カルテ3-6 ケセラセラ
防護服に身を包んだサキはICUの一角にある隔離されたルームに入った。青白いライトでほのかにまぶしいその部屋のベッドにはスナネコがいてスーっスーっと穏やかな寝息を立てていた。薬が効いているのか機器に表示された数値を見るに容態は安定はしていた。
サキはベッドサイドにサイドテーブルを置くとそこに持ち込んだ薬品や道具を置き、少し火照った色をしたスナネコの顔を覗き込み静かに声をかけた。
「スナネコさん、今から少し痰を取らせてもらいますね。楽にしていて大丈夫です。」
その声にゆっくりと目を開けたスナネコは小さくうなずくと、また瞼を閉じて深く息を吐いた。
サキは鼻腔から気管内にチューブを挿入し吸引器のスイッチを入れた。じゅぼッという低い音とともに痰が吸い出されサキの握る容器に収まった。
チューブを鼻から抜去したあと再びサキはスナネコの顔を覗き込み、マスク越しにスナネコに笑顔を投げかけた。
「大丈夫ですスナネコさん。本当の病気は十中八九わかっています。これからする検査の結果を確認したら、すぐに治療を始めますから。もう少しです、待っていてください。」
しかし再び眠りに落ちていたスナネコはその声に反応せず、ルームにはスナネコの寝息と機器の作動音のみが響いていた。
サキは顔を陰らせたままスナネコのベッドサイドを離れると、そのルームの端に置かれた椅子に腰かけ、おもむろに自分の左の袖をまくり上げた。露わになったサキの上腕はまるで違う種類の人形の体と腕をを接いだかのように奇麗にフレンズの肌色とセルリアンの青色のツートンに分かれていた。サキはあらかじめ用意していた注射器にツベルクリン溶液を取ると、自分の左肩の肌色の部分に狙いを定め、ゆっくりと針を入れた。小さく鋭い痛みが腕から遡上し頬と眉間をこわばらせた。それでもサキは涙の溜まった目を開き続け、静かに薬液を注射した。針を抜いたサキはつかえていた息をふうっと吐き出し、瞼を閉じた。閉じ合わされた眼瞼のすき間からはたまっていた涙液があふれた。
「あれ、どうしてだろう。注射なんて痛くなかったのに、どうして。」
滲んだ視界を湛えたまま、サキはしばらく椅子から立ち上がれなかった。
ようやくICUからでてきたサキに、まってましたとばかりにヒイラギが駆け寄ってきた。
「ああ、ヒイラギありとうね。ツチノコさんはどうしてる?」
「ツチノコさん? 今は疲れて下のソファーで寝てるよ。」
あらそう、と返事をしたサキの声は無自覚に上ずった。そのことにサキ自身も不思議な気がしたのだが、ヒイラギも同じように「あれっ?」という様な顔で首をかしげていた。
「ええと、それでツチノコさんの左腕に何かあったかしら?」
気を取り直してサキはヒイラギに先刻頼んだことを訪ねた。
「ツチノコさんに言って見せてもらったよ。左肩の下あたりに、ケガの跡みたいな点が並んでいた。ツチノコさんにそれが何かって聞いてみたんだけど、知らないみたいだった。」
そしてヒイラギはポケットからメモ帳を取り出してサキに手渡して言った。
「サキさんがICUに行っている間、僕はその痕が何かを調べてみたんだ。サキさんあの点の痕はBCG vaccineのものとそっくりだった。サキさん、もしかしてスナネコさんの病気って・・・」
「ヒイラギっ!!」
そこまで言ったとき、突然サキは声を荒げヒイラギの手をつかんだ。その声の張り方、表情、行動、どれ一つとっても普段のサキとは思えず、ヒイラギは瞳孔の開いた赤い目で睨まれ縮み上がってしまった。自分の顔を怯える顔で見つめるヒイラギを前にハッとなったサキは一度気持ちを落ち着かせ、つかんだヒイラギの手を両手で優しく握った。
「ごめん、ヒイラギ。びっくりさせちゃって。あなたの予想は私と同じ。けれど検査結果を見るまでは正しいことは言えない。その憶測はもしかしたらスナネコさんやツチノコさんをかえって混乱させてしまうかもしれない。そう、8日前の私のようにね。」
「サキさん・・・」
サキは包んだ手をぎゅっと握りしめて、かがみこんでヒイラギと目線を合わせた。
「だから、今は検査をしなくちゃいけない。その予想を裏付けるためにね。手伝ってくれないかな、ヒイラギ。」
そしてニッと笑顔を作った。ヒイラギは少しの硬直のあと、黙ってうなずいた。
午前中にスナネコがやってきてから10時間ほどが経ち、気づけば日は落ちていた。1時間前にようやく起きたツチノコはICUのガラス窓の前のソファーに腰かけ、中のスナネコを心配そうにガラス越しにじいっと見ていた。一方サキとヒイラギは検査室にこもり痰に対して抗酸菌塗抹検査とMAAT(核酸増幅検査)の2つの検査を大至急行った。
二人はディスプレイに表示された検査の数値を注意深く見つめていた。
「サキさん、痰のニールセン染色を見る限り、これはやっぱり・・・」
ヒイラギは手に持っていたプリントされた顕微鏡写真をサキに手渡した。その青い雲がかかったような写真のところどころにピンク色に染まった棒状の小体が認められた。サキもその写真のじっと見て、もう一度ディスプレイを見てがっくりと肩を落とした。
「やっぱりそうだった。ヒイラギ、君の予想は当たりだった。」
「それじゃあ、スナネコさんの病気は・・・結核・・・」
「ああ。画像検査の結果を合わせると気管支結核という診断になるんだ。全ての結果を見る限り気管支結核の可能性が極めて高い。」
そうしてサキもヒイラギも一瞬にして顔面蒼白になった。
「一刻も早く治療開始しないと危険だ! ヒイラギ、急いでイソニアジド、リファンピシン、エタンブトール、ピラジンアミドを用意!それからツチノコさんを第2診察室に案内して!」
二人は座っていた椅子を跳ね上げ大急ぎで検査室を飛び出していった。
大慌てでやってきたヒイラギに案内され、病院1階の第2診察室で待っているようにと言われたツチノコは、ICUのスナネコが心配で仕方ないという様相でそわそわしながらサキが来るのを待っていた。30分ほどしてサキがマスクを着けて部屋に入って来た。疲れた様子のサキは椅子に座り、机上のPCの電源を入れるとツチノコに紙袋を手渡した。
「今後しばらくの間はこれを使って口と鼻を覆ってください。」
ツチノコが怪訝な顔をしながら紙袋を受け取り袋を開けると、十数枚の小さな厚紙のようなものが入っていた。一枚を取り出してみると、細かい線維でできた紙にゴム糸がついたような、今まで見たことのない紙片だった。
「それはマスクと言う道具で、口や鼻からの病原菌の出入りを抑え、空気感染を防ぐためのものです。両端のゴム糸を耳にかけ、真ん中の不織布を口にあててください。」
ツチノコは言われた通りに手に持ったマスクを装着した。
「ちょっと暑苦しかったり、しゃべりづらかったりしますが我慢してください。」
サキは申し訳なさそうにツチノコに一礼すると、PCのディスプレイに撮影したスナネコのCT画像を映し出した。
「・・・それで、スナネコは大丈夫なのか?」
マスクが気になるのか、ツチノコはマスクを引っ張ったり耳のゴムをかけなおしたりしながらスナネコのことを聞いてきた。サキは少し険しい顔つきになり、下唇を噛んだ。
「いくつか詳しい検査をしたところ、スナネコさんの病気は喘息ではなく気管支結核である可能性が非常に高くなりました。今は喘息の治療を中止して、結核に効く複数の抗菌薬を投与しています。」
サキの報告にツチノコは目を丸くした。
「は、え? 結核?喘息じゃなくて? なんだよその病気。説明してくれよ先生。」
午前中と違って多少口調は落ち着いてはいるが、それでも興奮は抑えきれないのか鼻息荒く聞いてきた。
「結核は感染症の一つで空気を伝ってフレンズからフレンズへ伝染する病気です。主な症状は咳、倦怠感、熱、そして痰です。」
「喘息の症状と似ているな。それで、その病気は危険なものなのか?」
ツチノコは身を乗り出してサキの眼前に迫った。その質問に対しサキは少し言葉を発することができず、一度腕組みをして下を向き慎重に言葉を選んだ。そして顔を上げて迫るツチノコに静かに語り掛けた。
「いいですか、落ち着いて聞いてください。結核は今から100年ほど前までは治療法が確立しておらず、不治の病ともいわれていた病気です。ですが、今は結核に対する薬が作られており、慎重に対応すれば治る病気になりました。私とヒイラギで責任をもって治療にあたります。とはいえ難しい感染症ではあります。完治するまで、つまり結核菌が体から消えるまでは数か月はかかります。そのため他の人に菌が伝染る危険がなくなるまでスナネコさんはここで隔離しないといけません。どうか、ご理解ください。」
慎重に、責任をもって、そういう医者の常套句のような言葉の連続が今のサキにはひどく堪えた。言葉のピアノ線で全身を絡められ、体に食い込んでいるような痛みを覚えた。なぜなら、いま並べた言葉通りのことを8日前に実践していればこのようなことにはならなかったから。あの時真相に気付き、手を打っていれば・・・スナネコさんをあのような危険な状態にさせてしまったのは全て自分の咎だった。
けれどそれらをすべてぶちまけ、開示する勇気は今のサキには無かった。その罪悪感がさらにサキを締め上げていた。
気づけばツチノコの前でサキは表情を翳らせ俯いていた。
「・・・もちろんだ。治療については全て任せるよ。お前らにしかできないからな。頼むぞ。」
私には頼まれる資格なんてないんだ、そうサキは思ったが、それでもサキの心に潜む“何か”が「はい、わかりました」と言わせてしまった。
ではこれで、と言ってサキは立ち上がり診察室を出ようとしたその時、
「おい、待てよ先生。」
というツチノコの低い声がサキの足をとめた。ゆっくりとサキが振り返ると、ツチノコが座ったままこちらをじっと睨んでいた。振りむいたサキの顔を見てツチノコは短くため息をつくと心配そうな表情を浮かべた。
「先生、そんな思いつめた風な顔で患者の前に行こうとしているんじゃないだろうな。先生がそんな顔をしていたらスナネコも俺も心配になる。」
「私、疲れていますか?」
サキは目を少し丸くして尋ねたが、その声もいつもに比べておとなし気だった。ツチノコはもう一度ため息をつくと目を細めて言った。
「先生、いやサキ、何か俺たちに言えていないことあるんじゃないのか?隠したって無駄だよ。今のサキはこの間の時と様子が全く違う。8日前のりりしさ、いや自信かな、そういう物が感じられないんだよ。そういう時はたいてい何か腹の中に一物を抱えているものだ。いいぞ、サキ、言ってみろ。俺もスナネコも怒らないからさ。聞いてやるよ。」
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