カルテ3-4 ケセラセラ
「ぜんそくっ?なんだよそれは。病気の名前なのか?」
サキの告げた診断名にスナネコよりもツチノコの方が早く反応した。スナネコはさっきの発作が嘘であったかのようにポカンと口を開けていた。
「それって、その。危険な病気なのかよ?」
「まあツチノコさん、とりあえず私の話を聞いていただけますか?」
当の患者本人より興奮している付き添いにサキは苦笑しつつ、ペンをとるとカルテの余白に肺と気管支の簡単な絵を書いて、気管支のところに大きく丸を付けた。
「喘息、もとい気管支喘息というのは、胸の中にある息の通り道の役割をしている気管や気管支というチューブの中が狭くなってしまい、十分に呼吸ができなくなってしまう病気なんです。もう少し噛み砕いて言うと、息がしづらくなる病気です。」
そう言ってサキは棚にしまってある分厚い解剖学アトラスを取り出し、気管支の描かれているページを開いて二人に見せ、気管支の部分をグリグリと指差した。
「そう、口から吸いこんだ空気は喉、気管を通ってこの袋みたいなところまで行くんです。」
二人はページの図を興味深そうにジッと見た。ヒイラギもサキの後ろに回って首を前に突き出して本を覗き込んだ。
「ボクたちの体って、こんなふうになっているんですね。知りませんでした。」
「こんな二又の枝みたいなのが俺たちの胸に納まってるんだな。面白いもんだな。」
二人とも初めて自分の体の仕組みに触れ興味津々なようで、その様子を見てサキもなんだか自分に興味を持ってもらえたような気になって嬉しくなり更に深いことまで喋りたいと思ってしまったが、これ以上話を逸らしてもいけないと一つ咳払いし、はやる気持ちを落ち着かせた。
「それでですね、この喘息という病気は突然さっきのようなひどい咳が起きるんです。これを発作と言うのです。この発作が起きた時、危険な状態になることを防ぎ、時間をかけて発作が起こらないようにしていくのがこの病気の治療方針になります。」
「すると、治るのには時間がかかるのか?」
「そうなります。でも、喘息で注意するべきは発作ですが、それへの対応をしっかりしておけば、普段どおり過ごせると思います。」
「そうか。それなら良かったよ。なあスナネコ。」
ツチノコは肩の重荷が降りたようにふーっと息をつくと、横のスナネコに笑顔を向けた。その顔をみてスナネコも頰を緩ませた。
「そうですね。体調がまた良くなったらライブやりたいですね。」
「早く良くなるといいな。俺も楽しみにしてるぞ。」
二人はまた仲よさそうに共に肩を揺らして笑いあった。
「はい、これが二週間分のお薬になります。これは飲み薬で、朝と夜に飲んでください。こっちはスプレーで、さっきみたいに咳がひどい時に吸い込んでください。使ったらうがいもして下さいね。スナネコさん、ちゃんと使ってくださいよ?」
ヒイラギはサキの指示通りに薬を調剤して袋に詰めてスナネコに手渡した。スナネコは袋を受け取ると、ニッコリと笑ってお礼を言った。
「どうもありがとう。治ったらまたライブしますから、来てくださいね。」
「はい!絶対行きます!」
嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねるヒイラギを横目に見て微笑ましく思いながら、サキはツチノコにスナネコの看病をお願いした。
「いいぜ、どうせ俺も暇だし、いつものことだからな。ちゃんと飲ませるよ。次は薬がなくなる予定の二週間後に連れてくればいいんだろう。」
と、ツチノコは二つ返事で引き受け任せろと言うように胸を叩いた。そしてサキに背を向けポケットに手を突っ込み歩き出した。しかし数歩行ったところで思い出したように立ち止まりサキの方へ振り返って尋ねた。
「一つ、聞くことを忘れていたよ。発作を起こした時気が動転してしまってうっかりしてた。どうしてスナネコの病気が喘息ってわかったんだ? 先生。」
サキはポケットに手を入れ少し考え込んだのち答えた。
「理由は3つあります。発作的に咳き込むという訴えがある、喘息の特徴として上がる異常な呼吸音と乾いた咳が見られたこと。そしてあの吸引薬が効いたことです。あの薬は気管支を緩ませて空気の通りをよくする効果があるんです。喘息に対して効きますから。」
「そうなのか。医者っていうのはそういうことを考えて人を治しているんだな。知らなかったよ。」
ツチノコは首を傾げつつ、感心するようにコクコクと頷くと、また前を向き「帰るぞスナネコ。」と言って歩き出した。病院の白い壁をぼんやりながめていたスナネコはその声を聞いてサキとヒイラギに会釈すると先を歩くスナネコを速足で追いかけていった。
本当にあの二人は夫婦みたいだなとサキはちょっとほっこりした気持ちになり、二人の背中を見送った。
「スナネコさん早くよくならないかなあ。サキさんもさ、スナネコさんが元気になったらライブ行こうよ。きっと楽しいよ!」
今からスナネコの復帰ライブが楽しみで仕方ないヒイラギは全身をうずうずさせていた。
「いやあ、私の体じゃあ砂漠のキツイ日差しに耐えられないよ。それに、私が行ったら … ほかのお客さんに迷惑…」
サキだって本当は行きたいのだが、それを押し殺した。無論アルビノの体では昼の砂漠に行くのは自殺行為である。それに他の観客がサキの青い手足を見て何を思うだろうか。気持ち悪がる人もいるはずだ、文句を言う人もいるかもしれない。それにライブ中に揉め事を起こせば一番迷惑するのはスナネコさんだ。
「だから… 私は行けない。ごめんね。」
サキは肩を落とし俯いた。その横ではヒイラギも俯いて、サキの手を痛いくらいにぎゅっと握っていた。
高山から吹き降ろす冷たい風は早くも冬が近づいていることを知らせながら、赤色や茶色の枯葉を巻き上げ病院の立つ丘を駆け抜け、すでに傾き始めている午後の陽は鈍色の雲に掻き消されつつあった。二人の足元はの影はみるみる薄くなり、丘、病院、そして二人のコントラストを曖昧にした。
「冷えるね。中に入ろうか。」
サキは肌寒さを感じ、ヒイラギにそう言うとその手を引いて病院にはいり、すき間風が入らないよう扉をしっかりと閉めたのだが、それでも微かな穴から外の冷気は押し入ってきてしまうのだった。
この時扉の隙間から入って来たものは冷気だけではなかった。”そいつ”はいつでも医の道に潜み、足音を殺して近づきサキを食い殺そうと僅かな隙をうかがっていた。
そしてスナネコの初診から8日後、ついに”そいつ”はサキに牙を剥いた。
それは突如として診察室に飛び込んできた。
「お、おい先生!助けてくれ! スナネコが、ひどい熱出して咳もひどいんだ!」
突然の大声にサキは驚き縮み上がった。びっくりしながら声のする方を振り返るとドアのところは全身汗だくで真っ赤になり、呼吸の荒くなったツチノコがいて、その腕には熱にうなされているスナネコが抱えられていた。
「わかりました、すぐ診ます!」
サキは椅子から飛び起きるとスナネコを抱きかかえて診察台に寝かせると、2階にいたヒイラギを呼び寄せ輸液・酸素吸入の用意を指示した。
「体温38.1℃ 脈拍120 ・・・SpO2 97% 意識はありますね。」
サキがバイタルをとり終わったとき、スナネコがまた咳こみだした。ツチノコは慌てて駆け寄り辛そうに揺れるスナネコの背中をさすった。すると咳の音が鈍く変化し、間もなくスナネコの口から痰が吐き出された。ピシャっという音とともに痰は勢いよく床に打ち付けられた。
痰・・・? なんで・・・?
たかが痰、しかしそれがサキにはあまりに予想外のことだったのだ。
「ツチノコさん、お聞きしますがスナネコさんの咳にはいつも痰は絡んでいましたか。」
サキは床に落ちた痰を見つめ静かに尋ねた。ツチノコは少し摩る手を止め思い返した。
「いや、毎日少しずつは出ていたよ。」
「それでは、ここ1週間の間で変化はありましたか?」
「ええと、確か3日前くらいから咳に痰の絡む回数がちょっとずつ増えてきてるんだ。今日俺がスナネコの住処に行ったときも咳き込んでて、ベッドの横にあったお盆に。汚れるのが嫌だったみたいでな。それで、高熱が出ていたから大慌てで連れてきたんだよ。」
まさか・・・ とサキは青ざめながらながら凍りそうな頭を必死でまわした。通常喘息でここまで高熱になることはない。それに喀痰は喘息の典型的な所見ではないのだ。
(いや、そんなはずは。吸入薬のβ刺激薬もステロイドも効いたはずだ。)
(しかし、喘息ではこの熱と喀痰の説明はつかない。)
そうして考えを巡らすうち、サキは一つの答え、それも自らを破滅的に打ちのめす結論に達した。
スナネコさんの本当の病気は、少なくとも喘息ではない可能性が高い。
あの時の私の診断は違っていた。
あの時忍び入った”そいつ”は、誤診だったのだ。
*投稿遅れましたことお詫び申し上げます。 (筆者)
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