カルテ2-5 生き方は変えられない

「・・・んぱ・・・せん・・ぱい?」

ゆっくりと目をけると白い天井と窓から差し込む日の光が目に入った。目を細めながら眼前に入り込んだぼやけた影をじっと見た。

「先輩! サキさん、先輩が目を覚ましましたよ!」

全身麻酔から目を覚ましたヒグマは病室のベッドに寝かされていることを察した。

「ヒグマさん、気分はいかがですか? 気持ち悪いとかそういうことはありませんか。」

「まあ少しはね。まだ頭がぼおっとしているんだ。」

ヒグマは寝起きのような気だるさを感じていた。

「それで、サキさん。処置はどうだったのかい?」

ヒグマはゆっくりとした口調でサキに尋ねた。サキもそれに合わせて穏やかに答えた。

「手術は成功しました。上手くいけば2週間くらいで退院できますよ。」

ヒグマはそれを聞いて安心したように深く息を吐くと、今度はリカオンの方を向いた。

「せ、先輩・・・よかったですね・・・」

そう言うリカオンの目はうるんでいた。リカオンの泣きそうな顔をみてヒグマは軽く噴き出した。

「だからさあ、なんでお前が泣いてんだよ。情けない顔してさ。お前がサキさんを信じて私を預けたからこそ、今こうしてお前にしゃべることができているんだ。お前は少しは誇らしそうな顔したっていいんだぞ。」

「そうですか?それなら・・・」

「・・・やっぱり気持ち悪いからその顔やめろ。笑いそうで傷口が開きそうだ。」

リカオンの似合わないどや顔をみてヒグマはクックッと笑って肩を上下させた。サキもヒイラギもそれにつられて笑った。

サキは処置をすると言ってヒイラギとリカオンを退室させた後、ヒグマのベッドサイドにあった椅子に腰かけた。そしてぼんやりと病棟の天井を眺めているヒグマの顔を見つめ穏やかな顔で言った。

「後輩さんの手を煩わせることなく手術ができました。」

「そうか。」

ヒグマはサキから目を背けたまま顔色一つ変えず相槌を打った。

「傷自体は予想よりも良かったんですが、やはり放っておいたらまずい状態ではありました。」

「ふうん。」

「・・・・・・」

「どうした?」

ヒグマは相槌のときと同じ調子で聞き返した。

「私は自分の今できる精いっぱいのことをしました・・・それでも、やっぱり私はまだ信用してもらえていないんですね。」

サキは苦笑気味に顔をひきつらせた。なんとなくそんな気はしていたのでそこまで驚かなかった。しかし、ここまでやってもダメなのかとサキは少し残念だった。肩を落とすサキの気持ちをヒグマは背中で感じ取っていたようで、ゆっくりと振り返って目をサキに向けた。そしてキリキリとした肋骨の痛みにちょっと顔を歪ませながらもニッと笑いかえした。

「先生よ、私はまだ完全には治っていないんだろう。もう2週間はかかるってさっきあんたが言ったじゃないか。先生は私を治すのが仕事であり使命なんだろう。だったら私が退院するまで信用も何も判断できないさ。この後容態が急変するかもしれないだろう。だから最後までしっかり診てくれよ。先生。」

初めての手術を終え安堵感に浸り少々舞い上がっていたサキは正論を突かれて言葉を失った。

ヒグマさんの言う通りだ、手術が済んだからって治療が終わるわけじゃない。私は何を思い上がっているんだ、とサキはさっきまでの自分の言動を反省した。

しかしその後で、やっぱりこの人の軸はぶれないなあとサキは内心苦笑いした。セルリアンとの闘いで日々命を張っているがゆえに、揺らがない自己というものがヒグマさんの中で根をはり育ったのだろう。それがあるからこそ、どんな時も自分に嘘はつかず、信じる正義を貫いてこれたのだろう。リカオンの説得に応じたのだって、最終的には自分の正義と照らし合わせたうえでのことだったはずだ。

アイデンティティの確立どころか、自分のルーツさえもわからない。未だに医者をやっていて良いのかなんてフラフラと悩む私とは、正反対の人だ。

窓の外を眺めながらそんなことを思いふけっていたサキの頭の中で、不意にヒグマが言った一つの言葉が引っ掛かった。

先生?

私のことなのだろうか。その”センセイ”というものは。

どういう意味なんだろう…

「ヒグマさん、さっき私のことを先生って言ってましたけど、それはどういう意味なんですか?」

サキは何の気なしに尋ねるかのように軽くヒグマに聞いてみた。するとヒグマは意外という顔をして目を丸くしポカンとした。そしてすぐに笑いがこみ上げてきたようで口を手で押さえて噴き出した。

「へえ。サキさん自分が医者なのに知らないのかよ。医者のことを敬意をこめて先生っていうことがあるんだよ。だからあんたはサキ先生ってわけ。自分のことなんだから覚えとけよー。クックックッ…」

笑いながらもヒグマはあー胸痛いとぼやいて胸をさすった。サキは自分の無知を笑われて恥ずかしく思い耳を赤らめた。

「知らなかったわ。ヒグマさんはどうしてそのことを知っていたんですか。博士たちも私のことを先生とは一度も呼んでいなかったんですよ。」

サキは恥ずかしさをこらえ、愛想笑いしながら再びヒグマに問いかけた。すると今度はヒグマがちょっと顔を赤らめて頭を掻いた。そしてさっきのサキと同じように恥ずかしそうな顔をして答えた。

「ああ、あのちびっこ博士はまだ年齢が低いから知らないだろうね。そうだな、これは恥ずかしいからリカオンには黙っておいてくれ。私も一人前のハンターになる前は見習いだった。まだ見習いのくせに大きなセルリアンに勝手に戦いを吹っかけて、何とか命は助かったが足にけがをしてしまったんだ。その時私の先輩が足の骨が折れていた私を担いでここの病院に連れてきてくれたのさ。その時私を手当てしてくれた医者を先輩が「先生」って呼んでいたんだ。私もそれに倣って医者のことを先生って呼んだよ。」

「それで知っていたんですか。」

「ああ。医者を先生と呼ぶことを知っているのは、実際に医者がここにいたころに病気になって病院に来たことがある高齢のフレンズか、私みたいにフレンズ歴が長いヤツから教えてもらったヤツだけだと思うよ。」


ヒグマはこの病院がやっていた頃にここに来ていたのか。だから麻酔のことも知っていたのかとサキは想像した。

今の私のように、昔ここで医者をやっていた人がいたんだ。

どんな先生だったんだろう。

サキはヒグマを手当てしたというその医者のことが気になった。なんとなく、その医者が自分の先輩のように感じられ、少し親近感がわいた。サキは我慢しきれずヒグマにきいた。

「ヒグマさん、その時あなたを治療した先生はどんな人だったんですか?」

ヒグマはうーんと首をひねり何とか思い出そうとしていた。しばらくしてヒグマは首を振った。

「やっぱりそんなに覚えてないや。十年くらいは前だからな。たしかユウ先生って呼ばれてたかな。優しい先生だったよ。痛い注射とか消毒で大泣きしていた私に優しく声をかけてくれたり、私が先輩に病室で怒られてぶん殴られそうになっているところを止めてくれてたりとかな。ほかにも何人かの医者は見たけど、ユウ先生が一番よかったな。」

「覚えているじゃないですか。」

「いや、このくらいだよ。でもあの先生に治してもらえたから今私はハンターとして生きていて、頼りになる同僚もかわいい後輩も持つことができた。ユウ先生には今でも本当に感謝しているよ。」

ヒグマは恥ずかしそうに顔を赤らめ頬をかいていた。

サキは普段は見せない脱力した表情をしているヒグマを見つめながら、いつか自分も”ユウ先生”のように、命を救うことで誰かの人生を変え、感謝される日が来るのかなと淡い考えを抱き、病棟の外の向こうに見える雪を少しかぶった山々を眺めていた。


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