カルテ4-3 まだまだ小さな一歩でも

検査室はサキが部屋から出た時と同じく電気が付いていて、ハシビロコウは白い毛布に包まっていた。時計を確認すると午前4時15分、ハシビロコウが病院に来てからだいたい3〜4時間経過したことになる。サキがベッドサイドに近づくと、ハシビロコウはそれに気づいたようで、怠そうに毛布をめくってそこから顔をのぞかせた。

「あ、すみません。起こしちゃいましたか?」

サキが謝るとハシビロコウは小さく首を振った。

「いいの、あんまり落ち着かなくて眠れていなかったから。」

無事ハシビロコウから返事が返ってきたことに、ひとまず命の危険はなさそうだと感じてサキは少しホッとした。

「そうですか。頭痛や吐き気はどうですか?」

「さっきほどじゃないわ。」

そう言ってハシビロコウはじっとサキの顔を覗いたが、その鋭い目つきに刺され、またしてもサキは軽く身じろぎしてしまった。けれど今度はその挙動をハシビロコウは目ざとく見ていた。

「先生。先生も私の顔つき、怖いと思うの?」

「い、いえ。そういうわけでは決して・・・ないんですが・・・」

心中が看破されてサキはあたふたしたが、ハシビロコウはその様子に対して特に気にする素振りはせず、苦笑いだけしてベッドから上半身を起こして少ししょんぼりとした。

「いいの、慣れているから。この目を見るとみんな怖がっちゃってね、誰も話しかけてくれないの。だからこうして先生と話すのが私にとっては久しぶりの会話だから、それだけで十分なんだよ。」

そう言って笑みを作ってはいたが、それは頭痛か悲哀か、もしくはその両方によって多少歪んでいるようにサキには見えた。そうしてハシビロコウはまた背を丸め、孤独な老人のように鬱々とした色を浮かべた。天井の白い蛍光灯のせいで、影になった顔は余計に薄暗く曇っているように見えた。

目の前のベッドで俯くハシビロコウを見ていると、サキはなんだか昔の自分を見ているような気がしてきた。ハシビロコウと同じく、自分も「のけもの」側にいるからだった。ハシビロコウの体からにじみ出る疎外感はサキがかつて、そして医者として仕事をしている今でも感じ続けているものと同じだった。


ハシビロコウは、少し前までの私のようだ。


サキ自身、今でこそ医者という仕事を見つけ生きている。しかしここまで来られたのは、時に励まし、時に叱咤して立ち上がらせてくれた博士がいたからだった。

目の前のハシビロコウの姿を通して、博士の存在が自分にとってどれほど大きくて、ありがたかったかということが次第に脳裏に蘇ってきた。それらの思い出を振り返るうち、ある一つの衝動が沸々と湧き上がってきた。


かつて私が博士に何度も励まされたように、私もハシビロコウさんの隣でその肩を抱いて、隣で支えたい。


「ハシビロコウさん。」

サキは名を呼んで、それからおもむろに自分の右袖を肘まで捲り、セルリアンブルーの腕をハシビロコウに晒した。その色を見てハシビロコウは驚いてビクリと体を震わせた。

「怖がらせてしまったらごめんなさい。ハシビロコウさんとは事情がちょっと違いますが、私もこんな体なんです。こんな腕じゃ誰も友達になってくれなくて、ずっとこの病院に引きこもっていました。だからハシビロコウさんの今の気持ちもなんとなくわかるんです。」

ハシビロコウは恐る恐るサキの腕に顔を近づけて軽く触ってみた。まるで珍しいものを見ているかのような反応だった。

「先生、やっぱり噂の通り本当に腕がセルリアンだったのね。知ってはいたけれど、実際見てびっくりしたよ。」

ハシビロコウは青いガラスのような腕をまじまじと見つめていたが、それがサキにとっては多少新鮮で恥ずかしいかんじがした。しかしそれよりもサキには、なぜハシビロコウはこの腕を見て怖がらないのだろうかということが気になった。今までこの腕を見せたフレンズは、飛びのいて全身の毛を逆だてるか、一目散に逃げてしまうことがほとんどだったからだ。

「ハシビロコウさん、私の腕、怖くないんですか?」

その問いかけにハシビロコウは軽く顔を上げて答えた。

「先生のことを何も知らなかったら怖がっているかもね。でも私は先生が助手の病気をキレイに治したって聞いていたから。それにこの間のヒグマの傷も先生が治したってリカオンから聞いた。それを考えたら、先生はフレンズを襲うような人じゃないって思えるの。だから私は怖くないよ。」


その答えを聞いて、サキは胸の奥にずっと置かれていた淀んだガラスの塊が音を立て砕け散るような衝撃を覚えた。

ハシビロコウさんはセルリアンの私を恐れてはいなかった。なぜならハシビロコウさんは私のことをセルリアンという外見で見てはいなかったからだ。博士と同じように、「外見、内面を含めた私そのもの」を先入観や偏見のない目で見ていたのだ。

翻って私はどうだろう。ハシビロコウさんのことを診ようとして、実はただ傍観しているだったのではないだろうか。ベッドサイドで見下ろして病をなぞるばかりで、怖いといってハシビロコウさん自身と正面から向き合おうとしていなかったのではないか。


果たしてそれは「仁の道」に生きる医者のあり方として正しいのか・・・


いや違うはずだ。

医者は「病」を診るんじゃない。「病人」を診るものだ。上から目線で眺めているだけでは、病気と闘う患者の本当の姿は見えてこない。患者の隣に立って同じ目の高さで景色を見なければ、真に大切な情報を見落としてしまうはずだ。現に私はスナネコさんの時も、スナネコさんには「見えていた」痰に気づかず、誤診をしてしまったじゃないか。


ならば、私はどうしたら良いんだろうか。どうしたら変われるのだろうか。


目を下に向けると、隣でかがんでいるハシビロコウの後頭部が見えた。見下ろす医師、その足元で屈み込む患者。そんなアンバランスな構図をふと眺めているうち、サキには一つの答えが浮かんできた。


私もハシビロさんと一緒に屈みこんでみよう。今までの目線では見えなかったものが見えてくるかもしれない。


サキはゆっくりと膝を折って腰を落とし、ハシビロコウの頭の高さと同じところに顔を持っていった。そして俯いて顔の見えないハシビロコウに向かって決意の言葉を発した。

「ハシビロコウさんの話を聞いて、私もハシビロコウさんと同じことをしてみたいです。ハシビロさんは自分で怖い顔だと言うけれど、人となりはそれと同じとは限らない。ハシビロさんが私をちゃんと診てくれたように、私もハシビロさんを曇りのない目で診たい。だから、私はハシビロさんの隣で同じ目線に立って、あなたと同じ景色を見ます。」

顔を上げてハシビロコウの顔をみると、同時にハシビロコウもサキの顔をみていた。初めて二人ははっきりと目を合わせた。少しびっくりしたようなハシビロコウの目にはさっきまで感じていた刀のような冷たい鋭さは無かった。トパーズのような大きく綺麗な黄色の瞳だった。ハシビロコウの顔が少しの驚きから徐々に安堵の表情に変わっていくのが、間近で見ていたサキには見て取れた。サキは一度瞬きをして優しく語りかける。

「私に足りていなかったことを気づかせてくれたのはハシビロコウさんです。ありがとう。」

そしてまた目を見た。目線の先の目元は緩み、微笑みを浮かべていた。


けれどその時、サキは目の前のハシビロコウの右目に現れたわずかな違和感に気が付いた。

あれ・・・少しだけど左に比べて右の瞳孔が大きい。右の瞳孔が散大しているのか・・・ そういえばハシビロコウさんの右目が赤っぽいように見える。

これは、おかしい。なんで今まで気づかなかったんだろう。


真剣な医者の顔に戻ったサキは、ひとまずハシビロコウにベッドに腰かけてもらうと、冷静にハシビロコウに言った。

「ちょっと目を見せてください。」

そしてペンライトを取り出して、ハシビロコウの右目の瞼を押さえてライトの光で軽く目を照らした。するとさっきの違和感が事実であることが見て取れた。眼球結膜は確かに充血して真っ赤に染まっており、右の瞳孔は散大していて対光反射も弱くなっている。左目も確認したが、右目で見られた症状はあまり見られなかった。

「主訴は頭痛、吐き気。けれど脳には特に問題はない。加えてこの目の所見がでている。」

サキは一旦ベッドサイドを離れて机においたカルテとマニュアルとノートを広げ、何か手がかりがないかと各箇所に目を向けた。そしてかつて書いた、使い込んで黄色味がかかったノートのあるページに目を止めた。そのページには、救急時の原因不明の頭痛、悪心に出会った時のチェックリストがまとめてあった。そのリストの中にある疾患名が小さな字で書き加えられていた。

「急性の経過を持つ頭部・脳の所見に乏しい頭痛、吐き気の患者で、左右の瞳孔不同、角膜浮腫、充血が確認される場合、[急性閉塞隅角ぐうかく緑内障]の可能性がある。」

緑内障・・・ 

「これか・・・」

主訴から脳や消化器ばかりに囚われていたサキは、考慮の外にあった眼科という盲点を突かれはっとなった。

緑内障*とは角膜の内側の眼房という場所を循環している眼房水が何らかの理由で排出されなくなることで眼圧が上昇し、その圧力によって視覚情報を伝える視神経が障害される眼科領域の病気である。急性閉塞隅角緑内障は緑内障の症状が急性に起こる疾患で、緑内障発作と呼ばれる強い頭痛、吐き気、眼痛、視力低下が現れる。何も治療しなければ確実に失明し、患者の健康を大きく損なう病気だ。

しかし・・・とサキは立ち止まった。もしハシビロさんが緑内障発作を起こしているとしたら、果たして今のように落ち着いていられるだろうか。もっと強烈な頭痛が出て、嘔吐も続いているはずだ。

もう一度サキは主訴を思い出す。ハシビロコウの主訴は「強い頭痛と吐き気」だ。それにコミットする病気で、かつ眼球に異常の出る場合を重ね合わせる。すると残った可能性は、やはり急性閉塞隅角緑内障だった。

サキはそれを本命と覚悟を決め、改めてベッドサイドの椅子に腰掛けてハシビロコウに向き直った。

「ハシビロさん。最初に頭痛を感じた時はいつでしたか?」

「ええと、夜に池で水を飲もうとかがみこんでいた時だったよ。そしたらだんだんと痛くなりだして、しまいには本当に耐えられないくらい痛くなった。」

「その時、頭痛はどこから始まりましたか。例えば目のあたりとか、頭の後ろからとか。覚えていますか?」

ハシビロコウはなんとか思い出そうと首をひねっていた。

「・・・どうだったかな。けど後ろからじゃなかったと思う。前の方から、ビィーンって広がっていく感じ。」

この話を都合の良いように解釈すれば、眼窩部から後頭部へと頭痛が伝播していったものと考えられるが、もう少し情報を得なければ正しい判断にはならない。

「ハシビロさん、今は頭痛は落ち着いていますか。もし大丈夫でしたら一度ベッドから降りて立ってもらえますか。」

「大丈夫。わかった。」

ハシビロコウは頷いてベッドからのそりと起きて床に立った。サキはハシビロコウの全身を注意深く観察する。頭痛のせいだろうか、多少怠そうではあるが、ふらつきなどは特に見られず平衡覚に問題はなさそうだ。胸部、腹部、そして脚部へと視点を移していったところで、ハシビロコウの両足のストッキングが所々破れているのにふと気がついた。通常フレンズの衣服は時間が経てばサンドスターの力で再生するので、こうして破けているということは最近できた損傷と考えられる。

「ハシビロさん、見たところ足のストッキングが破れていますが、どこかで転倒したり引っ掛けたりしませんでしたか。」

ハシビロコウはそうサキに言われるまで気づかなかったようで、身をかがめて自分の足を見て驚いていた。

「おかしいな、こんなのいつできたんだろう。」

ハシビロコウが不思議に思って屈んだままストッキングの裂け目をさすっていた隣で、サキは数時間前にハシビロコウがやってきたときにいったことを思い出した。ハシビロコウはここまで飛んできたと言っていた。吐くほど強烈な頭痛があるにも関わらずだ。それほどの痛みを抱えてここまで飛んでくるとは少し考えにくい。おそらく痛みの程度に波があったのではないかとサキには予想がついた。

「ハシビロさん、確かここに来るときに飛んできたっていっていましたよね。その際に何かにぶつかったりしませんでしたか。例えば木とか。この辺は林ばかりですから。」

ハシビロコウはちょっと顔をあげて考え込んだ。

「うーん、どうだったかな。一心不乱だったし。」

「そうですか。そしたら、飛んでいる間に痛みがひどくなったりしませんでしたか?」

その質問にハシビロコウは大きく頷いて答えた。

「そういえばそうだったわ。夜だったし下の地形を見ながら飛んでいたんだけど、突然また頭痛がひどくなりだして、たまらず下に見えた大きな枝まで急降下して休んだわ。」

「そのときに足の傷もできたのではないですか?」

「・・・そうかもしれない。」

「今は大丈夫なんですよね。足の傷も。」

「うん。」

本当に自覚がなかったのだろうか、ハシビロコウは下を向きストッキングの破けたところを見て首を傾げていた。一方でサキはハシビロコウの頭痛が発生、増悪したタイミングの共通点を考えた。どちらも夜間の出来事、一方は水飲みで、もう一方は飛行中。二つの共通項は夜間かつ下を向いていたという点だ。


夜、下を向いている・・・・・・

そういうことか! とサキは膝を打った。下を向く、つまり目が下を向いている状態では眼球内の水晶体が重力で移動し虹彩を塞ぐことが知られている。加えて夜は周囲が暗いため瞳孔は開き気味になる。つまり「夜」と「下を向く姿勢」はどちらも眼房水の排出を妨げ、眼圧をあげる要因であり、緑内障発作を惹起する原因になりうる!


「ハシビロさん。」

サキはハシビロコウの前に立って両手をその両肩にポンと置いた。ハシビロコウは目の前にサキがいることに気づき、ゆっくりと顔をあげた。それに向けてサキはニッと笑って口角を引きあげた。

「十中八九、病気の見当がつきました。」

サキがそう言うと、ハシビロコウは驚いて喜びの声をあげた。

「本当ですか、先生!」

「はい。ハシビロさんが問診に精一杯答えてくれたからわかりましたよ。ありがとうございます。」

ハシビロコウの嬉しそうな顔にサキは微笑みを返し、部屋の内線電話をとって第2診察室に繋げた。しばらくして第2診察室で寝ていたであろうヒイラギが電話に出た。

「・・んあ、サキさんどうしたの?今何時?」

声を聞く限りついさっきまで寝ていたらしい。声色が寝起きのそれで低くくぐもっていた。

「ヒイラギ、寝ていたところ悪いんんだけどお仕事よ。至急一階の備品倉庫にある視力検査の道具と眼圧検査の機械を持ってきて。」

受話器から「はーい」という少し気の抜けた返事が返ってきた。


寝ていたヒイラギを内線で叩き起こし、サキとヒイラギは至急行った視力検査と眼圧検査の結果を第2診察室に揃えた。

「サキさん、正直僕は眼のデータは慣れてないから、これを見ただけじゃわからないよ。」

いまだに眠いのか目をこすりながらヒイラギは困った顔をしていたが、同じようにサキも懸命に検査結果とその基準値とを見比べていた。

「うん。正直言って私もこのマイナー科に関しては数値を見ただけで判断できるレベルにはいないの。けれど本に載っている基準値との差を見れば一目瞭然ね。左目15mmHg に対して右目67mmHg、基準値は10〜20mmHg だから、明らかに右目は高眼圧だ。」

「視力の方も右のほうが明らかに数値が悪いよね。」

ヒイラギも頷いていた。

明確な根拠を得て、サキはここで初めて確信に至った。

ハシビロコウさんの診断は決まった。急性閉塞隅角緑内障だ。

しかしサキとヒイラギに安心している暇はない。診断の次は治療法を考えねばならないからだ。

「おそらく発症から5時間程度は経過している。一刻も早く眼圧を下げないと失明のリスクが高くなるわ。私はグリセオールとアセタゾラミドを調製するから、ヒイラギは縮瞳薬のピロカルピン3%を点眼薬にして1時間に4回の頻回投与を頼むわ。」

ヒイラギは返事をして薬品庫へ走っていった。一方サキはしばらく診察室に残って、治療法についてさらに考慮を深めていった。

「緑内障発作の場合、まずは眼圧を下げることが第一。その後の治療はマントニールやグリセオールを用いた薬物治療を行う。しかし薬物治療で完治できない場合は、レーザー虹彩切開術等を用いた手術療法が適応される・・・」

ノートやマニュアルの記述を確認し終えると、サキはまずは薬によって症状の寛解具合をモニターしようと考え、頭に描いた治療計画をカルテに書き込んでいった。そして計画を一通り書き終えると、少し椅子の背もたれに体重をあずけて、ずっと詰まっていた息を思い切り吐き出した。体から少しずつ夜霧が晴れ、朝日で空が東雲色に染まっていく。そんなような爽やかさをサキは一時感じた。しかし、その清々しい気分に浸っている余裕はない。


そうだ、私には共に歩む患者が待っている。


そうしてさっきのヒイラギのように診察室を飛び出して薬剤の調製に向かった。






(筆者注*)

眼房水の排出の不良は緑内障の一因であり、全ての緑内障に当てはまるとは限りません。今回のケースは細かく言えば「原発閉塞隅角緑内障」に該当しますが、本文の中では説明を簡便にするため「緑内障*」と記述しています。

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