カルテ3ー3 ケセラセラ
「スナネコさん。今日はどうなさいましたか?」
問いかけに気付いたスナネコはぴょこりと顔を振り向けてしゃべりだした。
「咳がずっと続いていて、怠い感じがするのです。喉もちょっと痛くて歌うのがつらいのです。」
「ずっと続く咳ですか。熱はありますか?」
「ちょっとあるような…」
「そうですか。それでは体温を測りましょう。」
サキは体温計を手渡して脇の下に挟むよう指示したのち、話を続けた。
「咳はどのくらい前から続いて出ていますか。」
「ええと、いつからだったかなあ。たしか夏の終わりくらいからだったかな。」
「今は大丈夫なんですか?」
「ここに来る前は一回咳込んだんですが、今は大丈夫みたいです。」
夏の終わりから、つまり2か月以上咳が続いているということになる。これは風邪程度の原因じゃないかもしれないとサキは感じた。そこへスナネコの後ろの壁際に立っていたツチノコがスナネコの答えに付け足しをした。
「しかもだんだん咳がひどくなっているんだ。スナネコが突然咳き込む回数が増えてきて、しかもちょっと熱まで出てきたんだよ。だから俺は心配になってこいつを連れてきたんだよ。」
ツチノコの話によると咳はだんだんひどくなっているらしい。突然咳き込むというのは発作的に咳が出始め、しばらく続くということなのか。
「ツチノコさん。あなたに少し聞きたいことがあります。あなたはいつからスナネコさんの体調がおかしいことに気付きましたか? それともう一つ、スナネコさんの咳にどんな印象を受けましたか?」
どうやらツチノコはある程度長い時間スナネコの世話をしているようだと予想したサキは、少々突っ込んだ質問をしてみた。ツチノコはうーんと軽く唸って首をひねった。
「俺は9月の半ばくらいに気が向いたんでスナネコの家に遊びに行ったんだ。その頃には咳は出始めていて、歌うと息が苦しいって言っていたよ。ただそれも今ほどひどくはなかったな。咳の印象って言われてもなあ。俺は医者じゃないんだよ、先生?」
「それでは、ツチノコさんのする咳と比べてみて何か違うなと思ったところはありますか? 湿っている、乾いているとか。痰がからむかとか。」
そう聞いてツチノコは何度か軽く咳を出してみて、それとスナネコの咳の音を思い出して比べようとした。そしてしばらく考えて、何か思いあたったようだ。
「多分、俺の咳より音が軽いような。というか乾いたような高い音だった。」
乾性喇鳴。それが指し示す病気は比較的限られる。典型的なものは肺がん、間質性肺炎、喘息になる。もしスナネコの熱が高ければ肺炎を疑っても良いのだが、みたところそこまで熱が高いようには見えない。少し気だるげなような様子ではあるが、肌の紅潮がはっきりみて取れるとは言い難い。肺がんもいきなり疑うには仰々しい気がする。喘息の可能性を捨てる理由は今のところない。
ピピッと体温計が鳴り、突然の電子音にびっくりしたスナネコは思わず「おおっ」と声をもらし脇に挟んだ体温計を落としてしまった。その拍子にコホンと一つ咳をした。
その咳をサキは聞き逃さなかった。確かにツチノコの言う通り乾いた咳だった。サキは忘れないよう咳のことを記入しようとカルテをとった。
「ああ、ごめんなさい。」
スナネコは床に転がった体温計を拾おうと身をかがめた。その時だった。
「うっ、えほっ、ガホッ。がはぉっ!」
身をかがめたスナネコが椅子から転げ落ち、さらに背を小さく丸め、思い切り喉元を手で覆い床状にうずくまった。乾いた咳が前触れなくスナネコに襲いかかったのだ。スナネコは思い切り目を剥いて喉に手をあて呼吸苦に抗おうとしていたが、咳はどんどん酷くなっていくように見え、呼吸にヒューッ、キュッという異音がかすかに現れ始めた。
その急変ぶりに診察室にいた全員が面食らった。特にツチノコはスナネコが床に転げるや否や大慌てで側について背中をさすり始めた。
「お、おい!これ大丈夫なのかよ! スナネコすごい苦しそうだぞ!先生!」
ツチノコは顔を上げ、スナネコと同じように目をかっぴらいてた。サキも驚いて大丈夫ですかと声をかけ、スナネコが握ろうとした床に落ちた体温計を拾って測定された体温を確認した。
37.1℃ 恐らく肺炎ではない。肺炎なら高熱が出ることが多い。数か月という期間を考えると間質性肺炎も少し経過が早い気がする。つまり―――
これは喘息発作の可能性が高い。
「いいですかスナネコさん、まずは息を整えましょう。落ち着いて、落ち着いてゆっくりと呼吸しましょうか。1,2 1,2」
サキは床に横たわるスナネコの顔に目を合わせ、両手の平を上下にゆっくり動かし、焦らないでゆっくり息をしようというジェスチャーをした。スナネコも1,2 1,2と何とか呼吸を合わせようと必死に肩を上下させた。
その間サキも必死に頭の中でスナネコの発作への対応をひねり出していた。
この様子では検査している猶予がない。対処が遅れて呼吸停止に陥れば危険だ。
…ここは、私の推論を信じよう。
サキは後ろに控えていたヒイラギの方を振り返って叫んだ。
「ヒイラギ! ステロイド・β2刺激薬吸入するよ! 薬品庫にあるから大至急取ってきて! C―2の棚の一番下、紫色の100って書いてあるスプレーよ!」
スナネコの様子にびっくりして固まっていたヒイラギはサキの大声にビクッとして、勢いよく診察室を飛び出して行った。
サキの呼びかけでスナネコの呼吸は少し落ち着いたように見えたが、やはりまだ咳は勢い衰えずスナネコは苦しそうに背中を上下させていた。サキは聴診器を耳につけると「ちょっと失礼します」と言って聴診器のベルをスナネコの背中と胸に当てた。すると両肺の吸気時の呼吸音に、さっきかすかに聞こえたヒュー、キュッっという音が認められた。
これは、やはり喘息の典型的な所見だ。サキはもう一度落ち着いて頭の中でスナネコの病状を整理した。特異な呼吸音、長引く乾性喇鳴、つまり痰の絡まない咳、熱はそこまで高くはないから上気道感染症の影響と今は考えればよいか。やはり今は気管支喘息とすれば間違いはないはずだ。
薬品庫から薬を取ってきたヒイラギが再び診察室に飛び込んできた。
「サキさん!これですね?」
ヒイラギはサキに駆け寄ると握っていた紫色のパッケージを手渡した。ヒイラギはスナネコの背中側へ回りゆっくりとスナネコの状態を起こし、サキはその円形のスプレーのような容器に入った薬を手に取ると、薬剤の噴出口をスナネコの口の前に持っていった。
「いいですか、私と同じリズムで呼吸をしてください。はい、吸って、ちょっと止めて。ゆっくりと吐いて。」
スナネコはジッとサキの顔を見て、リズムになんとか合わせようと呼吸を落ち着かせ、こみ上げる息の衝動をなんとか押さえ込んだ。それに合わせてサキはスプレーのトリガーを引き、じんわりと薬をスナネコの口腔内に噴霧していった。
すると次第に呼吸から力みと荒さが消えていき、スナネコの肩の動きも小さくなっていった。スナネコはまだ少し辛そうな表情の上に柔和な色を浮かべはじめた。
「サキさん、なんか息が楽になってきたようです。」
この薬を使って楽になるということは喘息だ。ついさっきまでヒイラギが病院の中を掃除していたようだが、その時に舞いあがった埃が刺激物質として発作を引き起こしたのかもしれない。
「先生、この薬スナネコに効いているみたいだな。顔色もよくなってるぞ。」
横からツチノコはスナネコの顔を覗き込んで、顔から冷や汗が消えていく様子を見て喜び胸をなでおろした。そしてそのまま地面に座り込むと、顔にいつもの柔らかさが戻ってきたスナネコの肩に手を回し、よく頑張ったなと言うかのように手を広げ優しく肩を叩いていた。
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