カルテ9−7 踏み出したサキはミライへ
私はずっと気になっていた。なぜユウさんはこのモノポーラーを、しかもマツリカが死亡した後で作ったのかということを。
けれど、私の中に流れるユウさんの血の存在を知り、そしてFCCSと対峙して、その理由がようやく解った気がした。
このモノポーラーこそが、ユウさんがマツリカと交わした”FCCSで苦しむ患者をたくさん救う”という約束の答えなのだ。ユウさんはFCCSがセルリアンの性質を帯びていることに気づいていた。エビデンスが薄かったため、そのことについては最終論文に書かなかったのだろうが、しかし確信していた。
「石を破壊すれば腫瘍はすべて除去できるはずです。」
サキはペンのような形状をしたモノポーラーを手に取り、その先端に特注の細い針のようなアタッチメントを装着した。眼前に掲げられたユウホの”遺志”は無影灯に照らされてキラリと輝いた。
「しかし、そんなことをして博士の体に影響は無いのですか。」
助手が心配そうに聞くと、サキは大丈夫だとハッキリ答えた。
「FCCSは良性腫瘍です。腫瘍を栄養している血管を除けば、博士の体と腫瘍は被膜によって完全に隔てられていることが解っています。FCCSの石を破壊する前に主要な栄養血管は焼いて塞ぎますが、その処置を施せば大丈夫です。」
サキは術野を映すモニターに向き直り、静かに深呼吸した。そして自分の中に眠るユウホの存在をいつもよりほんの少しだけ強く意識した。すると離れの地下研究室で感じたあの時の臭い、古い血のような臭いを一瞬感じ取った。ゆっくりと目を開けると、次の指示を待っているヒイラギの顔が目の前にあった。
ヒイラギは少しぼーっとしていたのか、少しの間何も言わず、ただサキの目を見ていた。それからようやく気を取り直したようにサキに声をかけた。
「プランC、始める?」
その言葉にサキは小さく頷いて答えた。
「始めましょう。まずは腫瘍が付着している部分のくも膜を処理する。脊髄保護用のシールド設置。それから電気メス。ヒイラギは鉗子でくも膜を押さえていて。」
サキは先端の細い電気メスを手に取り、腫瘍とくも膜の境界部分に先端を当て、通電ペダルを踏んだ。腫瘍とくも膜の癒着が電気メスからの熱により剥離され、くも膜からの出血も焼灼により止血された。サキはその調子で少しずつ電気メスを滑らせ、腫瘍に出入りする栄養血管を処理した。
そしてサキは遂にユウホのモノポーラーを手に取る。さっきまで使用していた電気メスの電源コードをモノポーラーに付け替えてから、針の先端を腫瘍の表面に斜めに突き立て、通電ペダルを踏む。すると腫瘍表面を覆う被膜が破け、氷がひび割れたような円形の亀裂が走った。しかし針の先端が1ミリ程度進んだところで極端に抵抗が増し、針の進みが止まった。
「あれ、針が入っていかない?」
「腫瘍が固すぎるのかしら。」
このまま針を押し進めても針先が損傷するだけである。それに力任せに押し込めば腫瘍の後ろにある脊髄まで破壊しかねない。サキは一旦針を抜いて考えた。
(確かにこのままでは上手くいかない。何かが欠けているんだ。)
血で赤褐色に汚れた柄の部分から伸びた、白銀の針。その先端には腫瘍の黒っぽい組織液、つまりセルリアンの体液が付着していた。
問題はこの固さである。つまりどうにかして腫瘍を柔らかくすれば良い。一つの方法としては照明を暗くすることだ。この腫瘍は光に反応して固くなる性質があり、光を遮ってやれば腫瘍は再び柔らかくなる。しかしこの方法では腫瘍全体がスライム状になるため、腫瘍片が髄液中に再び飛び散る危険性があり、術後合併症の脳ヘルニアの発生リスクが高くなってしまう。それではマツリカの時の二の舞だ。
(となると、何らかの薬剤を使って溶かす。ドリルで削る・・・しかし腫瘍は小さいからどっちも難しいか。正常な脊髄や馬尾を傷つければ一巻の終わり。)
サキは更に考えを深めるため目を閉じた。
そうしていると、不意にセルリアンの臭いを少しだけ近く感じるようになった。加えて血の臭い、更には地下につながる通風口から流れてきたのだろうか、地下研究所に漂っていたあのジャスミンの花の香りまでが混ざりあってサキの嗅脳を刺激するようになった。混沌とした気持ち悪さを覚えサキは眉を顰めチラとヒイラギを見た。しかしヒイラギはジャスミンの匂いに気づくような素振りは見せず、ただサキを見上げていた。
(前にもあったっけ、私だけが感じる臭い。)
心のなかでそう思った時、じわりと両の目の奥が急激に熱くなっていく感覚を覚えた。網膜が沸騰していくような灼熱感、これはもしや群発頭痛か、サキは半歩後ずさりぎゅっと目を閉じた。
(おかしい、こんな突然で群発頭痛なんて・・・)
しかしサキの予測は外れていた。確かに目には異常なエネルギーを感じてはいるが、痛みは特に無く、目の奥に籠もる熱にもしだいに慣れてきた。
それどころか血の巡りが途轍もなく軽やかに、身体全体は軽くなったように感じた。脳も冴えたのか、さっきよりも集中力が高まっている気がする。
今なら、術式に何が欠けているか、解るかもしれない。そう思った。
・・・
・・・・・・
数十秒間か、数分間か経った後、サキは一言ぽつりと言った。
「原点に立ち帰るんだ。セルリアンも、フレンズと同じ一つの生命であり生物だ。」
ヒイラギは突然何を言い出すのだという様子で首を傾げた。
「ヒイラギ、例えばあなたが走って転んで膝を打ったとする。その時どう感じる?」
「どうって・・・転んじゃった、痛いなーって。」
「でしょう。フレンズには五感があるからね。じゃあセルリアンはどうかしら。同じ生物だもの、五感を備えているはずよ。五感を感じることで何らかの情動が生まれるかまではわからないけれど、少なくとも感じてはいる。」
「ええと、ということはセルリアンであるこの腫瘍も、一個体の生き物として感覚を有しているってこと?」
「そう。さっき私が腫瘍の内部に針を進めようとしたでしょう。腫瘍はその痛みを感じ、反射的に内部を固く変化させて、刺激から自分を守ったということなの。」
「サキ、なぜそこまで言い切れるのですか。」
そう聞かれると、サキは自分の両手を胸元に掲げ見つめた。
「それは、私の腕と脚がセルリアンだから。この手足にはちゃんと感覚があります。呪いつきの腕だけど、この手足が無かったら私は医者にはなれなかった。」
助手が神妙な顔つきでサキの目元を覗き込む。サキはようやくゆっくりと目を開き、助手に両の瞳を見せた。その時のサキの瞳は、かつてサーバルが自分で書いた手紙を読み上げる時に見せた瞳と同じ様に、恒星のようなキラキラとした光を放っていた。
「お前・・・その目は、野生解放しているのですか。」
助手は驚いて瞼を目一杯引き上げた。
「ああ、これを野生解放というんですね。自覚するのは初めて・・・さっきから身体が軽い感じがするのはそういう理由なんですね。」
「ええ。野生解放はサンドスターを多く消費し、その間フレンズの身体能力を大きく引き上げるものです。しかし体内のサンドスターには限りがあるのです。悠長にはしていられませんよ。」
「そうですね。集中力のある今のうちに決着をつけましょう。」
サキはまた博士の身体の横に立ちFCCS腫瘍と対峙した。一度深く息をして、それからヒイラギに二つ指示を出した。
「キシロカインゼリーあるわよね。それからペントバルビタールを1ng調製しておいて。」
「はい。指示書にあったから準備しておいたよ。でも何に使うの?」
「鎮痛よ。」
「鎮痛って、博士は全身麻酔にかかっているから鎮痛は十分じゃないの。」
「博士の鎮痛じゃないわ。セルリアンの鎮痛よ。」
サキは細い白金耳の先端にゼリーを極少量取り、それを先程モノポーラーで作った小孔周辺に優しく付け、ゼリーを薄く延ばした。
「このセルリアン腫瘍は博士の体細胞から発生したものだけど、博士とは全く別の生命と言える存在。いわば・・・寄生生命体。もちろんヒトではこんなことは起こり得ない。フレンズとセルリアンは表裏一体、だからこそ起こり得ること。」
白金耳を横に置いたサキは次にペントバルビタールの入ったシリンジを手に取った。
「誰だって苦しいのや痛いのは嫌なもの。セルリアンだって痛いとか苦しいとか、そういうのは嫌うの。患者が受けている苦痛を理解することは医者の大事な仕事だけど、その根本は生命を尊ぶ心なのよ。」
「医は仁術なり。というやつなのですか。」
「ええ。だからこそ、患者である博士はもちろんですが、この腫瘍セルリアンの生命に対しても一定の敬意を払い、相応の緩和ケアをすべきということ。博士を救うためにこのセルリアンの命を奪うのなら、せめて安らかな死を与えてやりたい。仮にも私はこいつの同胞だから。」
「つまり・・・お前がやろうとしていることって・・・」
サキは手を止め、腫瘍をじっと見つめたまま、少し間をとって答えた。
「そう、これはセルリアンの積極的安楽死です。」
サキは一度助手の方を振り返り、大丈夫という意味を込めて笑いかけた。そして手に握ったシリンジの細い針先を腫瘍の小孔に挿し込み、ほんの少し力を加えてシリンジを下に押し込んだ。するとさっきまで水晶のように固かった腫瘍の内部は豆腐のように柔らかくなってしまっていた。そのお陰でシリンジの針は腫瘍の奥へ楽にスルスルと進んでいった。よし、とサキはニヤッと笑い、シリンジのプランジャーをゆっくりと押して、中の液を腫瘍へと全て注入した。
「さっきは針が全然入っていかなかったのに、なぜ今はすんなりと針が入っていったのですか。」
「痛みというのは生命にとって有害なもので、身体には無意識のうちにその痛みを避けるための原始的な反応が備わっています。その一つが防御性筋緊張です。これは痛み刺激に対して筋肉を硬直させることで、侵害刺激から深部組織を守る生理的な反射です。さっき私が腫瘍にモノポーラーを突き立てようとしたときに、セルリアンの身体の中でその反射が起きたんです。」
「厄介な特性なのです。」
「いいえ。この反応は私達にも自然に備わっています。この反応があるからこそ私達は刺激から自分の肉体を守ることができます。一方で、手術のような侵襲的な医療行為を施す場合、この反応が有害となることがあります。そういう時には麻酔を用いて有害な反射を抑制してあげる必要があるんです。」
「なるほど。痛みの感覚を抑えてしまえば、痛みに対する反射は起きなくなるということですか。」
「その通りです、助手。私が今使ったキシロカインとペントバルビタールはどちらも鎮痛作用のある麻酔薬です。キシロカインは局所麻酔薬で、次のペントバルビタールの注射をスムーズに行うための準備としてゼリーを塗布しました。そしてペントバルビタール。これはFCCSの発作が起こった時に博士に対して使用したものと同じ薬剤で、全身麻酔の薬です。ペントバルビタールの作用でセルリアンは麻酔にかかり、一切の刺激を感じなくなります。」
サキの説明に助手が相槌を打っていたところ、もとの椅子の所に戻っていたヒグマが何かに気づいてサキを呼んだ。
「なあ先生。ずっと漂っていたセルリアンの臭い・・・というか気配が凄く薄くなったように感じるんだが。」
「そうですか? 私には良くわかりませんが・・・」
すると今度は術野を見たヒイラギが驚いた様子でサキを呼びつけた。
「ちょっと見て! 腫瘍の色が変わっていくよ!」
サキは驚いて博士の側に駆け寄り術野を覗き込んだ。他の二人も同じ様に背を伸ばして術野を見下ろした。
術野ではヒイラギが発見した通りのことが起こっていた。最初に硬膜を切開して腫瘍を見た時、腫瘍は藍色をしていた。しかし今、腫瘍は黒変し黒曜石のような鈍い輝きを放っていた。瓶に入っていたマツリカの病理標本とそっくりの黒さだった。
「こいつ寝てしまったんだろう。だから気配が薄くなったんだ。」
ヒイラギの後ろから首を前に突き出して術野を覗いていたヒグマが言った。
「セルリアンって寝ると色が変わるんですか。」
「そういうやつも見たことがある。それにセルリアンは起きているときと寝ているときでは発する雰囲気が全く違う。その辺りはフレンズと一緒だよ。」
「さっきサキさんが静脈麻酔薬を腫瘍に注射していたけど、これのせいかな。」
「多分な。麻酔ってのは催眠作用があるんだろ?」
サキは肯きモニター横目でちらりと確認した。心拍数52、血圧91/40、酸素飽和度100%、人工呼吸に問題は起きていない。心電図はSinus。
博士のバイタルに異常はない。ならば・・・
サキはエコーで腫瘍内に浮かぶ石の位置を再確認すると、もう一度ユウホのモノポーラーを右手に握った。掲げられた鋭く伸びた針先は頭上の無影灯の、それから執刀医の赤い瞳の輝きを受けて鮮烈に光った。いつになく厳かな声色でサキは告げる。
「準備は終わりました。石の破壊に取り掛かります。」
サキは術野の拡大モニターを見ながら腫瘍の小孔にモノポーラーの先端を挿し込み、今度はエコー画像を見ながら慎重に針を内部に進めていった。麻酔の作用で眠りについたセルリアン腫瘍は今度は針の刺激に反応を見せず、針先はスルスルと奥へと突き進んだ。そして2ミリほど進んだところで、遂に針の先端が石の固い表面に突き当たったことがエコーでわかった。
これを壊せばセルリアン腫瘍は消滅する。そして博士は助かる。
逸る気持ちを押さえ、石の破壊の前にもう一度バイタルをチェックし、それからエコー画像をよく見て、針先が接触しているのが石に間違いないと確認した。
「ヒイラギ、石を破砕した直後、衝撃で神経原性ショックが起こるかもしれない。ノルアドレナリンを中心静脈ルートにつなげる準備は出来てる?」
「予定通り、できてるよ。」
「OK。それじゃあ、これが最後の操作。」
モノポーラーを握る右手にぎゅっと力を入れる。
これでおしまい。
これまで多くのフレンズを苦しめ、マツリカの命を奪い、博士の体をも蝕んできたFCCS。その正体はセルリアンの腫瘍だった。そのセルリアンと今相対し、その心臓に白刃を突きつけているのは、FCCSの治療に命を捧げた岬侑帆の血、マツリカのフレンズの血、それからセルリアンの血、それら三つの血を受け継いだ私だ。
なんて奇妙な運命なのだろう、サキは石の映るエコー画像を見ながらそう思った。
セルリアンの手足を持って産まれ、誰とも仲良くなれない運命を生まれながらに背負ってこの病院に逃げ込んだ。でも、誰かと関わること、誰かと友達になって一杯おしゃべりしたり遊んだりすること、そんなフレンズとしての当たり前の幸せを諦めることは決して出来なかった。
こんな私でも誰かと関わり合って生きていきたい、そう思って選んだのがこの医師という仕事だった。そうして自分なりに足掻いて、がむしゃらに頑張ってきた。その結果たどり着いた未来が今なのだ。
今この場所で出会った運命は、私が幸せを目指して歩いてきた道の延長線上にずっと前からあったものなのだろうか・・・いや、そんな事は神様にしか分からない。けれど私には一つ、ハッキリと見える事がある。それは、この運命の先に待っている未来を私は望んでいるということ。このセルリアン腫瘍を打ち砕き、博士をFCCSから救うことを私は望んでいる。それが博士への、私ができる最大の恩返しだからだ。
「運命を切り開くのは自分自身。そうでしょう、博士?」
サキは右足を前に浮かせ、モノポーラーの通電ペダルに足を置いた。そして目を瞑り静かに息をした。脳裏に博士の小さな立ち姿が浮かんだ。サキは瞼の裏の博士に語りかけるように心のなかで言葉を紡ぎ上げ、そして出来上がった真心を博士に捧げた。
私はこの運命を切り開き、あなたが生きている未来を掴み取ってみせます。また一歩、普通のフレンズの幸せに向かって進みます。どうか見守っていて下さい。そして麻酔から目を覚ました時は、いつもの笑顔で私達を迎えて下さい。
サキは赤く輝く目を大きく広げ、モノポーラーをほんの少し奥へと押し込み、それと同時に通電ペダルを足全体で前へ踏みこんだ。カチリというペダルの音とともに針の先端から強力な熱エネルギーが放出され光を放った。そのエネルギーは石の最外層を覆う固い被膜を突き壊し、手元に僅かな手応えを感じた。その直後、針の先端は楔のようにセルリアンの石の中へと食い込んだ。針の機械刺激と熱エネルギーに晒された石の外殻はたちまちひび割れ、中身が溶けて漏れ出てきた。
「砕けた!!」
そう言った瞬間、セルリアン腫瘍全体に縦横無尽にピシリと亀裂が走った。そしてこの時、サキはセルリアンの臭いの波が一瞬だけ強くなったのを確かに感じた。その臭いは手術中ずっと漂っていたものには違いなかったが、どこかに寂しさや儚さを含んでいた。
”サヨナラ”
何者かの言葉が掠れた黒い文字のイメージはサキの脳裏に浮かんで消えた。
そして腫瘍の表面を幾筋もの青白い稲妻が駆け抜け、ガラスが打ち砕かれるような高い破裂音が上がった。
パッカーーーァーーン・・・・
再び術野に目線を戻すと、跡には腫瘍を栄養していた髄膜由来の被膜だけがわずかに残っており、腫瘍本体は虹色のサンドスターの輝きを滾々と放出しながら天井へと消えていった。振り返ると術前に髄液の濾過をした時に使用したフィルターからもサンドスターエネルギーが霧散していくのが見えた。4人は立ち上る虹の輝きを惚けたように見上げていた。最初に口を開いたのはヒグマだった。
「いつ見てもセルリアンが砕けた跡ってなぜか美しく感じるんだ。誰かの輝きが放出されているからかな。」
「だとしたら今天に向かって消えていく輝きは、全て博士のサンドスターが由来なのです。あのFCCSのセルリアンがこれまで図々しくも横取りしてきた博士の輝きを全て吐き出したというわけなのです。」
助手も天を見上げてポツリと言った。サキもヒイラギもため息をついて散っていくサンドスターを見ていたが、ふとサキの顔を見たヒイラギが首を傾げた。
「サキさんの目の光が薄くなってる。野生解放が終わったの?」
「そうかもしれない。」
もう何も映っていない真っ黒なエコーモニターの画面に反射した自分の目の中を見て、静かに答えた。先程まで迸っていた自分の血が少しずつ冷めていくのがわかる。握っていたモノポーラーを台に置くと、両腕にかかっていた緊張がほどけ腰の下へとだらりと垂れ下がった。
サキは天を仰ぎ、つかえていた息をふっと吐き出した。吐き出した息は、生まれてからずっとサキの心に暗く覆いかぶさってきた呪いの暗雲を吹き払った。雲が飛び去った跡、ぽっかり空いた空の穴からは明るく暖かい陽光が差し込んできた。
私は降り注ぐ真っ白な光を体いっぱいに浴びた。
それは眩しくて清々しかった。天にも昇る解放感を全身に感じた。
(終わった・・・)
光に包まれ私は呟く。これで博士は助かる、そう思えたからだ。
それから私自身も幾分か救われたような気がした。それは私が腫瘍セルリアンに過去の自分の姿を見ていたからかも知れない。セルリアンという背負わされた運命に怯え逃げ出していた、部屋の隅で膝を抱えていた、弱くてちっぽけな私の姿を。
腫瘍を砕いた時に過ぎった”サヨナラ”の言葉。あれは腫瘍セルリアンが私の中のセルリアンの血に寄越した最期の言葉であり、弱かった過去の私との決別を誓う言葉でもあったのだろう。何にせよ、私が生まれながらに背負ってきた切り開いて征くべき運命に対し、一定の決着を図ることが出来たように私は思えた。
だから私はさっぱりした気分で、頭上の無影灯を惚けたように見上げていた。
”だめよ。油断しちゃ。”
”そうよ。私の二の舞になるわ。”
不意に二人分のささやき声が頭蓋内に響いた。私はハッと我に返り首を小さく動かして周囲を見回すが、ヒイラギたちは皆さっきと同じような様子で天井を見上げているばかりだった。
誰の囁きか・・・私には既に解っていた。私の嗅覚をわずかに刺激しているジャスミンの匂い、それから血の臭いがその答えだ。
”医師ならば自らの治療に責任を持ち、最後まで全力をつくすものよ。”
血の臭いが言う。
”そして患者さんは、そんな一生懸命なお医者さんを信じ、自分の身体と命を預けるの・・・どんなに大変な検査や治療でも、この先生が見ていてくれるんだからきっと大丈夫だって思えるから。”
今度はジャスミンの匂いの方から声がした。
”サキ・・・”
また血の臭いが近づいてきた。
”・・・あなたならわかるはず。そしてできるはずよ、サキ。だってあなたは私にそっくりなんだから。”
・・・・・・そうだね、
野生解放の間ずっと近くに感じていた血の臭いも、ジャスミンの匂いも、いつの間にどこか遠くに消え去っていた。今ここにあるのは私の身体と私の精神だけになった。けれどもその孤独感、いや孤高感が私に執刀医としての冷静さを取り戻してくれた。
博士は私を信じ、麻酔を吸ってこの手術台に寝てくれている。博士は私に自分の命をかけてくれているのだ。
「ヒイラギ。」
「はい。」
「ここからが手術の折返し、そして正念場よ。予定通り術野を閉鎖。FCCSの術後で一番怖いことは脳ヘルニアだから、脳波の異常や呼吸数のモニタリングは欠かさずに。」
「わかりました。」
「助手もヒグマさんも、もう少しだけお付き合い願います。」
「わかったのです。」
「もちろん。ここは先生の仕事場だからね。」
二人がニッと笑ってくれたのがマスク越しでも伝わってきた。サキは一つ息をしてモニターに正対した。
「それじゃあ硬膜の縫合から始めましょう。フィブリンシートを1.5cm角を用意しておいて。」
縫合針を操作しながら、あの血の臭いが私に最後に伝えてくれたことを思い出す。
医師の仕事は患者を治すこと。しかし治すことは過程に過ぎない。
本当に大切なことは、医師の治療によって患者が幸せになれるかどうかということ。病気を治すこと、あるいは苦痛を和らげることで患者は病苦から解放される。それは病苦という暗い運命を受け止め、乗り越えるための力となり、患者は再び自分の人生を再び歩き出せるようになる。そして患者はそれを幸せと感じる。なぜなら、自分の望んだ幸せを獲得しようと生きる人生こそ、その過程も含め最も充実感に溢れた幸せな人生となるからだ。
患者が自分らしく幸せに生きていけるよう、医学という専門技術を用いて患者を扶けること、それが私達医師の真の仕事だ。そして、かけがえの無い患者の生命に立ち向かうために自らの人生を費やす中で、気まぐれに患者から贈られる「ありがとう」の声と、笑顔で病院を去っていく希望に満ちた患者の背中に、私達医師は最上の幸せを感じるのだ。
そうだね。侑帆。私は今患者の命を預かっているんだ。私にとっても、フレンズのみんなにとっても大切な博士の命だ。手術は治療の過程に過ぎない。博士が笑って退院できるその日まで、博士の命と幸せを守ってみせる。
「開創器撤去。ドレナージチューブ留置。」
大丈夫、この運命も切り開いていける。私なら。いや、私達なら。
「術式、全て終わり。」
***
どこかの木の枝からドサドサと雪が落ちた音を聞き、サキはPCから顔を上げて音のした窓の方を見た。結露した窓は暗灰色に染まり、下に立っている電灯の明かりが窓の下縁をほんの少しだけ橙色に照らしていた。時計は午前5時を指していた。
「いつの間にか日付変わってる。」
一度立ち上がってうんと背を伸ばし、またPCに向かおうと椅子に座りひざ掛けの毛布を手に取った所、医員室に助手がやってきた。
「あけましておめでとう、なのです。」
助手は二つ持っていた湯気の立つコーヒー入りのカップの一つをサキの机に置いて、隣の椅子に腰掛けた。
「元旦の朝から仕事とは熱心なのです。」
「ははは。今書いているのは退院に必要な書類なんですよ。」
サキはPCの画面を助手に見せた。その書類の頭には”退院証明書”の文字があった。
「入院患者さんが退院する時、このような治療要約を作ることになっています。今まで担当してきた患者さんの分も全て書いています。今までで一番分厚くなったのはスナネコさんでしたが、博士の分も結構なの量になりそうです。」
患者:博士
No.:7
種族:アフリカオオコノハズク フレンズ
傷病名:フレンズ脳脊髄晶質化症候群(FCCS)
既往歴:帯状疱疹に対しACV外用薬×4w
治療経過:突然の頭蓋内圧亢進発作があり、腰髄L1L2間にMRIで硬膜内髄外腫瘍像を確認。SPECTで当該領域にサンドスターの高吸収域を認めた。生検組織の結晶構造もFCCSと矛盾せず。以上よりFCCSと診断。
FCCSに対しては現在明確な統計データに基づいた治療法は無く・・・(中略)・・・2058年に岬侑帆博士が提出した論文に基づき、腰髄の腫瘍を摘除する外科療法を選択した。
・・・
術後、FCCSとしての症状は認めなかった。術後5日、帯状疱疹が左L1領域に再発。アシクロビル静注による抗ウイルス療法と、疼痛に対してはアセトアミノフェンで対応。術後20日、寛解。
・・・
術後の運動リハビリにより立位、歩行機能は十分に回復した。術野付近の疼痛は訴えていないが、脊柱に大きな負荷がかかるような飛行については現在極力控えるよう指示している。
今後はリハビリ治療を続け飛行能力の回復を目指すとともに、MRIによる定期的な術後フォローを行うこととする。
主治医:SAKI
入院先:ジャパリパーク・キョウシュウエリア第2病院 001号室
退院日:2069年1月1日
「でも、これでようやく図書館に帰れるのですよ。長かった。本当に長い戦いだったのです。」
助手は長い溜息をついて机にうなだれた。サキもコーヒーを一口含み、背もたれに体重を預けて目を天井に向けた。
「ええ。博士も助手も、長い間協力して頂きありがとうございました。おかげでこの日を迎えることが出来ました。」
窓に映る東の空が白み、部屋の中が淡桃色に色づいた。初日の出なのです、窓を見てそう呟いた助手はすっと立ち上がり、窓を少しだけ開けた。凍えるような風といっしょに窓枠に付いていた雪の塵が部屋の中に吹き込んできた。部屋に舞った雪は日の光を反射して煌めき、部屋一面に輝く無数のダイヤモンドが振りまかれたような、まばゆい景色をつくった。サキは思わずその光景に見惚れた。そして助手の後ろから窓の外へと身を乗り出し、山の端からわずかに溢れ出した煌々と輝く暁の光をその目に焼き付けた。空は深い紺色から東雲色、そして鮮やかな橙色へと変わっていく。明けゆく空の下、サキはポツリと呟いた。
「どんなに深い夜でも、乗り越えればその先には、こんなに美しい朝が広がっているんですね。」
助手もそれを聞いて、白い息を何度も吐き出してからしみじみと言った。
「こんなに晴れやかな新年を迎えるのは生まれて初めてなのです・・・サキ、大切な人を助けてくれたこと、本当に感謝するのです・・・!」
午前9時、サキが病室を訪ねると、そこには荷物をすっかりリュックサックにまとめた博士がいて、窓の外の晴れ渡った冬空を見上げていた。サキが来たことに気づいた博士はコートに入れていた手を出して、あけましておめでとうと言った。
「今年もよろしくなのです。ふふっ、こんな挨拶を交わせるのは私が生きているからで、お前が私の病気を治療してくれた結果なのですね。お世話になったのです。」
「私こそ・・・博士がいてくれたから、ここまで頑張ることが出来ました。せめてもの恩返しと思って治療をさせて頂きましたが、それでも私が博士からもらった物の大きさには到底敵いません。」
そう言って謙遜するサキに対し、博士はやれやれといった様子で苦笑いを浮かべ、サキの腕をポンと叩いた。
「胸を張りなさい。お前は私の治療をやりきり、私が生きている未来を与えてくれたのです。それはどんな物よりも貴重なお年玉なのです。確かに受け取りました。」
サキの顔を見上げる博士の顔には、とても晴れやかで屈託のない笑顔が浮かんでいた。その表情が見たことも無いくらい無邪気で可愛らしく見えたので、サキはちょっとドギマギし、照れて頬を掻いた。
「さて、私もサキにお年玉を用意してあげたかったんですが。」
「いやそんな。私は十分・・・」
「その手間は省けたようですね。」
「え?」
「宅急便が届いたようです。サキ、受け取りに行きましょう!」
博士はニヤリと笑うとリュックサックを背負い、スタスタと部屋を出ていった。サキは慌てて博士を追いかけた。
博士と一緒に階段を降りて1階のエントランスに出ると、そこでは大きなキャリーケースを持った助手、ヒグマ、そしてヒイラギがいた。なぜか3人とも何かを隠しているかのようにニヤついているのでサキは不思議に思った。
「どうしたの?」
「いいからいいから。ほら行こう。」
ヒイラギはサキの背中を無理やり押してエントランスの扉に向かわせる。
「扉を開けて。」
「一体どうしたのよ。何か隠してる?」
「大丈夫だって!」
そう言ってヒイラギが思い切りサキの背中を押したので、突き出されたサキは勢い余って扉を押し開け、冬の空の下に飛び出した。
「危ないなあ・・・」
サキはバランスを取り直して顔を正面に向けた。そこには・・・
「えっ、うそ・・・・・・」
エントランスの前の庭には、いつかの時と同じ様に何十人ものフレンズがずらりと並びサキを取り囲んでいた。しかしあの時とは二つ違う所があった。一つは外が明るいので集まっていフレンズたちの表情がハッキリと見えること。もう一つは、あの時よりもずっと近くにフレンズたちが立っていることだ。
待ってましたとばかりにフレンズたちは一斉に手を叩きサキを出迎えた。嬉しそうに拍手を送るフレンズたちは皆嬉しそうな顔をしていて、ところどころから「先生、ありがとう!」という声が聞こえてきた。
呆気にとられたサキは事態が理解できず後ろを振り返ると、ヒイラギやヒグマたちも笑顔になって拍手をしていた。
「これは私達にとってもサプライズなのですよ。」
助手がサキに近づいて言う。
「博士の退院日は私達と、教えろと言われて教えてやった二人しか知らないはずなのです。その二人は来るんだろうと思っていましたが、まさかこんなに集まるとは。」
「その二人って、まさか・・・」
「ふはははは!お察しのとーりなのだ!!」
高らかな声とともにフレンズの群れを分け入ってアライグマとフェネックの二人がサキの前に躍り出てきた。
「アライさんたちは先生達の友人なのだ。だから博士の退院の日にひょっこり現れて先生たちを驚かせるつもりでいたのだ。」
「でもライオンに博士の退院日はいつかって聞かれて、言っちゃったんだよね。そしたらこんなことに。迷惑だったかな。」
「いや、それは別にいいんですが・・・なんというか驚いちゃって。」
すると今度はヘラジカとヘラジカとライオンとギンギツネが並んで出てきた。サキの姿、そして後ろで2本の足で立っている博士の姿を見て、ヘラジカは満足そうに頷きサキに飛びついた。
「サキを信じた私の勘は間違ってなかったんだなあ。博士の命を救ってくれてありがとう。」
ヘラジカは強引にサキの右手を取って両手で固く握りしめた。ヘラジカの握る力はとても強く痛いほどだった。けれどセルリアンの青い手から伝わってくるこの痛覚はなぜだかとても温かく、嬉しく感じられた。
「いやあ今度も大勢で押しかけて悪いね。私が博士のお迎えに先生の所に行くって言ったらみんなついて来ちゃってさ。」
今度はライオンがサキの前に立った。それを見てサキの後方からヒグマがずいと前に出てきた。
「ライオン、私の仕事はこれで終わりかい。」
「ああ。長い間ご苦労さま。」
「苦労だって? そんなもの無かったよ。なにせずっと暇だったからからね。」
「あははは。そりゃあ良かった。何事も平和が一番だからねぇ。」
「そりゃそうだ!このジャパリパークには血の赤なんて要らないのさ。」
ヒグマとライオンは一緒になって腹を抱えて大きな声で笑い合った。それからヒグマはサキの顔を一度振り返ると、すぐに背を向け武具の熊手を担ぎ直した。
「それじゃあな、先生! また何かあった時はよろしく頼むよー。」
ヒグマはそう言い残し、手を振りながら群衆の向こう側へとさっさと歩き去ってしまった。
「フフン。相っ変わらずヒグマは素直じゃないねえ。」
足早に去っていくヒグマの背中を見つつ、ライオンは愉快そうに歯を剥いて笑った。
「さてと先生。博士の病気は治ったんだね。」
「はい。正確には今後もリハビリ治療は必要ですが、入院の必要は無くなったので退院の判断をしました。」
サキの答えを聞いてライオンはホッとため息をついた。それから感心したのか目を細め、何度もうなずいていた。
「良かった。とりあえず博士、退院おめでとう。それから先生、私達の信頼に応えてくれてありがとうね。ここにいるフレンズを代表して礼を言うよ。」
ライオンがペコリと頭を下げると、自然とフレンズたちの拍手が起こった。
「先生はあの時、普通のフレンズとして生きたいと、そう言っていたね。セルリアンという存在に対してフレンズが感じるマイナスな感情は、結構根深い。先生に対して今でも複雑な印象を持ってしまう子は多分いるだろうし、これからも出てくるとは思う。でもね・・・
先生を取り巻く空気や雰囲気は今確かに変わりつつあるんだよ。なぜなら、そんな固定観念をぶっとばすほどの大仕事を先生は成し遂げたんだから。フレンズとして生きたいという先生の尊い夢を応援してくれる、先生をちゃんと理解してくれるフレンズたちはこれからどんどん増えていくはずだ。私だってそんなフレンズの一人なんだよ? ほら、そしてここにもう一人・・・!」
「わっ!」
ライオンはヘラジカの後ろに隠れるように立っていたギンギツネの腕を掴んで、サキの目の前に引っ張り出した。無理やり引きずり出されたギンギツネは慌ててオロオロとしていたが、段々と落ち着きを取り戻し、小さく咳払いして改まった。
「サキ。前に私があなたに言ったことを覚えているかしら?」
「ええと・・・」
「帰りがけにさらっと言っただけだから無理もないわ。博士の治療を通して、あなたに宿る精神が紛れもなくフレンズの魂であることを照明して欲しい。もしそうなったら・・・」
「あ・・・・・・私と・・・」
「そう。だからね・・・その、私とお友達になってくれないかしら?」
サキは息をのんでギンギツネを見つめた。少しはにかむギンギツネの頬は外気の寒さのせいなのか、それとも小恥ずかしさからなのか、うっすらと紅潮していた。
たちまちサキも真っ赤になった。
「えっ、あの・・・その・・・」
「どうしたのよ?」
返事を催促されてもなかなか言葉が出てこない、サキはますます慌てた。
「わ・・・私、誰かから『友達になってよ』なんて面と向かって言われたこと無くて・・・こういう時なんて言ったらいいのか、どんな顔したら良いかわかんなくて・・・」
「あのね、友達になるのってそんな堅苦しいものじゃないのよ? この子ともっと話したいな、この子をもっと知りたいな。もっと一緒にいたいな。理由なんてそんなものなのよ。そんなふうに私達フレンズは気の向くまま、誰かと繋がって生きている。
どう?わかったかしら、生まれたばかりのフレンズさん?
それじゃあ初めからもう一度。
サキ、私とお友達になってくれないかしら。」
ギンギツネの表情はとても優しかった。それに自分たちを取り囲むフレンズたちは皆微笑ましそうにこちらを見ていた。こんな和やかな雰囲気の真ん中に、かつてのけものであった自分が立っている。こんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。
生まれたばかり・・・そうか。私の一人の普通のフレンズとしての新たな人生が今始まったのだ。私もフレンズになれたのだ。ここにいるみんなと同じ、フレンズになれたのだ。
これが私がずっと追い求めてきた幸せだ。歩いて歩いてやっと辿り着けた。
(博士・・・見てください。私、ここまで来れました・・・!)
「・・・もちろんです。すごく嬉しい。私なんかで良ければ、友達としてよろしくお願いします!」
「私も嬉しいわ。よろしくね、サキ!」
そう言うとギンギツネは右手をサキの前に差し出した。サキはそれに応じ、青く透けた右手で差し出された手をとって、溢れる気持ちを込めてギンギツネと握手を交わした。ふとした瞬間サキとギンギツネは目が合い、二人はなんだか可笑しくなって一緒になってくすくすと笑った。
「サキの手、ちょっとだけ冷たいね。外が寒いからかな。」
「ごめんなさい。私冷え症なのかも。」
「うふふ。そうだ、今度うちの温泉に来ない? 冷え症なんてあっという間に治っちゃうわよ。」
「いいんですか?」
「もちろん。いっぱいサービスするわ。それでいっぱいお話ししましょ。それからゲームして、キタキツネを紹介して・・・あっそうそう、私の同居人にキタキツネって子がいるのよ。四六時中ゲームばっかりやってるしょうがない子なんだけどね・・・」
「あはは。盛りだくさんですね。」
「いいじゃない!楽しみはいっぱいあった方が!」
・・・・・・
・・・・
・・・
「やれやれ。博士が退院するというのに、これではサキが主役みたいなのです。」
「まあ良いじゃないですか。こっちのほうが新年らしく賑やかで。」
エントランスの扉の内側にいた博士と助手は、ギンギツネたちに囲まれるサキの後ろ姿を見て呆れたように苦笑いした。
「あんなに嬉しそうに喋るサキさん、僕初めて見るよ。」
博士の隣にいたヒイラギが言う。博士はそれを聞いてコクリと頷き、目を細めながらヒイラギに語りかけた。
「あれがサキがずっと追い求めていた幸せの一つのカタチなのです。サキはこれまで少しずつ、でも確実に運命を切り開き、幸せに向けて歩き続けてきたのです。その努力が今、あのようなカタチで花開いたというわけです。
サキ、心から・・・おめでとうと言ってやるのです!」
博士の声は意外にも鼻声で、よく見ると博士は嬉し涙を目に湛えていた。助手はそれに気づいて、やれやれと小さく首を振り、和やかに微笑んだ。そしてヒイラギの肩にそっと手を置いた。
「とはいえ、サキがあんな朗らかに笑える未来を手に入れられたのは、お前がずっとサキを支え続けていたからなのです。サキも立派ですが、お前も立派な”助手”なのですよ。胸を張るのです。」
「えへへ。助手とおんなじだね。」
「ふふっ、そうですね。」
「サキがお年玉を気に入ってくれたようでよかったのです。さてと、いつまでもここに突っ立っているわけにもいかないのですよ。我々には溜まった仕事がいっぱいあるのです。」
博士はリュックサックの紐を掛け直し前を向いた。助手もキャリーケースを持ち上げてから、博士の背中を見て尋ねる。
「博士はまだ飛ぶのは控えた方がいいのです。私が抱えて飛びましょうか。」
すると博士はゆっくりと首を横に振って答えた。
「なんだか歩いて帰りたい気分なのです。自分の足で歩いて、自分が生きていることを実感したい。そして私の生命を救ってくれたサキへの感謝を噛み締めたいのです。別に私に構う必要はありません。先に飛んで帰ってしまってもいいのですよ。」
そう言うと今度は助手がフンと鼻を鳴らし、首を振った。
「残念ながらそういうわけにもいかないのです。なぜなら私はあなたの助手なので。今日くらいは一緒に帰らせてもらうのですよ。」
「そうですか。なら道に迷わぬようついて来るのです。」
博士と助手は並んで扉の外に出た。庭に薄く積もっていた雪は暖かい日の光で溶け出し、空には新しい年を祝うかのような透き通った青空が広がっていた。丘を下りる一本道、その遙か先まで広がっている森や平原までも見通せた。木々の中に埋まっている赤い屋根の図書館の小さな影もその中にちゃんと在った。
「見通し良好。迷うことなんてないでしょう。多少道がぬかるんでいても、自分の足で踏み固めれば大丈夫なのです。幸せの眠る場所への道が描けたなら、あとは自分で選んだその道を信じ、どこまでも歩いて行くのです。道の途中で過酷な運命に突き当たろうとも、自分なりに切り開いていける。そして先へ未来へ進んで征くのです。」
「幸せな人生とは、きっとそういうものなのです。」
カルテ9おしまい
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