑色に光るわけです。

さてと・・・無影灯を少し暗くして。うん、どうやら腫瘍組織はこの大きいセルリアン腫瘍に限局している。他の部分に浸潤は無いことがわかる。空間的多発がないことも事前のMRIで確認済みだ。」


腫瘍の周囲を見てサキは小さく呟き頷いた。それでは予定通り手術を進めようかと思った、その時。何気なく腫瘍を見ていたサキは奇妙な違和感を覚えた。少しだけ、腫瘍の内部の一点が他の場所より強く光っているように見えた。見間違いかと思ってもう一度よく見たが、やはり腫瘍の内部が明るく輝いているように感じられた。


「ねえヒイラギ。この腫瘍、中のほうが強く光っているように見えない?」

「えっ?そうかな・・・あ、本当だ。中に何か光る小さい塊があるカンジだね。」

「やっぱりそう思う?FCCSのような嚢腫様の良性腫瘍って内部は均一なのが典型なのよ。」

「エコー使う?」

「そうしましょう。切除してからじゃ遅いもの。バイタルサインは安定しているから、余裕のある今のうちに確認しましょう。」


サキは無影灯の明るさを戻し、ヒイラギに持ってきてもらった脳神経腫瘍用のエコーを用いて腫瘍の内部がどうなっているかを調べることにした。

超音波を発する細い探査子を腫瘍表面に当てると、腫瘍内部の構造がはっきりと捉えられる。探査子の位置をずらしていくと、確かにヒイラギの言った通り、小さな楕円形の影が内部にあるのが分かった。大きさは3〜5mmほどのその塊は、腫瘍のほぼ中央に浮かんでいた。


「この塊に腫瘍蛍光マーカーが多く取り込まれていた、つまり腫瘍の中でも代謝が活発な領域ということかしら。核、みたいな。」


サキの呟きを聞いてヒイラギが尋ねる。


「核かあ。たしかFCCSの腫瘍って一つの細胞が肥大化してできるものだったよね。つまりこの腫瘍は単核ってことだから、この小さな塊は本当に核なんじゃないの?」

「その可能性はあるわね。そういえばマツリカの標本にも核らしき構造物は見受けられたわけだし。単核生物・・・

単核・・・セルリアンも単核生物だったよな。それがFCCSという腫瘍の病理診断上の大きな特徴だった。

核、つまりコアってことよね。

・・・

あれ?

・・・・・・

セルリアンのコアだって?!」


閃いたサキはハッとなって術野の腫瘍を振り返った。FCCSがセルリアンの性質をもつ腫瘍というのならば、当然コアが存在する。


「コア、つまり石はセルリアンの急所だと聞いたことがある。」

「突然何を言っているのですか、サキ。」


呆れたような口ぶりで声をかけた助手に、サキは食って掛かるように勢いよく聞き返した。


「ヒグマさん、石を破壊されたセルリアンはどうなるんですか。」

「はあ? どうなるって・・・そりゃあパッカーンとキレイに砕け散るよ。」

「砕け散るって、つまり死ぬってことですか。」

「ああ。跡形もなく消えるよ。・・・・・・まさか先生、そのFCCSのセルリアン腫瘍にも石があると? ちょっと見せてもらっていいかい。」


ヒグマは勢いよく立ち上がり、ヒイラギの方から術野を覗き込んだ。そして腫瘍のじっくりと見つめ、それから臭いを嗅いだりした。ようやく顔を上げたヒグマは目を丸くしてサキに言った。


「驚いた。この臭いは間違いなくセルリアンだし、内部の小さい核みたいなものは確かに石だ。そこにサンドスターのエネルギーが集中しているよ。」

「わかるんですか。」

「ハンターの経験と勘だよ。何百何千と狩ってきたからわかる。」

「そうですか・・・なるほど。この腫瘍が良性腫瘍であり、一つの細胞で構成されていること、石の存在。これで全てが一つに繋がりました。ありがとうございます。」


サキは腫瘍が映し出されたモニターをじっと睨んで、そして静かにヒイラギに指示を出した。


「プランCに移行します。例のモノポーラーを準備して。」

「わかりました。」


ヒイラギは頷いて部屋の隅に置いてあった、ユウホがかつて特注したモノポーラーを取ってステンレスの器械台の上に置いた。


「プランCって・・・まさかサキ、あのプランですか?」


助手はうろたえて縋るような目つきでサキを見る。


「はい。」


サキは毅然とした態度で助手に返事した。そしてモニターに映るセルリアン腫瘍を今一度睨み治し、鋭い声で告げた。


「私の手で、このセルリアンを退治します。」

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