カルテ2-6 生き方は変えられない
その日の真夜中、ヒイラギは一人病院2階の病室に向かった。窓のない病棟の廊下の無機質で真っ暗で、ただ数メートル間隔で設置されている非常口の表示灯がボンヤリと廊下の床を暗緑色に浮かび上がらせていた。サキは足音をうっかり響かせないよう静かに歩き、そっとヒグマの病室のドアを開けた。病室の窓が開いているのか開けたドアのすき間から涼しい風が流れ出してヒイラギの茶髪を軽く揺らした。部屋の中をのぞくと月の明かりが風でゆらぐカーテン越しに窓から少し差し込んでいて廊下よりも仄かに明るかった。部屋の隅に目を移すとベッドには点滴の管をつながれたヒグマが布団に包まり心地よさそうに寝息を立てているのがわかった。ヒイラギはヒグマが寝ていることを確認すると、一層足音を忍ばせてヒグマのベッドに近づいた。ベッドの傍まできたヒイラギはヒグマの顔にかかっていた布団を少しめくった。
すっかり寝入っているね。
今一度ヒグマがしっかり眠っていることをその目で確かめたヒイラギは起こさないようにそっとヒグマの体に手をかけた。
…何をしている… 手を上げろ…
突如静かだが低く威圧的な声が後ろから飛んできてヒイラギはすくみ上った。すぐに手を挙げながら恐る恐る後ろを振り返ると、研ぎ澄ませた左手の爪を今にもヒイラギの首を掻き切らんとして光らせるリカオンが構えていた。
…そのまま、静かに部屋を出ろ…
薄暗い部屋の中でギラつく爪を突き立てられているヒイラギは涙目になりながらコクコクッと頷いて、言われるがまま病室を出た。リカオンもその後に続いて病室の外に出て静かに扉を閉めると、ヒイラギを病室から離れた蛍光灯のある階段の踊り場まで誘導した。
階段の踊り場までくるとリカオンは構えを解いた。爪が退いたヒイラギはすぐに振り返ると大きな目に涙をいっぱいためながらリカオンに向かって驚きをぶつけた。
「突然何をするんですか!」
「それはこっちのセリフだよ! こんな夜中に病室に忍び込んでくるんだもの、誰だって疑うだろ! そりゃ匂いで部屋に入ってくる前から君だとはわかってたけどさ、君たちをまだ完全に信用してはいけないんだ。先輩の言いつけでな。」
声は落ち着いてはいるが、先輩の寝首を掻かれるのかと疑い気が立っているのか、リカオンの鼻息は荒くヒイラギを睨みつけていた。明らかにリカオンが敵を見る目になっていることにヒイラギはこのまま殺されるかもという恐怖を落ち着かせるために一度深呼吸した。そして、
「誤解です。確かに紛らわしいんですけど、僕はヒグマさんを襲うために病室に入って来たわけじゃないんです。むしろ僕はただ、ヒグマさんの体を守るために病室に来たんです。」
と必死でリカオンの誤解を解こうとした。それを聞いてリカオンは解せぬと言った表情で頭を掻いた。ヒイラギはさらに続けて言葉を足した。
「僕が病室に来たのは点滴の機械が正常に動いているかの確認と、ヒグマさんが床ずれを起こさないように体位を変えようと思って。」
「それはつまり、見回りに来たっていうことかい?」
「そうです。サキさんに教えてもらったんです。入院している患者さんは床ずれ起こすかもしれないから、その予防のために寝ている時は何回か体位を変えてあげると良いって。あと点滴の機械っていうのは、ベッドの近くに置いてあったポールについている箱のことで、万が一があるといけないから…」
そこまで言うとヒイラギは怖かったのかウッとしゃくり上げ泣き出しそうになった。今まで強面だったリカオンは大きく慌てておろおろしながらもヒイラギの頭を撫でて謝りだした。
「そ、そうだったの… ご、ごめん。私の早とちりで、脅かしたりして。怖かったでしょうに… ごめんね。」
リカオンはかがみこんで、俯くヒイラギの顔に目を合わせてぺこぺこと何度も頭を下げた。その時リカオンはヒイラギの腕を見てあることに気付いた。
「君、たしかヒイラギって言ったよね。あなたのその姿、普通のイエイヌのフレンズなのね。私はてっきりサキさんと同じようなセルリアンの体を持っていると思っていたよ。」
「どうして?」ヒイラギは顔を上げ不思議そうに聞き返した。
「いや、サキさんはセルリアンの体を持っているじゃない。誤解を恐れず言えば、そんな体を持つサキさんと暮らしている君は怖くないのかって。普通のフレンズならセルリアンに食べられてしまうだろうって思って、怖いんじゃないのかな。」
リカオンの突っ込んだ質問にヒイラギはちょっと言葉を詰まらせた。そしてまた俯くとすこし微笑んだ顔になって答えた。
「」
そういうとヒイラギは自分の鼻の下あたりを指さしてリカオンに見せた。
「僕の鼻と上唇のあいだ、何か痕があるでしょ?」
そういわれてリカオンはヒイラギが指さす場所に目を凝らした。確かにそこには傷跡のような線が斜めに走っていた。そのせいなのかよく見るとヒイラギの唇の形は少し引きつっていた。
「これは、何かの傷跡、かな。」
ヒイラギはコクリと頷いた。
「そう。僕はフレンズ化する前、動物として生まれたばかりの時にサキさんに助けられたんだよ。サキさんが僕をこうやっておしゃべりできて、ご飯が食べれる体にしてくれたんだ。僕、生まれつき唇と口の中が裂けていたみたい。サキさん曰く「コウシンコウガイレツ」っていうらしいんだけど、そのせいでご飯が食べられなくて弱っていたんだ。この傷跡はその手術痕。」
そう言ってヒイラギは、痩せこけて行き場なく彷徨っていたかつての苦難を思い出したのか、ちょっと哀しそうな表情になった。生まれながらに背負う、先天性の障害の本当の辛さは結局のところ同じ境遇の者同士でしか分かり合えないのだ。だからリカオンは何も言えなかった。安直な慰めの言葉はかえってヒイラギを傷つけてしまいそうだったから。
するとヒイラギは目をつむり、哀し気な表情に、少し穏やかな色をにじませた。
「でも、こんなずぶ濡れのやせっぽちな子犬を拾ってくれたのは、口の裂け目を縫い合わせて治してくれたのは、僕に食べ物を食べる喜びと言葉を発する楽しさを与えてくれたのは、なにより僕にこの名前を付けてくれたのは、全部サキさんなんだよ。」
リカオンは目の前で恍惚な表情に変わっていくヒイラギを息をのんで見守っていた。そして感動が口をついて出てきた。
「ヒイラギにとって、サキさんは恩人だったんだね。」
リカオンの言葉で今まで下を向いていたヒイラギは顔を上げて微笑んだ。
「うん。僕はその後にフレンズ化してサキさんの体のことを知った。見せてもらったセルリアンの手足は僕とは違って青いガラスみたいだったよ。けど、その体に宿っている魂は僕らを食べるセルリアンなんかじゃない。フレンズの命を大切に想う心と、フレンズを助ける技術を勉強し続ける、紛れもない立派なお医者さんの魂なんだ。僕はサキさんの背中を見てそう感じた。だからサキさんについて行くことにしたんだよ。いつもたった一人だったサキさんを僕が傍で支えるんだ、そう思ったんだ。」
ヒイラギは照れ臭そうにえへへと笑った。
「ふふっ、なんだぁ。尊敬する人を支えたいって、ヒイラギちゃんにとってのサキさんは私にとっての先輩じゃないか。」
気づけばリカオンはさっきまでの怖い顔が嘘のような優しい顔になっていた。それを聞いてヒイラギは袖で涙をぎゅっと拭くと、リカオンに向かって笑いながら恥ずかしそうに目を細めた。
「そうなんだ。でも、そうなるには僕はまだまだ知らなきゃいけないことが多いんだ。まだアルファベットとひらがなカタカナ覚えたばかりだし、薬の知識も、検査する機械の使い方も覚えないといけない。サキさんを助けられるようになるにはまだまだ頑張らないと!」
「あはは、それも私と同じだよ。まだ怒られてばかりだからね。お互い先輩の背中は遠いねぇ。」
リカオンも恥ずかしそうに笑いながら、またヒイラギの頭をわしゃわしゃと撫でた。気持ちよさそうな表情になりながらヒイラギはリカオンにニッと笑って見せた。
「僕がお姉ちゃんより先に追いついてみせるよ!負けないよ!」
今度はヒイラギも負けじとリカオンの髪をくしゃくしゃと撫ではじめた。
「おっ? 競争なら私は負けないぞ。望むところだ!」
そしてお互い掻き合ってボサボサになった頭を見て腹を抱えて笑いあった。
二人の明るい声がこだまする踊り場の窓からはうっすらと朝の光が注ぎ始めていた。
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