カルテ2-4 生き方は変えられない

止血、洗浄、穿刺、輸血、麻酔、その他不測の事態が起きた時の対応など救急の治療はタスクが非常に多い。医師はそれらの処置およびリスクをすべて予想し、準備し、順序だててそれらをこなしていく必要がある。この場合最も優先される治療は胸郭に流れ出ている血を取り出すことだとサキは考え、すぐに胸腔穿刺用の針を用意し、肋骨の少し上に狙いを定め、プツリとヒグマの左胸郭に突き刺した。すぐに胸郭の中にたまっていた赤黒い血液が針の穴から流れてきた。サキは針にドレナージ用の容器を接続し、テープで針を固定した。そしてヒイラギに手術室の準備を指示し、その間にヒグマの左胸を横切っている裂傷の消毒をした。消毒液が染みるのかヒグマは何度かウっと声を上げていたが何とか我慢をしてくれたように見えた。そうしているとヒイラギから手術室の準備が整ったと連絡を受け、サキは自らヒグマの乗ったストレッチャーを押して手術室に向かった。リカオンもちょっと不安そうな顔をしてサキの後ろについてきた。

「・・・先輩をどこに連れて行くんですか?」

手術室に向かう途中の薄暗い廊下でリカオンは静かに尋ねた。サキはストレッチャーを押しながら振り返ると、リカオンと同じように静謐に答えた。

「手術室という、治療を行うための部屋でヒグマさんの本格的な治療をします。そこへヒグマさんを運び入れるんです。」

「そこに・・・私は入れるんですよね?」

リカオンは少し声にドスを効かせて低い声でさらに訊いた。サキはちょっと驚いて立ち止まり、リカオンの顔をじっと見たがすぐにその顔はサキへの不信感を表すものではないことが見て取れた。きっとヒグマの言いつけを誠実に守りたいから出た真剣な言葉なのだろう。そう思ったサキはリカオンに向かって微笑んだ。

「もちろんです。ただし、手術室に入る人は必ずやらなければいけないことがあります。私もやりますから、リカオンさんもそれには従ってください。」

「そうですか。」

リカオンも穏やかな表情になって頷いた。


手術室は病院の地下一階、診察室の階下にあった。運搬用のエレベーターへストレッチャーを載せ、サキたちは地下一階へ降りた。ジャパリパークの他の場所ではまず見られない光景にリカオンはあっけにとられていた。サキは手術室の前の流しでしっかりと腕を消毒し、緑色の手術着を着て、キャップを被った。リカオンもサキのすることを見よう見まねで行い手術着とキャップを身に着けた。準備が整うとサキは手術室前のペダルを踏んだ。すると目の前の重たい金属の扉をゆっくりと開き、妙にヒヤッとした空気が張りつめる青白い手術室が無影灯に照らされぼんやりと浮かび上がった。部屋の中央には手術代がまるで神聖な儀式を行うための台のように冷たく白い光を放っていた。

ヒグマが手術室に入るとすぐに麻酔の導入が行われた。サキは全身麻酔用のマスクをヒグマの口を覆うようにあてがい、ヒグマの顔とモニターを交互に見ながら慎重にガスを出していった。するとさっきまでまっすぐにサキを見据えていたヒグマの目元が次第に緩んでいき、目から光が消えると同時に目を閉じた。

手術中のバイタルサインのチェックをヒイラギに任せ、サキは手術用のグローブとマスクをしっかりと装着し手術台の前に立った。

「な、なんの場所ですか。ここは・・・」

手術室の端に座ったリカオンは自分の居る場所がなんなのか全く理解できなかった。しかしそれは普通の反応であった。普通のフレンズはまず機械を扱うことはない。ましてや医療機器など存在さえ知らないのだ。おそらく博士や助手ですらこれらの機械、器具は扱えないだろう。そのような複雑で精密な、わけのわからない機械が数多く置かれ、モニターや機器の光がチカチカと瞬くこの部屋にいきなり連れ込まれたリカオンからしたら、まるで突然異世界に迷い込んだかのような気分であったに違いない。

「リカオンさん、大丈夫です。これからヒグマさんの胸の中をキレイにします。あと、切り傷も縫ってふさぎます。ここはそういうことを行うための部屋なんです。」

サキはそれだけ言うと、いまだ落ち着きを取り戻せないリカオンに背を向け、またオペ台の方に向き直ると一度深呼吸した。


心拍、呼吸、バイタルサイン、今ヒグマさんの生命を私は一手に

引き受けている。生かすも殺すも私次第・・・

サキは身震いした。覚悟は決めていてもオペ台の前では緊張してしまうのだ。

サキは目をつむりもう一度深く息をした。

ゆっくりと目を開くと横たわったヒグマの体、かけられた手術用のブルーシート、モニター、胸腔鏡、手術器具、そしてヒイラギの姿が順々に飛び込んできた。そしてぎゅっと手を握りこめ、もう一度確かめる。

この青い透き通った、私の両腕、フレンズを喰らう腕、でも今は――――


フレンズを救う腕――――


ゆっくりと両腕を胸の前へ引き上げ手のひらを内側に向けた。サキは厳かに言った。

「・・・それでは胸腔鏡による肋骨骨折に伴う肺挫傷の整復を始めます。まずはポート設営の後、出血点の肋間動静脈を確認し止血。肺挫傷の程度を確認します。そののち肋骨を整復し、場合によっては器具による肋骨の固定も行います。ドレナージは持続。血管の損傷によっては大きな血圧変動の可能性もあります。A型Rh+の輸血の用意は怠らないように。それでは始めます。」

ヒイラギは小さく頷いた。サキはメスを手に取り、左第5肋骨に沿い、腋窩に第一刀を入れた。その瞬間手術開始のブザーが鳴り、手術室の空気が鉄の弦のように冷たく張りつめた緊張感に支配された。その空気に思わずリカオンは固唾をのんだ。


「止血、結紮終了。内胸動脈からの出血は見られないし思ったより肺の損傷は小さい。ラッキーだったね。バイタルはどう?」

「安定してます。出血量も予定範囲内で問題ありません。」

開始から1時間ほど経った。サキはてきぱきと処置を続けていた。

「先輩起きないし・・・サキさんはよくわからない道具で先輩の体を弄っているみたいだし・・・一体何をしているんですか。」

リカオンはサキが行っていることがあまりにも荒唐無稽に見えてずっと混乱していたが、サキを邪魔してはいけないと思って黙っていた。しかしとうとう我慢できなくなって声を上げた。手を離せないサキは控えていたヒイラギに目配せをした。ヒイラギは頷いてリカオンの前に行き、にっこりと笑った。

「大丈夫ですよ。ヒグマさんの胸は思ったより状態が良かったです。今は麻酔っていう感覚を麻痺させる薬を使っているので意識はないですけど、手術が終わったら目覚めますよ。」

「感覚を麻痺って、そんなことして先輩は大丈夫なの?」

「もちろんちゃんと管理しないと危ないですけど、でも麻酔無しの手術はもっと危険ですよ。あれがあるから安全に手術ができるんです。」

「そうなんだ。それで、サキさんの手元では一体何が起こっているの?」

「あの機械は胸腔鏡っていうらしいんですけど、僕もよくわかんないです。あそこの画面に作業している場所が映っているみたいなんですけど、あれが何なのかは僕にもさっぱり・・・ あ、取り出されたみたい。」

「リカオンさん、ヒグマさんはやっぱり体が頑丈でしたね。肺も肋骨も比較的軽傷でしたよ。やっぱり血管からの出血が災いしていたんです。それも止血して、胸腔内の凝固血も除去したのでもう大丈夫です。あとは切り傷と胸腔鏡のポートに使った穴をふさいで縫合すれば終わりますよ。」

サキは体壁に開けられた小さな孔から胸腔鏡のカメラを抜去し微笑んだ。

「それじゃ、先輩は助かったんですね? そうですよね、サキさん?」

リカオンは思わず椅子から立ち上がりサキに駆け寄った。その弾んだ声を受け取ったサキもまた今までの緊張が解け、明るく笑って元気よく言葉を贈り返した。

「はい! 先輩は助かります!」

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