カルテ4-1 まだまだ小さな一歩でも

ガラスのドアの向こう側にいるのはどうやらハシビロコウらしいとわかったヒイラギは恐る恐るドアへ近づきハシビロコウの様子を窺った。ハシビロコウは自分がもたれかかるガラスのドアへと近づいてくるヒイラギに気づくと、うずくまり低いうめき声をあげながら、大きく広げた目をヒイラギの方へとゆっくりと向けた。そして覆いかぶさるようにガラスにもたれかかり、低く幽かな声で助けを求めてきた。

「夜中にごめんなさい。けどお願い・・・ここに先生いるんでしょ? 頭痛と吐き気がひどくって本当に我慢できないの。助けて・・・」

その顔は暗闇にいてもわかるほど青白く、首筋が汗で薄くてかっているのが見えた。

「わかりました、すぐ案内します!」

ヒイラギはさっきまでの怖気ついた顔から一変して真剣な眼差しになると大急ぎでドアを開き、地面に座り込んでいるハシビロコウに肩を貸して立ち上がらせようとした。

「ツチノコさん、すみませんが手伝ってください!」

「お、おう!」

ヒイラギに呼ばれてツチノコも慌ててハシビロコウに駆け寄り、反対の肩を持った。

「脳の病気かもしれないので、衝撃を与えないよう落ち着いてゆっくり運びますよ!」

「わかった、お前の歩調に合わせる。」

そうして二人はゆっくりとハシビロコウを病院の中へ担ぎ込んだ。


ヒイラギのドアをノックする音でサキは目を覚ました。一度伸びをして目をこすり、あたりを見回すと真っ暗だった。そして、ああそうか、ツチノコと話した後そのまま診察室で寝てしまったんだとぼんやり思い出した。昨日の疲れが残っているのか体のいたるところに鈍い重さをサキは感じていたので、できればもう少し休んでいたかった。けれど今は深夜だしこの時間にヒイラギがやってくるということは急患かもしれない。サキはのっそりと椅子から立ち上がると部屋の電気をつけ診察室のドアを開けた。するとヒイラギとツチノコが灰色の鳥らしきフレンズを担いでドアの前で待ち構えていた。

3人がぞろっと並んでいたのでサキは少し面食らってしまった。ヒイラギはサキの姿を見るなり喋り出した。

「サキさん、急患です。ハシビロコウさんなんですが、激しい頭痛と吐き気を訴えています。すぐ診察を!」

なかなか危険な主訴にヒイラギも焦っているようだったが、サキはそれ以上に切迫した状況の可能性があることを察知した。激しい頭痛という訴えは命に関わる急性の疾患の可能性が高いからだ。

サキはピシャリと自分の頰を打って眠気を吹き飛ばし気合を入れた。

「ヒイラギ、至急頭部CT、MRI、血管造影の準備をして。それが終わったら手術ができるようにしておいて。それまで私は診察しますから、ハシビロコウさんはどうぞ中へ。」

自力で歩けますか、という問いにハシビロコウは小さく頷き、よろよろと診察室へと入っていった。その後で、サキはツチノコがヒイラギと共にハシビロコウを運んでくれたことに気づき、ツチノコの方へと向き直り丁寧に礼を述べた。

「ヒイラギを手伝ってくれてありがとうございます。」

「いや、そんなに気にしなくていいぞ。」

ツチノコは素っ気なく言った。

「スナネコさんの治療は始まったとはいえ、まだまだ予断を許さない状況です。ツチノコさん、使っていない病棟のベットで休んでもらって大丈夫ですよ。ただし、感染の危険があるのでICUには入らないでくださいね。」

そうか、と一言言うとツチノコはポケットに手を突っ込み、つかつかと二階への階段に歩いていった。その途中でツチノコは足を止めてサキに静かに言った。

「サキ、お前は大丈夫なのか。疲れていないのか。」

その言葉にサキはホッとした表情を浮かべた。

「私は大丈夫です。」

そういえば、私ってヒイラギと博士以外に身を案じてもらったことはなかったなあ。

階段を昇るツチノコの背中を見送りつつサキはツチノコの優しさをひしひしと感じていた。


診察室に入るとハシビロコウはベッドに座り、頭痛と吐き気を押し殺しているような苦悶の表情をし、冷や汗も滲んでいるように見えた。

「ハシビロコウさん、横になっていた方が楽ですか、それとも今の状態が楽ですか。」

サキが問いかけるとハシビロコウは顔色通りしんどそうに答えた。

「いえ、今のままで大丈夫・・・」

「わかりました。それではまず体温を測らせてください。」

そう言って体温を差し出したとき、ハシビロコウとサキは初めて目があった。その目つきを見てついサキは目線を外してしまった。

黄色に彩られた大きい瞳、つり上がった鋭い目つき、そして辛そうな顔色の中に少し見せる緊張、というよりナーバスな色。一瞬にして感じた「恐怖」を説明する言葉を並べればキリがないが、動物的本能がそうさせたのかもしれない。それにしてもなんという殺気立った恐ろしい眼光だろうかとサキは内心怯えてしまった。

しかし医者がそんなていたらくではいけないと頭をぶんぶんと振り、ハシビロコウに体温計の使い方を指示するとカルテを用意し問診を続けた。

「いくつか質問をしていきますね。辛さや気持ち悪さに我慢できなくなったらすぐに言ってください。頭痛はいつ頃始まりましたか。」

「夜ご飯を食べてからしばらくしてから。けどひどくなったのはちょうど1時間前くらい。」

「頭痛の痛みはどれくらいですか。痛みのひどさを1から10までで表してみてください。」

「・・・10。こんなの初めて。だからまずいと思って、なんとか寝床からここまで飛んできたの。」

「飛んできた・・・んですか。それは大変だったでしょう。」

「いや。私は平原に寝床があるの。ここからはまあまあ近くて。」

飛んできた、という話がサキには引っかかった。果たして激しい頭痛と気持ち悪さを訴える患者が飛んで病院に来るだろうか。そこでもう少し聞いてみることにした。

「ここまで飛んでくるのに墜落しかかったり、ふらつきがあったりしませんでしたか。」

「そんなこと、あったかなあ。」

そうですか、と言ってサキはカルテに問診事項を書き込みつつ脳をフルスロットルにして診断方針を考えていた。そうしているうちに体温計のアラームが鳴った。受け取って表示を確認すると36.5℃であった。つまりハシビロコウは熱を出してはいないと考えられた。

ハシビロさんの今の状況を考えると髄膜炎の可能性は下がり、第一に考えるべきはくも膜下出血だろう。まずはこれを鑑別しなくてはならないとサキは心に決めた。

「ハシビロコウさん、まずはCTを撮影しますので、車椅子に乗って移動しましょう。途中で辛くなったらすぐに行ってくださいね。」

頭痛がいまだ辛いのかハシビロコウは軽く頭を抱えていたが、サキの声にはすぐに反応したようで、黙って静かに立ち上がった。そうしてサキが用意した車椅子に乗り、診察室の奥に設置されたエレベーターで地下一階のCTルームへと移動した。ハシビロコウの乗った車椅子を押して歩いている間、サキはかつて自分が書いたくも膜下出血に関するノートの内容を膨大な記憶の中から掘り起こしていた。


くも膜下出血は脳を栄養する動脈にできた動脈瘤が破裂し、明確かつ激烈な頭痛、嘔吐、場合によっては意識消失が引き起こされる危険な疾患。症状所見を見過ごせば患者は間違いなく死ぬ病気であり、医師はこの疾患だけは絶対に見逃してはいけないと、そう何度も勉強した。それにこの病気はフレンズに頻発することが統計的にわかっている。フレンズの発生過程で脳血管の壁がヒトより脆弱になりやすいから、と説明されていたはずだ。くも膜下出血の治療法は開頭手術で髄膜腔の出血を除きつつ、破裂した動脈瘤をクリッピングして再出血を予防する。


医師の診断如何に全てが懸る。それがくも膜下出血という疾患である。


それだけに治療を行うサキには恐ろしいほどの重圧がのしかかってきていた。そのことを次第にサキも自覚し始め、手の甲が汗で濡れ冷えていき心なしか足早になっているのが感じられた。

わずかな判断の遅れの間に脳血管からの出血が再発・悪化すればハシビロコウは間違いなく死ぬ、仮に運良く助かったとしても重度の脳機能障害が遺存する可能性があるのだ。サキに求められるのは、画像診断で素早くくも膜下出血かどうかを見抜き、万一そうであった場合は早急に手術を行い、脳にダメージを与えず正確に血管を修復しきるという、たったひとりの医師、それも治療経験の少ないサキ一人にかかるタスクにしては極めてハードルの高いものだった。

それが、サキを戦かせた。


いつもの、いやせめて一昨日の私だったらよかったのに・・・


サキは思わず顔を歪め車椅子の持ち柄を握りしめた。その緊張はサキの全身を強く強張らせ、足を一瞬止めさせた。


なんだろう、初めて医者として患者に向かった時、助手の時も同じように緊張したような気がする。冷たい。寒い。怖い。

けれど私は何を怖がっているの?

患者が死ぬのが?

ミスをするのが?

正しい診断をする自信が無いから?

何か決定的に大事なことを見逃しているかもしれないから?

いや、その全部だ。

自分の至らなさが再び患者を傷つけてしまうのかもしれないから、スナネコさんのように・・・

ツチノコさんが怒っていなくったって、私の中でその事実は消えやしない。

もしまた私が一つでもミスをしたら今度こそ患者は死ぬ。それならば私は医者として、空の上から地形を推し測るように患者の全てを俯瞰しなければならないんだ。

見落としのないように。

見落とさないように。

空から見下ろして。


「うぅ・・・」とハシビロコウの呻き声で我に帰ったサキは、再び車椅子を押し始めCTルームへと急いだ。地下一階のCTルームの前にはヒイラギがいてサキが来るのを待っていた。ヒイラギはサキに代わって車椅子を押してCTのある部屋に入ろうとしたが、その時サキの顔をちらと見て言った。

「サキさん、やっぱりちょっと疲れてない? 昨日から働きづめでしょ?顔色悪いよ。」

そう言われてサキは壁にはまっている窓ガラスに近づき、それに写り込んでいた自分の顔をまじまじと見つめた。確かに目の下には隈がうっすらとできていたし、瞼も重そうに見えた。

「確かにヒイラギの言う通りかも。けどまだ休むわけにはいかないのよ。ハシビロさんの病気がわかるまではね。」

そう答えて気丈に振舞った。けれどその様子はヒイラギには無理をしていると映ったようで、心配そうな視線を注ぎ続けていた。

CTの操作をしにヒイラギが部屋に入った後、サキは廊下に据えられたソファに倒れこむと、我慢できずそのまま眠りに落ちていった。


「サキさん、CTの結果出ましたよ! すぐ来てください!」

というヒイラギの声とともに、肩を揺り動かされサキは重たい目をこじ開けた。

「ハシビロさんの容態はどう?」

サキは両手で自分のほおをぴしゃりと打って目を覚まし、ヒイラギに確認した。

「変わりないけど悪化もしていないみたいだよ。それよりサキさん、早くCTを見にきてください。僕もみたけどやっぱりよくわからないから。」

そう言ってヒイラギはサキの腕を掴んでソファから強引に立ち上がらせると、そのままCTルームへ引き込んだ。部屋のディスプレイにはハシビロコウの10分前の頭部CT画像が20枚ほど並べられていた。それらの画像をサキは流すようにサッサッと送りながら、画像にくも膜下出血の所見がないかどうかを確認していった。

「どう、サキさん? なにかあった?」

画像全てを見終わった後、サキはヒイラギの問いかけに答えたが、その声は動揺の色が隠しきれず、その声はブレてぼかされた音になった。

「CTには、くも膜下出血の所見が見当たらない・・・ どの画像にも出血を疑う像が見当たらないんだ。」

「えっ?それじゃハシビロコウさんの病気は別のもの?」

思わずヒイラギも驚きの声をあげた。サキもヒイラギもくも膜下出血の可能性を疑っていたのだが、その推理はCT画像の結果と乖離してしまったのだ。

「どうしよう、サキさん。」

ヒイラギは肩をすくめ、気持ちが落ち着かないようでおろおろとしていた。サキも大きくため息をついて目をつむり頭を抱えた。

「そうね、他の突発的で激しい頭痛、吐き気を起こす病気を考えよう。けれどこのCTだけでくも膜下出血の可能性を全否定するのは危険だから、すぐに髄液検査をして髄液に血が混じっていないか、それと熱の出ない髄膜炎の可能性がないかを確認しよう。そのあと制吐剤と補液を投与して数時間様子を見ましょう。その間に他の疾患の可能性を考えるわ。」

緊急の対応が必要だったくも膜下出血の可能性は下がったものの、サキの予想は裏切られ、対症療法で治療が後手に回らざるを得なくなってしまった。そのことにサキはひどい焦燥感を感じながら、またハシビロコウの乗った車椅子を押して髄液検査を行う部屋へとヒイラギとともに静かに歩いて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る