カルテ2-3 生き方は変えられない

予測さえしなかった事態に驚き怯え霞むサキの視界の中央に、ヒグマは意識が飛びそうな呼吸苦に耐えながらも思い切り睨みつけているのが見えた。幾度となく死地を潜り抜けてきた狩人の鋭い眼光に竦みきったサキは立ち上がることができなかった。衝撃音を聞きつけてヒイラギが検査室から駆けつけた。部屋の様子に困惑して右往左往していたが、部屋の端で座り込んでいるサキを目にとめると一目散に駆け寄った。

「サ、サキさん! 何があったんですか!」

ヒイラギもサキの怯えた顔と背後からくるヒグマの強い視線に気づき、何があったのかを悟った。そして迫ってくる鋭い視線に負けじとせいいっぱい睨み返した。

「ヒグマさん! いったいサキさんに何したんですか! サキさんはあなたを治してあげようとしているんですよ!」

ヒイラギは未だ無言で睨みつけるヒグマに向かってキャンキャンと吠えたてた。それに乗じてリカオンもヒグマの突拍子もない行動に対して驚きの声を上げた。

「先輩! いくら何でも先輩を助けようとしているフレンズに攻撃を加えるのは違うんじゃないですか。」

サキは頭が真っ白になっていて何も言えなかった。ヒイラギとリカオンの声も聞こええず茫然とへたり込んでいた。


ただ私は患者を助けようとした。それだけなのに、振り払われた。どうして?


ヒグマの不可解な対応を考えれば考えるほど疑問符が脳内に湧き踊り、混乱しサキは益々何も思い浮かばなくなっていった。


「甘い・・・ だからお前はまだまだ見習いなんだよ。リカオン。」

ピシャリと水を打つような突然の音声に3人は一斉に声のした方を振り返った。胸に傷を負い、胸郭が血に沈みつつある者とは思えないはっきりとした声でそう言い放ったヒグマは険しい目つきのまま続けた。

「リカオン、お前はこの医者がセルリアンの体を持っていると知っているだろう。なぜこいつが隙をついて私を襲うという可能性を疑わない?」

「で、でもサキさんは先輩を治そうとして検査までしてくれているんですよ。それは先輩を助けようという意思があるってことじゃないですか。」

リカオンの言葉にヒグマは静かに首を振った。

「お前がセルリアンハンターを目指すと言って私のところに来た時、私はこういったはずだ。冷徹になれと。この医者が私のことを治そうと思っていたとしても、その良心すら疑い用心する必要があるんだ。例えば麻酔でもかけた後に何かされようものなら私は全く気付かずに食われてしまうんだからな。それがセルリアンハンターとしての心構えだ。」

先輩の考えの前にはリカオンも黙るしかなかった。ヒイラギは悔しそうな顔をしてヒグマを睨みつけていたが、我慢できなくなって声を張り上げた。

「そんな! サキさんはそんなことをするフレンズじゃないです! 僕の時だって・・・」

左手を伸ばし、ヒイラギの発言をサキは黙って遮った。大分背中の痛みが引いて呼吸が落ち着き、ようやくヒグマ自身の言葉が聞けた今のサキには何となくヒグマの心が見えた気がした。

「やっぱり・・・ 信用されてないんですね。私・・・ この腕を持っているから。至極、当たり前ですけどね。」

サキは柔らかに語り掛けるようにヒグマに言った。ヒグマも胸から押し出すように軽く息をついて初めてサキの言葉に答えた。

「その通りだ。どれほどお前が私を治すと言ったところで他人の心の底は分からないんだからな。私はセルリアンの疑いのあるやつを軽々しく信じた仲間が騙され喰われていくのをこれまで何回も見てきたから。私はそれを教訓とし、同じ轍は踏まないと心に決め、そうして冷徹に判断して生きてきたんだ。」

ヒグマはそう言い切った。その病人の眼はまっすぐにサキを捉え、自分の生き方を曲げようとは微塵も思っていない、そんな様に見えた。それでもサキは何とかヒグマを説得しようと医師としての自分の考えを必死になって返した。

「たしかに私の腕はセルリアンですからヒグマさんの不信感もわかります。でも、私はたとえあなたに信用されていなくても目の前でフレンズが死ぬのは見たくないんです。」

「それはあくまで医者であるお前の都合じゃないか。お前は信用ならないヤツに自分の命を預けたいか? 私はそうは思わない。」

「そうですか・・・ 手当をしなければおそらくヒグマさん、あなたは亡くなります。あなたを救えるのは私だけです。それでもですか。」

あまりにあっさりと否定するヒグマに対し、サキはこれが最後だと思って食い下がった。しかしヒグマは押し寄せる痛みに顔を引き吊らせながらも少しニッと笑って横に首を振った。

「悪いな。さっき荒っぽいことをしてしまったのはすまないと思っている。けど、これはお前のせいじゃない。私の信条がそうさせるんだ。私はずっとこういう生き方を貫いてきたしそれが正しいと命の淵に立つ今でさえそう思っている。セルリアンのお前に触れられ為すすべなく喰われるリスクをとるくらいなら、今ここで何もせずくたばった方が私らしい死にざまだと思うんだ。セルリアンに無様に喰われましたって最期よりは、セルリアンと刺し違えて死んだっていう方が喰われていった仲間たちに胸を張れると思えるんだ。何百ものセルリアンを葬ってきたハンターの最期として相応しい。」

その淡々としたヒグマの口調からこれまでヒグマが考えてきたこと、信じてきたことの一部がサキには感じ取れた。今までもわたしのようなやつに友達が襲われてきたんだろう。その悲しみを乗り越えるため、一人戦い続けるために冷徹になれと自分に言い聞かせ続けてきたのだろう。

そうか、この人は自分らしく死にたいのか。

気高い思想を持った手負いの戦士を前に、手を尽くせず残念という心残りと、どこか清々しい気持ちをサキは感じていた。医師には治療を必要とする患者を治療する義務がある。しかし生物には命の使い方を選ぶ権利、つまり生きる権利、それと死ぬ権利が認められる。だから治療を拒否し死を選択する患者がいてもおかしくないし、それを無理やり止めることは、あくまで他人である医師にはできないのだ。けれどそれは必要な治療を諦め患者を見殺しにするという医者側の一応の敗北宣言とも見えてしまう。たとえどれほど治療をしてあげたくてもできない、そのもどかしさが爽やかな諦めにひたりつつあったサキを泥沼の現実に引き戻した。

私はこれから何人、こういう患者を診ていかねばならないのか。

こんな不信感と畏怖の塊みたいな体をもって、本当に医者としてやっていけるのだろうか。

サキはまた自分の体についた青い両手を睨んだ。この体でいる以上臨床医の大梁である患者との信頼関係を構築することは難しいのではないか。そうなれば患者は全員が助手のように物分かりが良いわけでもないから、ヒグマのように私の治療を拒否する者も出てくるだろう。むしろ私が医者として関わることが他人に死を選ばせることになってしまうのではないだろうか。


私が医者であることが、誰かを傷つけてしまうのかな。死を選ばせてしまうのかな


気が付くとサキはヒグマから目を背け天井を見上げていた。蛍光灯のついた無機質な平面がサキを余計に虚しくさせ、気がつけば一対の筋が下瞼、耳の下から顎へと垂れていた。その様子を隣で見ていたヒイラギはサキの腕を優しく包んでぴったりとくっつき俯いてしまった。サキはそっとヒイラギの背中に手をまわして抱え返した。

「こんな私が医者なんて仕事をし続けて・・・これで本当にいいの・・・?」

助手の一件を乗り越えたところで、結局私は何も変わっていなかったんだなとサキは乾いた笑いを浮かべた。ただ何となくいい気になって、一端の医者であるような錯覚の夢の中に居ただけだった。けれど運命は私を許してはくれない、嫌でも青い腕の現実に引き戻されてしまう。非情だ。乾ききった諦念を抱きながらサキは目をつぶった。



「私は、そんなの嫌です・・・」


枝からポチャンと垂れた雨粒が水たまりに落ち、一つの水紋を描いた。その突然の小さな呟きは静まった診察室に同心円を浮かび上がらせた。

その声の主はリカオンだった。

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