カルテ4-2 まだまだ小さな一歩でも

1階の検査室に入り、サキはハシビロコウに台に横向きに寝るよう指示をした。ハシビロコウがそれに従いゆっくりと体を寝かせた。サキはハシビロコウの背中側に回り上着をめくって背中を露出させた。

「そのまま膝をかかえるようにして、背中を丸めてください。」

丸められた背中を消毒し、針を刺入する目印のJacob線を確認、小さく盛り上がった腰椎の間をペンでマーキングをした。そしてサキは注射器を手に取りキシロカインを注いだ。

「L4チェック。ハシビロコウさん、今から局所麻酔をします。少し痛いですが麻酔が効いてくれば治ってきます。気分が悪くなったりしたら言ってください。」

ハシビロコウが頷いたのを確認し、サキは手袋をはめ背中の皮膚に針を刺入し麻酔薬液を押し出した。

「・・・ぃ痛っ・・・」

検査台の上でハシビロコウがビクッと驚いたように体を攣らせた。しかし少しずつ麻酔が効いてきたのか顔から痛みの表情は消えていった。

「それでは髄液を採取します。少しだけじっとしていてください。」

ヒイラギに髄液採取用のシリンジを用意して手渡してもらい、先ほどつけたマークに合わせて先ほどよりも太い針を腰椎の間に刺した。針が髄膜腔に届きシリンジ内にほぼ透明の髄液が流れ込んできた。しばらくしてシリンジに必要量の髄液が回収されたので、サキはシリンジをヒイラギに手渡して検査項目を指示した。その後ハシビロコウの背中から針を抜去し再度消毒した。

「ハシビロコウさん、終わりましたよ。このまま検査室のベッドで寝られますから、ここでしばらくの間休んでいてください。頭痛や吐き気はどうですか?」

サキの問いかけにハシビロコウは気づき、ちらとサキの顔を覗いた。

「まだ吐き気あるかも。頭も重くて痛い。」

確かにハシビロコウの声はいまだ頭の鈍い痛みに耐えているような、抑えられた声であったので、サキは補液とあわせて制吐剤を入れることにした。

サキはハシビロコウに点滴をつけ、万一に備えてバイタルサインを測るモニターも接続した。サキが処置を終え検査室を出ようとしているところを、ハシビロコウは顔をサキの背に向けて、落ち着いた声できいてきた。

「私の体、大丈夫なの?先生。」

そのギョロリとした目に刺されたように感じ、再びサキは少しヒヤリとした恐怖を感じてしまった。なんだかあの目でじっと見られると気休めや安易なことが言えないような気がしてくるのだ。それに昨日のスナネコの件で疲弊していたサキには、今この場所でハシビロコウに向かって「大丈夫ですよ。私に任せてください。」という神のような言葉はどうしても言えなかった。

「さっきの検査結果を見ないとはっきりとしたことは言えませんが万一すぐに処置が必要な状況だということがわかれば、すぐに処置をします。」

サキは振り返ってそれだけ言った、けれどハシビロコウの顔をみて言うことはできなかった。


診察室に戻ると、そのベッドの上にヒイラギが倒れ込んだようにうつ伏せになって寝入っていた。机の上にはヒイラギが印刷して持ってきたと思われる髄液検査の結果が置かれていた。

「ああ、やっぱりヒイラギも疲れが限界だったのか。今日はいっぱい手伝ってもらったからなあ。」

サキは棚から毛布を取り出しベッドの上のヒイラギの背にそれを掛けてあげ、自分は診察室の椅子に座ってPCからハシビロコウのバイタルの数値をモニターしつつ髄液検査の結果に目を通した。

「髄液の色は赤くはなく、数値に潜血を疑う要素もないからくも膜下出血の可能性は低いな。それに項部硬直もないし発熱もない、蛋白も線維素も正常値だから細菌性髄膜炎も可能性は下がる。脳圧も正常か。」

サキは考えたことをカルテに箇条書きにしてまとめていく。

「CTから脳梗塞やその他の脳出血は考えにくい。消化器症状は吐き気のみだから、消化管それ自体に問題があるわけではなさそう。」

しかししばらくするとペンの動きがぴたりと止まってしまった。迷路で立ち往生したような顔をして、サキはパタリと手に持っていたカルテを机に置いた。

「・・・わからない。どうしてそれほど強烈な頭痛が起きたんだろう。どこに問題があってあんな症状が出たんだろうか。」

そう呟いた瞬間、突如として猛烈な眠気がサキに襲いかかってきた。おそらくは今ので緊張の糸がプツリと切れたのだろう。たまらずサキは机の上に倒れこんだ。眠気からくる目眩と気だるさが頭をつつきまわり、血圧も下がっていくように感じる。それらがあまりにも気持ち悪くてしばらくそのまま机に突っ伏しているしかなかった。

「・・・昔、本で読んだな。これが昼も夜もない医者の勤務時間の異常さか。神経を尖らせ続けるのがこんなにも体力を使うとは・・・」

椅子に座りながら、眠気と疲れのひどさにのたうち回った。けれどサキにはまだ休むことは許されなかった。ハシビロコウの病気は緊急の対応が必要なものでは無さそうだが、未だ原因は不明であり、スナネコの方も結核の治療を始めたばかりであり、薬の効き具合を確認し続けなければならなかったからだ。

サキは右腕を伸ばして左肩のツベルクリン検査をしたところを服の上からさすった。

「硬結なし、熱感もなし、私は結核には感染していないみたい・・・いかなきゃ。」

そうして大きく息を吐きながらのっそりと椅子から立ち上がり、カルテとノート、救急対応用のマニュアルを抱えてフラフラと診察室を出ていった。


一度医員室に寄ってじゃぱりまんを口に押しこんでからサキはスナネコのいるICUに見回りに向かった。廊下の電灯は付いていなかったがICUからのライトがガラス越しに差し込んでぼんやりと明るくなっていた。ちょうどそのICUの前のソファーにツチノコが座っていて、ガラスの向こうで管に繋がれているスナネコをじいっと見ていたが、サキの足音を聞くと立ち上がってサキに話しかけた。

「先生、スナネコの容態は大丈夫なのか。」

落ち着いた声ではあったが、ずっとスナネコを見ていたのだろうか、その声色には疲れの色が混じっていた。

「先ほど遠隔のモニターで確認しましたが、今のところ落ち着いています。抗菌薬の血中濃度もヒイラギが調べてくれていましたが、そちらも基準内です。」

ツチノコはそうか、と一言いってホッとした表情を浮かべ、またさっきのようにソファーに腰掛けた。サキもその隣に座って持ってきた本を開き始めた。

「ここにいて大丈夫ですか?一人だと眠ってしまいそうで。」

サキの申し出にツチノコは一瞬当惑したが、サキの持っていた本やカルテを見て状況を解したようで、頷いて少しソファーの端に座りなおした。

サキは膝に置いて持ってきたマニュアルに目を通した。けれどマニュアルの文字は全てぼやけて見えた。疲れ目のせいで視界が霞んでしまい、それでもなんとか読もうとしてサキは手で瞼をこすった。

「先生、全然休んでないだろう。サンドスターも限界に近いんじゃないのか。」

眠そうなサキを横目に見ていたツチノコは心配して声をかけた。けれどサキは首を振って答えた。

「いえ、私はまだ休むわけにはいかないんです。」

「さっき来たハシビロコウか。」

「・・・ええ、ちょっと対応を考えなくてはいけなくて。ヒイラギは体力が限界で寝ちゃいましたし、私が踏ん張るんです。」

サキはそういったが、それを聞いたツチノコは表情を曇らせていた。そして天井を見上げ、一言呟いた。

「お前、やっぱりわかってないな。」

思わずサキはマニュアルから目を離し、驚いて横を向いたが、ツチノコは目を半分閉じてサキを見ていた。ひとつため息をついてからツチノコはサキの肩をポンと叩いて言った。

「先生、少しでいいから寝ろ。俺は大丈夫だから、もし何かあったら起こしてやるよ。」

「そんな、付き添いの方に迷惑をかけるわけにはいきません。」

サキは目を丸くして首を振ったが、ツチノコはそれを受け入れなかった。

「いや、10分でもいいから休め。俺からしたら、今の疲労困憊の先生がスナネコやハシビロコウの状態が変わった時に正しく素早く対応できるかが不安で仕方ない。」

「それは・・・」


目が泳いだ。

確かに今の私では緊急時の対応は体力的に難しいかもしれない。けれど、患者の命を預かっている医者として果たして「誰も対応できない空白の時間」を作って良いのだろうか。

そうサキは思った。


「ほれみろ、やっぱり判断できてない。」

サキの困惑した様子をみて、ツチノコは呆れて笑った。

「もし先生が疲れてなかったら、きっと今みたいに口ごもることはしなかっただろう。すぐに一言『お気遣いありがとう、でも大丈夫』と言えられていたはずだからな。だから少しは自分の体をいたわれ。」

サキには返す言葉もなく、手に持っていたマニュアルを閉じて膝に置き、ソファにもたれた。

「わかりました、ご厚意に甘えさせていただきます。15分経ったら起こしてください。」

ああ、というツチノコの声を聞いてからサキは静かに目を瞑り、あっという間に眠りに落ちた。


ツチノコに肩を叩かれてサキは目を覚ました。そして勢いよく飛び起きて、何か起きたかとツチノコに尋ねた。

「いや、何もなかったぞ。」

そういうと今度はツチノコがソファにもたれかかった。

「どうだ、少し寝て何か変わったか?」

ツチノコの問いかけを聞いて、サキは首や肩や腰を軽く回してみた。そうしているとさっきまであった眠気や頭痛、目のかすみが大きく改善されていた。気分も先ほどまでとは違いすっきりとしていた。

「すごく楽になりましたよ、ツチノコさん。ありがとうございます!」

それにはツチノコも安心したようでニッコリと笑いを浮かべていた。

「なに、フレンズ同士助け合うのは普通のことなんだよ、先生。じゃあ俺は寝るから、スナネコのことは頼むぞ。」

「はい、わかりました。」

それだけ聞くとツチノコはいびきをかいて寝入ってしまった。サキは持ってきたマニュアルなどを持って立ち上がり、ソファに寝転がるツチノコの寝顔を見下ろした。

そうか、ツチノコさんもずっと起きていたからな。やっぱりそれだけスナネコさんのことが心配だったんだろう。それに私のことも気にかけてくれていたんだな。

嬉しいな、気にかけてもらえるって。

サキは大きく背中を伸ばし、それからICUに入ってスナネコの様子を確認すると、ハシビロコウのいる検査室に再び戻っていった。


廊下に響く遠のくサキの足音に気づいてツチノコは目を覚まし、ICUから離れるサキの背中を薄目を開けて見送った。そして一言、

「そろそろ気づくかな、サキ。」

と静かにぼやくと、また目を閉じていびきをかき眠りについた。

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