カルテ5−1

爽やかな風の吹くサバンナ地方の乾いた地面に、私は痺れるような頭痛と吐き気に苛まれて打ち付けられた。スカートからのびる痩せて乾いた脚は動かそうとしても言うことを聞かずわずかに震えるばかりだった。顔中が泥と吐瀉物にまみれてはいたが、それらの臭いは不思議と気にならなかった。五感がどんどん意識から遠のいていくからだ。


「わたし、これからどうなっちゃうの。死んじゃうの?」


これまでの楽しかった、辛かった思い出、その全てが水彩画のように淡い色調でスライドショーのように想起された。これが死ぬ間際に見るという走馬灯なのだろうかと、いつか聞いた話を思い出した。

周りに誰もいないサバンナで、このままずっと立ち上がれず、朽ちるかもしれない。けれどこの胸の中のあなたさえいれば私は怖くない、と地面の上で仰向けになり、胸にしまった写真の上に手をそっと置いた。涙はもう枯れていた。視界が眩しく輝きはじめ、太陽の光と雲の白色に自分の意識が溶けて混ざり合っていくように、私という存在がすうっと消えていく。消えていく。


死ぬのは、怖くない。



さよなら





遠くで草がさざめく音がした。




カルテ5 グレイトフル・ジャーニー



6月はジャパリパークも雨の季節である。砂漠やサバンナといった乾燥している地方以外は雨の日が多くなるのだ。スナネコのライブに行ってからというもの、病院のある丘は連日の雨に見舞われていた。そんな天気では病院を訪ねる人は誰もおらず、サキとヒイラギは今までのように落ち着いた時間を過ごしていた。もっともヒイラギは外に遊びに行けず退屈な様子ではあったが。


「あーあ、早く止まないかな。ここのところ雨ばっかりでうんざりだよ。」


窓際で膨れるヒイラギは、結露して曇った窓ガラスに指で文字を書いた。


The rain well stop soon.


「ヒイラギ、多分wellじゃなくてwillだよ。rainの後ろ。」


サキが読んでいた本から目を離して指摘すると、ヒイラギはすこし恥ずかしそうに笑ってeの文字を指でキュッと拭って消し、その下にiと書いた。


「あはははは。それで、サキさんは今なんの本を読んでいるの?」


ヒイラギが話をそらしてサキの読んでいた本を覗き込んできたので、サキは椅子を回転させてヒイラギが本のページをよく見える方向に体を向けた。


「これはね、フレンズの死について研究した論文なの。今の所このテーマは全然研究

が進んでいないんだけど、それでもいくつかわかってきたことがあるみたい。

基本的にフレンズとヒトは解剖生理学的に同じだから、ヒトが死ぬような状況が起きれば、同じようにフレンズも死んでしまう。フレンズがヒトと違うのは、サンドスターによってフレンズの体を維持しているということよ。体内のサンドスターが限界値を下回ってしまうと、フレンズ化が解けて元の動物に戻ってしまう。

つまりね、フレンズには“生命の終わり”という死と、“フレンズとして生きることの終わり”という死の二つがあるってことなの。ヒイラギもそういう仕事しているんだから覚えておいて損はないよ。」


サキの説明を真剣に聞いていたヒイラギは一度頭の中を整理しようと口元に手を当て考え込んでいたが、しばらくしてサキに困った顔を見せた。


「でもなあ、こういう話ってあんまりピンとこないよ。」

「それはそうかもね、普段考えることじゃないから。でも私たちは自分の命を懸けている患者さんを相手にしているわけだから、いずれ死を直視する場面が来るのよ。そのために知識を備えておくのは悪いことじゃない。雨がいつ降るかなんてわからないんだから、傘は常に用意しておくべきでしょう。」


サキがそう言ってニッと笑うと、少し間を置いてヒイラギも同じように歯をチラと剥いて笑い返した。二人の笑い声が部屋の中で弾んで広がった。


《ピリリリリリリリ・・・》


その時突如としてアラームのような甲高い音が部屋の外から聞こえてきた。その音はPHSの呼び出し音のような音であり、続いて何かがドアを叩く、というよりぶつかるようなドンッ、ドンッという音が聞こえた。


「なんだろう?患者さんかな?でもこの高い音はなんだろう。」


サキは不思議に思って部屋のドアを静かに開けると、開いたドアの隙間からラッキービーストが音を発しながら飛び込んできた。騒騒しいアラームを鳴らしながらラッキービーストはサキを一瞥すると突然アラーム音を止め、合成音声を用いてサキに向かって喋り始めた。


《ドクター、間も無く救急患者が参ります。患者近くにいたラッキービーストからそのような連絡がありました。受け入れの準備をお願いします。》


普段静かに黙々と病院に出入りしているだけのラッキービーストが、まさか喋るとは思っていなかったサキはあっけにとられて何も言えなかった。


「え、ボスって喋るんだ。知らなかった。それにサキさんのことをドクターって呼んでなかった?」


ヒイラギもびっくりしてサキの腕に抱きついてからラッキービーストを指差した。


「今までも病院にボスはいたけれど、一度も喋ったことはなかったし、それに私のことをドクターって呼ぶなんて。ボス、これはどういうこと?」


サキがそう尋ねると、しばらく間を置いてラッキービーストは再び話し出した。


《ぼくは“指令”に従っているのです。それよりもドクター、早く受け入れ用意を。》


ヒイラギは未だ解せないという顔をしていたが、それはサキも同じだった。けれど患者が来るという情報が本物であるなら、搬送されてくる患者の情報も伝わっているはずだと思ったので、サキはもう一つ尋ねることにした。


「ボス、運ばれてくる患者の状態は?」


今度はすぐに返事を発した。


《患者はサーバルキャットのフレンズ 推定15才前後 意識消失 嘔吐があります 付近のフレンズの協力を経て運ばれてきます。》


そう答えるとラッキービーストはサキに一歩近づき、急かすようにその場で跳ね始めた。ラッキービーストの言うストーリーはどうやら真実で、患者がやってくるのは本当らしいと感じたサキは、「わかりました」と答えるとヒイラギを連れて一階の処置室に向かった。


ほんの5分後、突然エントランスのドアが開けられ患者のサーバルキャットが到着した。


「サキ、いるのですか?急患なのです!」


聞き覚えのある声で呼ばれエントランスへと向かうと、そこにはサーバルキャットを担ぎ上げた助手が全身ビッショリに濡れて立っていた。


「助手!背負っているのが患者ですね!」

「そうなのです!」


1、 2の、3と呼吸を合わせて、サーバルをストレッチャーに仰向けに乗せると、軽い肢体はストレッチャーの上でだらりと崩れた。助手と一緒にサーバルを処置室に運び入れたあと、サキはサーバルの体を頭からつま先までざっと視診した。意識は完全に無く、皮膚をつねると顔を少し歪めるが呼びかけには応じなかった。呼吸はあったが、その大きく速い呼吸は通常の呼吸ではなかった。


「JCS200。クスマウル大呼吸をしている。」


この特徴的な身体所見はサキにはサーバルの陥った病態を明確に示していた。


「ヒイラギ、今すぐ血液を取って血液pHを調べて!おそらくアシデミアだ!」


サキはすぐさま検査の指示を出した。


「はいっ!」


返事をするや否やヒイラギは予め用意していた採血容器をトレイの上に取り出すと、サーバルの右腕の長手袋を脱がし始めた。

サキは聴診器を着けて、サーバルの心音と呼吸音を聴こうとかがんだ時、すー、はーっ、すー、はーっと呼吸を続けるサーバルの顔に自分の顔が接近した。そしてその時、サーバルの口の中から漂ってくる異常な臭いに気づいた。溶剤の臭いに近い、甘い香りが、呼吸とともにサーバルの口から吐き出されていたのだ。

(まさか…)

サキは思わず自分の嗅覚を疑って、もう一度臭いを確認したが、やはり同じく甘い臭いが感じられた。


「サ、サキさん!ちょっとこのサーバルさんの手を見て…」


突然隣でヒイラギが叫んだので、どうしたのかと思ってヒイラギの指差すサーバルの手をチラと見た。手袋を脱がされて露わになったサーバルの手指は、サキの感じた嫌な予感を冷徹に証明していた。

手掌部は赤く指に向かうに従って白っぽく変わっていて、そのあまりに血色の悪い手はひどく乾燥しているように見えた。末梢血管障害である。


「手でここまで血行不順ということは、足はもっと…」


不安になったサキは聴診器を外しサーバルの下半身の前に立つと、履いていた靴とストッキングを慎重に脱がした。


「やはり…この足では十分に動けなかったんだ。だから助手に助けを求めたのだろう…」


サーバルの趾の血管障害は手よりもひどく、さらに白く冷たく変わっていたのだ。もっと進行していれば完全に壊死が起きてしまい、そうなれば足を切断せざるを得なかっただろう。

もうサキにはサーバルが罹った病気がはっきりとわかっていた。


DKA、糖尿病性ケトアシドーシス


そしてサーバルさんは糖尿病だ。


「ヒイラギ、一刻を争うよ!至急血液を検査してpH、電解質等血ガスの数値、それに加えて血糖値、ケトン体、など糖尿病の診断に必要なデータを!」

「はい!」


そう言ってヒイラギは血液の入った容器を手に検査室へと向かった。サキはサーバルのシャツの前を開け心電図の電極をサーバルの胸につけた。そして挿管をしてサーバルの呼吸を確保した。必要な処置を行なっているうちにヒイラギが検査室から大急ぎで戻ってきた。


「サキさん、結果出たよ! pH7.0, Na 121mEq/l, K 8.4mEq/l, ・・・それに 血糖値850mg/dl!」

「やっぱりアシドーシスだ。ヒイラギ、まだ休む暇は無いわよ。今度は尿中ケトン体

濃度の検査をして!生理食塩水の投与はもう始めるから、その結果が出次第インスリンの投与も開始するよ!」


サキは生理食塩水のパックを準備しながらテキパキとヒイラギに指示を送っていった。そんな時だった。


「サキ、治療の邪魔をするようで悪いのですが・・・」


そう断ってから助手が口を開いた。


「さっきサーバルが自分で動けなかったから私に助けを求めたと言っていたのですが、それは間違いなのです。私は突然ラッキービーストに呼び出されたのですよ。」

「どういうことですか?」


サキは点滴の針を刺入し終えたサーバルの左腕から目を離し、ストレッチャーの向こうに立つ助手を見た。


「ついさっきまで私はいつものように図書館で、博士と調べ物に勤しんでいたのです。そんな時、不意にラッキービーストが大きな音を発しながら図書館に入ってきたのです。喧しくて仕方がないので私が外へ連れ出そうとラッキービーストに近づいたら、そのラッキービーストが突然喋り出したのです。」

「なんと言ったんですか?」


《サバンナ地方でフレンズが命の危機に瀕しています。至急現地へ向かい、その個体を保護してください》


どうやら助手もサキたちと同じようにラッキービーストの妙な音声を聞いたようであった。助手はいまだに状況が解せないように眉間にしわを寄せて、それでもなんとか起こったことを整理しようと冷静を保ちつつ話し続けた。


「ともかく私はサバンナ地方に直行したのです。到着するとすぐに別のラッキービーストが駆け寄ってきて、《こっちだよ》と言ったので、それについて行くとサーバルが倒れている場所にたどり着いたのです。」

「ということは、助手はまさに意識を失ったサーバルさんを救助するために呼び出されたというわけですね。」

「そうなのです。私を案内したラッキービーストはそこに着くなり再び飛び跳ね始めて、《今すぐサーバルを第二病院に運んで》って喋ったのです。だから私はここまでサーバルを運んできた。そういうわけです。」


まさにラッキービーストたちが“サーバルを助けるために”行動したようにサキには思えた。

本来ラッキービーストとはパークの施設管理を行うための自律ロボットである。そして彼らの特徴は“フレンズには一切干渉しない”という点である。そのような原則を持つ彼らがなぜサーバルを助けようとしたのか、そのことがサキは気になった。


「助手、私の方にもラッキービーストからの呼び出しがありました。間も無く救急患者が来ると。それにラッキービーストは、“指令があったと”言っていました。」

「指令・・・?」


助手は腕を組み、首をぐるぐる回しながらしばらく考え込んでいた。その後、降参だというように苦笑いをした。


「正直わからないのです。また一つ謎が増えてしまったのです。ただ、これは憶測の域を出ないのですが、ラッキービーストたちの作るネットワークには、命の危機にあるフレンズを見つけたら、その命を助けようと指令を出すシステムが備わっているのでは・・・」

「確かに、パークの管理をするのだったら助手が言ったようなシステムになっていてもおかしくは無い、とは思いますが。」


サキも同じように腕組みして考えてみたが、目の前に瀕死の患者がいる今のサキにはそのことを思案する余裕は正直なく、考えるふりをした。


15分ほど経ってヒイラギが再び検査室から戻ってきて、サキに検査結果を渡した。それに目を通したサキは書かれた数値の悪さに思わず目を疑ってしまった。


「血糖値があれだけ高かったから予想はしていたけど、ここまで腎機能が下がっているとは。」


ヒイラギも顔をしかめてサキの意見に頷いた。


「サーバルさん、こんな状態で今まで暮らしていたんだ。辛かっただろうな。」

「サーバルさんはすごく我慢強いのかもしれないね。とりあえずヒイラギご苦労様。あとは私だけで処置できるわ。」


サキはヒイラギをねぎらうと、用意していたインスリンの投与、それに加えて血中カリウム濃度を是正するためにポリスチレンスルホン酸ナトリウムの投与を開始した。


「呼吸はあり、心電図も安定。ひとまず大丈夫かな」


ふうっと溜まった息を吐き出し、サキは手のグローブを外して処置室の外へと出た。

処置室の入り口の近くに据えられたソファーには助手が寝転がっていたが、サキが出てきたのに気づくと慌てて飛び起きた。


「そ、それでサーバルの命は助かるのですか?」

「ええ。一通りの治療は行いました。明日には目を覚ますと思いますよ。」

「良かったのです。」

「それで、サーバルさんの病状を一体誰に伝えたらいいんですかね。大抵のフレンズは誰かが隣にいるので困らないんですが。」


なるほど、といった様子で助手は頷き、しばらく考えた後こう答えた。


「後でサーバルと私が一緒に聞くのです。あのサーバルは、今はたった一人で暮らしていたはずです。」

「今は、と言うことは、かつてはいたんですね。」

「ええ。2年前くらいにサーバルとずっと連れ添っていたカラカルが死んだのです。それ以来ふさぎ込んでしまっていたと聞いているのですよ。」

「それは、辛かったはず・・・」


サキの脳裏にはスナネコの墓の前にいたツチノコの姿が思い出された。今まで大切な人の「死」に直面したことがないサキにとって、一番身近な“死”の体験がそれだったからだ。それに幸運なことにサキはまだ患者の死というものを経験していなかった。

サキの持つ「死」についての知識、それはまさに実感の伴わない”死んでいる”知識なのだった。


けれど、今度ばかりはそれをついに体験するかもしれない。いや、体験してしまうだろう。


そう思うと、勝手に自分の身体中から冷たい嫌な汗が垂れ始めた。指や顎が小さく震え、瞳孔が広がった。さっきヒイラギに偉そうに教鞭を執っていた自分が恥ずかしく、情けなく思えてきた。



私は医者なんだ、怯えてどうする。常に死と紙一重のところにいる存在じゃないか。

それでも、どうして怖いと思ってしまう自分がいるのだろう。

どうしてサーバルさんの死が怖いと思ってしまうのだろう。

サーバルさんの死の運命がもう避けられないから?

私の力ではどうすることもできないから?


糖尿病を完全に治すことはできないから。

それが医療の限界。



運命を予感したサキは、自分の怯えた表情が助手に悟られぬよう顔を背けてから、その恐怖を押しとどめようと小さく唇を噛んだ。サキは一つずつ数えるように、ゆっくりと呼吸をして気持ちを落ち着かせようとした。

すると、顔を背けた先のエントランスの近くの床に何かカードのようなものが落ちていることにサキは気が付いた。


「あれはなんだろう。ヒイラギの掃除のし忘れかな。あるいは私が落としたのか。」


そう思って近づき落ちていたものを拾い上げた。そのカードのようなものは泥で汚れていて、何が書いてあるかはわからなかった。サキは服の袖をつまんでゴシゴシと泥を拭ってみると、何が載っているのかが次第にわかってきた。どうやら古い写真のようで、表面は水や汚れを弾く頑丈な加工が施されていた。泥を全てふき取り、そこに写っていた人物を見てサキは大きく驚いて声をあげた。


「助手!この写真、サーバルさんが写っていますよ!」

「なんですって。私にも見せるのです!」


助手がサキの手から写真をつまみ取ってじっと覗き込んだ。その写真はだいぶ古いようで所々白く焼けてしまっているが、フレームの中央にいて笑顔を向けているのは確かにサーバルだった。フレンズの外見は年齢を重ねてもサンドスターで維持されるので、写真のサーバルが何歳なのかはわからなかった。けれど写真そのものの古ぼけ方からして、ある程度昔の写真であることは想像できた。そんなことをサキが考えていると、隣で今度は助手が大声をあげた。


「サキ!サーバルの隣にも誰かいるように見えるのです!」


そう言って助手はサーバルの隣の白く焼けかかった場所を指差した。サキが目を凝らしてよく見ると、確かにそこには人の姿があった。


「この人は一体・・・誰?」


サキの小さなつぶやきは、壁と窓を叩く外の雨音にかき消された。

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