カルテ3-5 ケセラセラ
「輸液、酸素の準備できました!」
「大丈夫だぞスナネコ。先生のところについたからな。先生が何とかしてくれるから、だから、もう少しの辛抱だぞ!」
「っごほっ・・・いつもすまないのです、ツチノコ・・・ぐぇほっっ」
診察室に渦巻く危機感と焦燥感の真っただ中で、ただ一人サキは動けなかった。いや、動こうとしているのだが足が一歩も動かない。聞こえてくる声、呼吸音、目に飛び込んでくる患者の窮状、声を荒げる患者の身内、それらを受け取る感覚は冷えて鈍りすべて脳を素通りして何処かに拡散してしまうようだった。
全ての意識が冷え切っていた。
しかしそれとは裏腹にサキの交感神経はこんな状況でさえ冷徹にも発火し、冷や汗、心拍上昇、瞳孔散大、震顫という正常なストレス反応を起こしていた
交感神経の作用は集約すると “Fight or Flight”
つまり、「戦うか逃げるか」。
サキを取り巻くこの渦の中、まさにこの二者択一をしなければならなかった。けれどサキには初めから一つの選択肢しかなかった。
「戦う」こと、それしかなかった。「逃げれば」患者は死んでしまうから。
さらに追い打ちをかけるように二人がサキの首根っこをつかんで戦闘の渦中に引きずり込んだ。
「先生、この場でスナネコを何とかできるのはお前だけなんだよっ!」
ツチノコはサキよりもアドレナリンが出ているのか早口でまくし立てる。けれどそれすらサキの耳には届かず、ただ茫然としているだけだった。
そうしているうち見かねたヒイラギがつかつかとサキに近づき、サキの手首をつかんで引っ張った。
「サキさん、どうしますか!? なんの処置からしますか?」
呆気にとられたサキは何も返せずただ唖然とヒイラギの顔をながめたが、自分を見上げる助手の顔は自分よりもよっぽど毅然としていた。そして冷たく震える腕をしっかりと握りながら、ヒイラギは凛とした顔を唐突にほころばせ、ニイッと歯をむいてサキに笑いかけた。
「落ち着いて、サキさん。今はスナネコさんに集中しよう。僕も頑張るからさ!」
その一言にハッとなったサキは金縛りが解けたように軽く体を震わせ、ゆっくりと深呼吸をした。凍り付いた体に少しずつだが血が通っていくような気がした。
「ありがとう、もう大丈夫だから。」
瞼を閉じ、サキは静かに言った。
そしてゆっくりと瞼を引き上げ、今度は早口な大声でヒイラギに指示を飛ばした。
「今後スナネコさんは2階のICUで治療をします! SpO2が維持できているから酸素は今は要らない。まずは血液検査、胸部X線、念のため通常の胸部CTと前額断CTもお願い。それから対症療法でアセトアミノフェンを使うわ。アレルギーがないことを確認してから300mgを15分で静脈投与!」
戦場に一人立ったサキの鼻息は荒く、瞳孔は大きく広がっていた。
薄暗い検査室の中では数枚のX線写真とCTの像がディスプレイに映し出され、白く不気味に光っていた。X線とCTのモノクロの画像は先ほど撮影したものでスナネコの胸部の様子を映し出していた。ある意味絵画作品のような白黒のコントラストの中からサキはスナネコを苦しめている病気の正体があるはずと踏み、それらを食い入るように見つめ病気の手がかりを見つけようとしていた。
「肺全体に白い影があるわけではない、ということは肺炎である可能性は少し下がるか。それにしても・・・」
そう呟いて水平断CT像の一か所を指さした。そこは気管支が映っている場所であるのだが、その内径の大きさが右よりも左の方が明らかに小さくなっていた。サキは次の前額断CTに目を移すと、黒く映った両側の肺に白い粒状の影が小さく散らばっているのが映りこんでいた。
「このびまん性の粒状影、それに左気管支の狭窄。やはり気管支喘息でこうはならないはずだ。気管支炎かもしれないがそれでは肺野の影が説明つかない。」
サキが腕組みしディスプレイの前で突っ立っていると、そこにヒイラギが血液検査の結果をもって入って来た。
「サキさん、スナネコさんの血液の結果出たよ。」
「ありがとう。スナネコさんの容態はどう?」
「アセトアミノフェンが効いて熱がちょっと落ち着いたみたいで、今はICUで寝てるよ。」
スナネコの様子が安定したことで即座の救命措置がひとまず必要なくなり、サキは少しほっと溜息をつくと血液検査の結果に目を向けた。
「CRP 2.76、白血球も上がっている。やっぱり炎症が起きているみたいね。けど非特異的IgEが270IU/mlなの? この結果だけ見たら喘息の可能性も捨てきれないのかな。」
画像検査では喘息の疑いは低いのだが血液検査ではアレルギー反応を示す値、つまり喘息の可能性を示唆する結果が出てしまったことでサキは診断の決め手を欠いてしまった。
もっと別の手がかりを求めてサキはもう一度画像検査の写真を一枚一枚丁寧に見返し始めた。
(そういえば喘息でないと私が思ったのは痰が出たからなんだよな。そうすると、スナネコさんの病気は痰が増えて咳の音は乾いたものから湿ったものへと変化していく類のモノってことになるはずだ。)
サキは顎に手を当て、画像検査、血液検査、加えて自分の想像に該当する多くの病気の可能性を頭の中で一つずつ考慮していった。
「あれは、画像の所見とは一致しない。この病気はスナネコさんの病気の進行具合と整合性が取れないから違う・・・」
独り言をつぶやく度にサキの頭の中からは次々と疾患候補が消えていき、そうしてある一つの疾患が掘り起こされた。
サキはひらめいたようにハッとなって顔を上げた。
「もしや、アレなのか。しかしもしそうだとしたら、そのような状況でなぜ…」
そして隣でずっと待っていたヒイラギに一つ仕事を頼んだ。
「ヒイラギ、N95マスクを着けてちょっと下に行ってツチノコさんの腕を見てきてもらえるかしら。」
「えっ? それとスナネコさんの病気がどう関係するの?」
あまりに唐突なお願いにヒイラギは面食らい、思わずサキに聞き返してしまった。しかし問いかけた先のサキは大まじめで、いつになく深刻な顔をしていた。
「お願い、今は何も話せないけど私を信じて。この疑問が解ければ病気の正体がつかめるの。」
サキはヒイラギの方へ向き直ると頭を下げ、お願い、お願いと繰り返した。なぜサキがそんなことをしているのか、ヒイラギはさっぱりわからなかったが、それでもヒイラギは懇願するサキにニコッと笑って答えた。
「どうしてサキさんが僕に頭を下げるかなんてわからないけど、それでもそれはきっと患者さんを守るために必要なことで、何か意味があって、だからサキさんも懸命になっているんだよね。だからサキさん、僕はサキさんをどんな時だって信じているよ。」
そしてヒイラギはペコリと一礼するとそのまま部屋を出て行った。
ヒイラギが出ていき暗い部屋に一人になったサキはさっきのまま立っていたが、そのうち肩を上下に揺らし、こみ上げてくるようにフッフッと笑い始めた。その笑い声は次第に大きくなり、それと同時に肩も大きく揺さぶられた。
「ウッフッフッフ、あははははははは」
そして突然笑い声をおさめると、思い切り壁を殴りつけた。ゴッという鈍い音とともに、壁に掛けられていたディスプレイが軽く揺れカタッカタッと音を立て壁とぶつかり合った。手に持っていた血液検査の紙はくしゃくしゃに握りつぶされていた。振るった拳を壁につけたままサキはうつむき、そして苦い心中を吐露した。
「ヒイラギ、ごめんよ。むやみにスナネコさんとツチノコさんを困惑させないために話すことはできなかった。今の私じゃ混乱を抑える自信が無かったから。」
その唇は悔しさと怒りからへの字に曲がりワナワナと震えていた。
「義務を果たせなかった私は、医者失格だ。」
しばらくしてサキはフラフラと検査室を出ると倉庫に行立ち寄りツベルクリン検査と喀痰検査に必要な道具試薬をそろえるとスナネコのいるICUへと向かった。
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