五章 愛

「私の勝ちね!」

「なろー。覚えてろよ!」

「ふふん♪」


――幼き日の記憶。


「あ、理真ちゃんだ!」

「理真ちゃん!」

 たけるとの戦闘に勝利して気持ちよく教室へ戻った理真を、すぐに数人の女子が囲った。

 理真を囲む女子は皆笑顔だった。しかし、その内の一人が何かに気付き、表情を変える。

「あれ、理真ちゃん。顔に傷ついてる」

「あ、ほんとだ。何したの?」

 心配して声をかけてくる女子たちに理真は胸を張って高らかに語った。

「何でもないわ。勝利の勲章よ!」

 誇らしげに語る理真を見て、女子たちは再び笑顔になった。

「ぼ、ぼくさっき見たよ!」

 一人の男子が緊張した様子で声を上げた。

「健くんと喧嘩してた」

 さっきの戦いを見ていたのだろう。気の小さい子で、健より立場が弱かったが、一生懸命に言った。

 理真は勝利の勲章などと誇らしげに語ったけど、喧嘩という言葉で纏められると、子どもっぽくて恥ずかしくなった。

「これ、健くんがやったの?」

「サイテー」

「女の子の顔に傷つけるとか、ヒッドーい!」

 女子が口々に言う。流れが思っているのと変わってきて、理真は少し戸惑った。

「は? なんだよ! 俺がわりぃってーのか!?」

 口々に罵られて、健が反論した。

「そうよ!」

「当たり前でしょ!」

 理由を聞くこともなく、女子は健を非難し続けた。

「俺もないと思う」

「ひでーよな」

 男子も口を挟みだした。

「え、ちょっと、みんな?」

 理真は勝手に生まれていく大きな流れに狼狽する。皆を止めるため、声を上げようとした。その時、

「あ、先生!」

「あ、おい!」

 先生が教室に入ってきて、女子の一人が告発しようとした。分の悪さを感じていた健はその女子を止めようと慌てた。

「何? どうしたの?」

 健の声に怯んでいた女子が、先生に問われたことで喋り出す。

「健くんが、理真ちゃんを怪我させたの!」

「理真ちゃんのほっぺがね、傷ついてるの!」

 他の女子も続いて言った。

「え、ほんと? 理真さん、見せて?」

 先生はそう言うと、理真に近づいた。

「あ、あの先生。全然、たいしたことないから」

 屈んで頬を撫でる先生に、理真は教室の偏った雰囲気を落ち着かせようと言葉を紡ぐ。

「ほんと、傷ついてるわね。健君! 放課後職員室に来なさい」

「は、ハァー!?」

 理真の思い通りにはならなかった。

 健が一人、悪者になる理不尽さに声を上げる。

「『ハァー』じゃありません! 返事は?」

「…………はい」

 健は不承不承頷いた。



「あれ、健くんは?」

 翌日。朝は来ていた健の姿が、午後の授業の直前になってもまだ教室にいなかった。

「健? 知らない」

「いいじゃん。あんな奴」

 話しかけた近くの席の女子に聞いても理真との話を楽しそうにするばかりで、中身にまるで関心を示さなかった。

 ちょっと、心配になる。

「あいつちょーし乗ってるからしばいて来たぜ?」

 一人の男子が得意げに言った。

「まあ、女子の顔に傷付けるよーな奴だしな」

 仲間だろうか、もう一人の男子が乗っかって言う。

 それに、女子が笑った。

「えー、男子。理真ちゃんの点数上げようとしてるー?」

「ばっ、バーカ。そんなんじゃねーよ!」

 からかう女子に男子は狼狽えて答えた。

「汚い言葉遣うと点数下がっちゃうよー?」

「あ、なろ……!」

 じゃれあう二人を見て笑っていた隣の席の子が、理真に言う。

「ははは、でも、いい気味。ね、理真ちゃん」

 彼女は楽しげに笑顔を向けた。

 

「――――頼んでない……」


「――え?」


「 頼んでないよ! そんなこと!! 」


「あ、理真ちゃん!」

 クラスメイトの慌てた声を振り切って、理真は教室から飛び出した。

 人が落ち込んで、隠れそうなところを探す。

「健くん!」

 体育倉庫に、その姿を見つけた。

「健くん。大丈夫?」

 背を向けて座っている健に駆け寄り、理真はその小さな肩に手を掛けた。

「え、……あ、な、なに?」

 健は腫れあがった顔で振り返った。目線は合わなくて、キョロキョロした。一瞬目が合うと、下の方にずらして、壊れた機械のように振った。その変わり様に、理真は凍りついた。

 いつの間にか、知美と灯の姿があった。気付けば健はいなくなって、知美と灯にすり替わっていた。

「あ、れ? 知美さん……灯さん?」

 知美と灯は健の表情を引き継いで立っていた。取り繕うような笑顔と下に向けられた視線が気持ち悪い空気を作っていた。

「理真」

「玉世?」

 理真の後ろに玉世が現れた。いつも通りの微笑みを浮かべていた。

「ご、ごめんね。理真。彼氏さんダメって言うし、私、一緒にいられないや」

 申し訳なさそうに知美が笑った。

「私も。ごめん。理真の彼氏がダメっていうなら、やっぱりダメだと思う」

 灯も申し訳なさそうに微笑む。

「ね? 理真。友達もああ言ってる。あの人たちとは縁を切ろう?」

 玉世だけ、優しく囁いた。

「や、……やだ、待って、知美さん。灯さん!」

 手を伸ばす。蜃気楼のように、その姿は遠くなった。

「絶対友達だって……! い、いやだ。やだ、行かないで!」

 どんどん遠ざかる二人の背中に手を伸ばして――



 目が覚めると、部屋はまだ暗かった。

 重い腕を上げて携帯を取る。時刻を確認すると、まだ四時だった。

 ベッドから上半身を起こして布団を剥ぐ。

 理真は頭を押さえて深く呼吸をした。覚えていないけれど、すごく、嫌な夢を見ていた気がする。

 何はともあれ、行動を開始する。予定より少し早く起きたが、早くて困ることはない。

 顔を洗って、制服とダッフルコートを着る。自室のベッドの上に昨夜書いておいた書き置きを上げて、携帯の電源を落として家を出た。

 未だ星の光る静かな朝。理真は駅へ向かって歩いた。


 ***


 玉世の帰った後、理真たち三人は互いの無事を確認して別れた。知美は清嗣の元へ、灯は水の覚者の元へ行くと言った。理真は携帯で電車の運行状況を調べ、動いていないことを確認すると、恵にメールで迎えに来てほしいと連絡した。恵から今から向かう旨の返信が来て、渋滞の少なさそうな場所で落ち合うことにした。

 理真が指定の場所で待っていると、父からメールがきた。理真の安否を心配するメールだった。父も無傷で済んだようだった。理真は胸を撫で下ろし、無事であることを返信した。

 その数十分後に、恵が車で迎えに来た。恵は飛び降りるなり理真を抱きしめた。腕できつく締められて、すぐに離れると恵は理真の顔を撫でた。

「大丈夫? 怪我はない?」

 そういう恵の方が大丈夫そうではなかった。涙を溜めながら、理真の頬を撫でる掌は熱かった。

「大丈夫だよ」

 理真が答えると、恵はもう一度軽く抱きしめ、車に戻った。

 帰り道でラジオを聞き、理真は現状を把握した。

 午後二時頃、宙を自在に飛び回る仮面を付けた人々が現れて街を破壊し、人を殺し回ったこと。犯行は十人以上で行われたこと。犯人は誰一人捕まっていないこと。同じような能力者と戦闘をしていたとの目撃情報があること。午後四時頃、彼らは一斉に姿を眩ませたこと。死傷者は明確には分からないが相当数いること。被害は街全域に渡ること。

「仮面の人たちには会った?」

 恵は落ち着いたトーンで理真に話しかけた。理真本人への心配から、理真の精神面への心配に移行していた。理真の様子から、何かあったことは悟ったのだろう。

「会ったよ」

「……そう。話したいことがあれば、なんでも聞くわよ」

「うん。大丈夫。友達も無事だったし」

「そう、良かったわね」

「うん」

 その後は静かにして、またラジオに耳を傾けた。

 夜になって、明日は休校だと連絡があった。

 当然だろう。しかし、恵は安心した様子を見せた。

 でも、理真は明日、学校へ行く気でいる。また、心配をさせてしまうだろうか。

 するだろうな。と、理真は濁さず、罪を受け入れた。


 ***


 正義とは何か。それは社会にとって都合がいいものだと、理真は考える。

 世界には恵まれない子どもたちがたくさんいる。日本では募金という形で、その人たちを助けることができる。明日の命を繋ぐ栄養治療食やワクチンを与えられる。しかし、先進国に住んでいるような、明日を生きることに十分な人達が、一体どれほどの募金をするだろうか。きっと自分の生活を豊かにするための金額より少ないだろう。

 そこで考えてみる。人の命が平等であるとして、例えばある人が募金をして、貧しい人の命を十人分救うことができたなら、その人は、任意の相手を十人殺す資格があるのではないだろうか。人の命を救わず、嗜好品を買い漁る人々は、人を殺す嗜好を持って、十人殺してはいるが代わりに十人の命を救った人を悪だと言うことができるだろうか。

 結論から言えば、できるだろう。人は人が死ぬことを許さないのではなく人を殺すことを許さないからだ。大事なのは結果の総量ではなく、過程だから。人は意志を持って人を殺す人を悪とする。逆に、人は自分の周りを大切にできる人を善とする。たとえ、誰の命も救わなくても。

 それは、人間が社会を築いて生きていく生き物だからに他ならない。善悪というものは、社会性と共に成立する。社会的な都合の良し悪しが善悪を決める。

 協調を阻害する要素が悪であり、協調を強めるものが善である。社会に害成すものが悪であり、社会に益成すものが善である。そもそも人はなぜ社会を築くのかといえば、それは人が協調することを生きていくための力として発展してきたからだ。個人に焦点を当てて見てみれば、社会を築く行為は、本能的に力を求めているだけである。

 善悪というのは宇宙のような巨視的視点から見た絶対的なものではない。自分たちの生存のために生み出した、言わば我欲の集合体である。そして、社会を築くことが力を求める行為であるというのなら、人の社会行動の基準となる正義は、善でありにあてがわれることもある。



 理真は所属するあらゆる社会にとって都合のいい人間だった。

 誰よりも強く、誰よりも美しい。

 人々は理真という優れた人間を守ることで自分の人間的価値が上がるように感じられた。理真という素晴らしい人間と繋がりを持っていることが自分の誇りとなった。それは例えば、母校の運動部が勝ってくれると嬉しくなるような、自国の選手がオリンピックでメダルを取ると嬉しいような、そういう感覚と類するものだ。

しかし、理真は自分を通してその感覚をもたれることが嫌だった。理真を害する者が現れた時、理真を担ぎ上げる人たちは彼らを敵とみなすから。

 理真を正義に据えた活動が、理真の意志を離れて行われる。そこで問題なのは、スポーツと違い、ルールが無いことだった。何が正しくて何が正しくないか、公正な立場で審判をする人がいない。結果、気持ちが負けるまで、担ぎ上げた正義のために矛を収めることをしない。そうなった人々を止めるならば、理真が法律等の、より一般的な正義を侵犯し、悪にならなければならないだろう。そして野放しになった正義は、やがて形を変え、人を傷付けかねなかった。

 それは神への信仰として、人を殺める行為のように。

 それに気付いて、理真は自分の才に寄ってくる人間から距離を置いた。正義になることが嫌だから、そういう人とは関わらないことにした。

 人と関わらない生活を始めてからは毎日が空虚に感じた。勉強をすれば、躓くことがなかった。運動をすれば、劣等感を抱くことがなかった。滞りがなさ過ぎて、まるで与えられた仕事をこなす機械のようだった。

 なぜ、勉強をするのだろう。自分に問うた。出した答えは社会に貢献するための力を身に付けるため。個性を社会的に価値のあるものへ昇華させる下地を作るため。

 苦笑した。力なら既に持っていた。行動の理由を失った。

 生きていることは簡単だった。生物としてはその本質を十分に満たしていた。生きるために欲がある。欲を満たせば充足感を得られ、物理的にも生きることができる。でも、生きることができたとして、欲が満たされるとは限らない。その空虚さを埋めることができるような、理真にとって足りないものは何か。答えはたった一つ。友達だった。

 人は社会性のある動物だ。毛すらまともに生えない軟弱な体ながら、優れた知能とコミュニケーション能力を武器に戦い、地上の覇権を握った。人間にとって他者と繋がることは、自分を生かすための最大の武器なのである。ならば当然、強い欲求として発現することにもなる。生きることに困らない理真にも、その欲求は当然あった。

理真は度々思い返した。クラスの皆の中心に立ち、あらゆる問題を切り開いたことを。そして、皆の笑顔を作り、自らも輝く笑顔を浮かべていたことを。

 友達は喜びを増幅する。人は他人に共感できるから。

 友達は自分を拡張する。相手の中に、自分が入るから。

 記憶中に、あるいは価値観すらも左右して、他人を少し、自分にできる。逆に、他人が少し、自分になる。人と交流した分だけ、自分の色が増える。厚みが増す。そして、自分の才や立場を克明にする。

 きっと、美しく生まれたことに、才ある人間に生まれたことに、今よりずっと、喜びを感じられるようにもなるだろう。理真は友達という存在に幸せを見出し、求めた。

 しかし、無慈悲な才は、理真の想いを阻み続けた。

 誰もが理真を特別にする。もし理真が特定の誰かと関われば、皆が狂いだすだろう。誰もが理真と友達になりたいと思う。そこで特定の相手を友にしてそれ以外を拒んだら、友に選ばれなかった人間は「なぜあいつが?」と選ばれた人間を見るようになる。選ばれた人間は周りの人間の自分への扱いが変わって調子にのる。理真の持つ権力の方に溺れて、理真に媚びへつらう顔を向ける。もし理真が途中でその友を見放せば、最初から選ばれなかった人間に攻撃される。では特定の誰かと言わず、全員と友達になることを選択すればどうなるか。友たちはそのコミュニティー外に敵を作るだろう。理真と友達だと言う強力なカードを自己顕示の材料にする者は多い。加えて、理真の方にも皆の友達になる場合条件が課される。誰も拒まないこと。特別な関係を作らないこと。全員に対して平等であること。それら三つが最低限守られなければ、特定の誰かを友達にした時と同じ状態になる。

 人が理真を特別に思うだけ、誰かを憎む。愛憎は相関する。

 そこで理真は、自分の友達にできる人の条件を定めた。

 理真と対等かそれ以上だと、周りが認める程に能力の高い人。もしくは、鼻持ちならない態度を取る理真を、叱ってくれる人。

 後者の人間なら、友になっても理真の力に溺れることはない。他者と異なる行動を取ったことで、理真もそれ以外の人々に向けて理由を話せる。

 理真はその条件を胸に秘めて、中学から友達を作ろうと決心した。小学生の間は理真が友達とはしゃいでいた姿を皆が見ていたため諦めた。中学は理真を知っている人がいない環境にするために私立の中学校に入った。理真は友達ができることを夢見て、人当たりをすこぶる悪くしたが、結局友達はできなかった。他人任せの手法で自分からどうにもできないというのは歯がゆかった。友達と過ごす妄想ばかりが募って三年が過ぎた。高校生に上がっても、結局それは変わらなかった。

 新しい環境に身を置いても何も変わらない。しかし、幸せはそれを避けては得られない。友達ができる未来を諦めず、期待を毎日磨り潰しながら核だけ大事に守る生活を送った。そんなある時、


 玉世と出会った。


 自分より凄い存在を見たのは初めてだった。そして、理真はこの人と結ばれるのだろうなと、なんとなく思った。

 玉世は理真の思った通り、愛してくれた。

 友達ではなく、先に恋人ができてしまう、奇妙な交友関係を持った。

 恋人ができたことで目に映る景色が変わった。玉世の存在は理真にとって掛け替えのないものとなった。

 しかし、玉世と一緒に居ても、満たされない部分があった。感じたのは薄さだった。十枚入る所に玉世一人ではどうしても三枚しか入らなかった。それは人数の不足だった。友達以上のものを手に入れても、数で埋まる部分はどうしても物足りなかった。

 その後も貪欲に理想の幸せを求めていたら、理真は遂に、友達を手に入れた。

 知美と灯。そして清嗣。

 知美は「先輩への敬意が足りない」と清嗣に言いつけた。灯は「仲良くなれるか分からない」と様子を見る発言をした。二人とも、理真を担ぎ上げるようなことはしなかった。

 彼女たちのことを知れば当然で、使徒という立場の彼女たちには覚者という絶対的な信仰対象がいたからだ。

 普通の人とは違った人たちだけれど、理真にとってそれは問題ではなかった。すぐに友達になれた。

 理真が求めて、やっと手に入れた友達。

 嬉しかった。一緒に過ごして、楽しかった。自分という存在が厚みを増した。満たされなかった空隙が埋まっていった。想定していた友達の効能が十分に得られた。

 でも、


 玉世はそれを否定した。


 もう絶交だと。しなければ玉世が理真から離れると。

 言われた時、理真は思わず泣いてしまった。

 最愛の人から裏切りがあるとは思わなかったから。友達ができたと報告した時は、喜んでくれたのに。

 でも、玉世にも理由があることは、昨日の光景を見れば明らかだった。何がそうさせたのか、彼は泣いていた。

 だから、その理由を知らなければならない。解決しなければならない。

 最良の形が見えているのなら、取りに行く必要があった。

 そのために、理真は清嗣に会いに行く。彼は覚者だから、嘘はつかない。玉世はどんな存在か分からない。信用できない。正確な情報を得るのならば、清嗣から以外になかった。


 ***


 始発電車に揺られて、理真はホームに降りた。

 地上から空を見上げると水底にいるような感覚を覚えた。何もない空間に透明が詰まっているようで、はっきりとしている紺色の空がこっちとあっちを分ける境界に見える。その様子が水中と水面のイメージと重なった。前を向くとホームの白熱灯が点々と淡い光を置いていて、さながら海底都市にでもいるようだった。

 ホームから階段を目指して歩くと、こんな時でもスーツ姿で出勤する会社員の姿が見えた。

 電車に乗っている時、窓から夜通し働いているのであろう建設業の人たちも見た。駅員もそうだ。そういう大人がいなければ世の中は止まってしまう。

 昨日の犯人はまだ捕まっていない。皆命がけで仕事をしている。悲しみにくれる人も中にはいるだろう。でも、この街全域が被害に遭っている。泣き言を言っていられない皆のために働く人たちに畏敬の念を抱いた。

 階段を上って通路に出ると、窓から見える遠くの空が微かにオレンジ掛かっていた。もう、父と母は起きているだろうか。心配させてしまっているだろうか。心は痛む。でも、だからと言って引くわけにはいかない。痛みは覚悟に回して、歩を進める。

 駅から出て街を見た。出てすぐに見える範囲にあるビルが一棟倒壊していた。その他の建物も、傷が入っていたり窓が割れていたりと損傷があった。一帯が黄色のテープで締め切られ、警官が二人立っている。学校への道も塞がれていた。

 学校の最寄り駅となるこの駅は、昨日知美と灯と待ち合わせた街の主要駅から四つ先にある。理真が見た少年が破壊していたところからはそれなりに離れた所だが、別の使徒がここにも来ていたのだろう。

 理真はあたりを見回し、普段使わない地下通路を選んで入った。いつもの通学路には警官が立っている。正面から入りたいと言っても高校生を通してくれる訳がない。補導されて、親を呼ばれて、何も得ぬまま終わってしまう。

 地下通路内にも、学校へ向かう階段の前には黄色のテープが張ってあった。しかし、警官はいない。近づいて階段の先を見上げると、出入口にもテープは張られていた。理真はテープを潜って音をたてないよう慎重に階段を上がった。外の様子を窺い見て、出入口前にも警官がいないことを確認すると、外へ出た。警察も割ける人員に限界があるのだろう。十三箇所が同じような状況ならば人員不足は必至だった。

 そこから十分ほど歩いて、理真は目的地である学校へ辿り着いた。校舎の近辺に被害は見当たらなかった。清嗣の根城だから、風の使徒も避けたのかもしれない。

 正門を見ると、予定通り開いていた。

 昨日の時点で理真は清嗣にアポを取っていた。朝は生徒会室にいることを確認していたが、始発で来たため少々不安だった。理真は安堵して正門をくぐる。

 普段通り上履きに履き変えて校舎内に入った。校舎内は薄暗く、窓の無い通路は足元が見えない程に暗かった。人の気配は感じなかったが、もし教師が来ていて見つかったら面倒なため、警戒は続けた。

 理真は真っ直ぐ生徒会室へ向かった。道中問題なく、その扉を視界に納める。暗い中でも、その扉からだけ温かいものを感じた。それは思い出があるからなのか、中に人がいるからなのか、どちらなのかは分からなかった。

 扉の前に来て、理真は三回ノックした。

「入れ」

 清嗣の声だった。

 了承を得て、理真は扉に手をかける。

「失礼します」

 部屋に入ると、清嗣は会長椅子に腰かけて仰向けになっていた。南東を向いた窓からはドロッとしたオレンジ色の日の光が差し込んで、教室の半分を染めていた。

「おはようございます。お休み中でしたか?」

「ああ」

 寝起きらしくないはっきりした声で清嗣は答えた。ゆっくりと首を起こして理真を見る。

「すみません。どうしても清嗣さんに聞きたいことがあって」

 友好的な柔らかさは残しつつ、凛とした様子で理真は言った。

「そうか。まあ座れ」

 清嗣に促され、理真は手近なパイプ椅子を手に取り、清嗣の方へ向けて座った。

 理真は改めて清嗣を見る。風の導きを目の当たりにした後に見ると、覚者という存在に対して実感を通したような深い認識を得られた。

 その佇まいはどんなことがあっても変わらない。泰然としたさまが平行している。過去の清嗣のことを思い出そうとすれば、それがいつのことだったか分からなくなるような、経験を通した変化というものがなかった。

 理真は急く心を抑える。清嗣に聞きたいことはたくさんあった。取りあえず、主題ではないが最初に聞いておかなければならないことから聞く。

「知美さんと灯さんに、その後問題はありませんか?」

 知美と灯は一度死んでいる。玉世に復活させられたが、完全に元通りになったのかは分からなかった。

「知美は問題ない。今まで通り生きていけるだろう。灯は会っていないから分からない」

 清嗣の簡潔な答えに、理真は胸を撫で下ろした。

「そうですか。安心しました」

 事実確認を終え、理真は個人的な案件に入る。

「玉世のことは知っていますか?」

 理真はその名を口にして、首の根が引きつるように緊張した。求める情報を質問できたことと、きっとそれに対する明確な答えを清嗣は返してくれるだろうという期待感からだった。

「その名は知らない。君の恋人のことか?」

「はい」

 清嗣の言葉に、理真は便宜上肯定した。実際には恋人として関係を続けるか、今はまだ分からない。玉世には謎が多すぎた。そして今後の関係を決めるための情報を今、清嗣に求めにきている。

「面識はない。知美の携帯から送られたメッセージが初めての接触だ」

 それは昨日、玉世自ら知美の携帯を使って清嗣に送ったものだろう。

「玉世は、覚者なんですか?」

 理真は率直に聞いた。知美と灯の復活、風の覚者の殺害から見て、普通の人間でないことは明らかだった。しかし理真自身、まだその言葉に違和感を覚えている。

 理真の頭にある玉世の姿は、清嗣の雰囲気とはまるで違う。それは昨日、知美と話していた時にも改めて自覚したことだ。理真も接したことがある覚者は清嗣以外にいない。しかし、覚者の説明を聞いた限り、清嗣の非人間的な雰囲気は属性に関係なく覚者であることによるものだと思う。それに対して、玉世は正しく、人間らしかった。

 理真の疑問に、清嗣は淡々と答える。

「覚者だとは言っているな。だが俺や水の覚者、風の覚者とは違う」

「……どういうことですか?」

くうの覚者、だと、彼は自称していた」

 理真は真実へ迫っている手ごたえに瞳を揺らす。空は初めて聞く属性だった。清嗣はなぜ、最初の説明で言わなかったのだろうか。

「それは、一体なんですか? 覚者は地水火風になぞらえるのではないんですか?」

「俺と同じ存在はそれだけだ。だが覚者という括りだともう一つ、属性が増える。それが空だ」

「どういうことですか?」

 要領を得ない説明に、理真は重い口調で疑問を投げた。

「覚者というのは人から見た扱いだ。だから人でない超常者は覚者になる」

「分かりません」

 清嗣の言葉に、具体的な解答を予感して心臓が大きく脈打った。それから、創世記の内容を思い出す。

「創世記……まさか……!」

 思い当たるものがあった。それであれば、確かに理真が抱いた玉世の印象も、清嗣が言った自分たちとは違う覚者だという説明も矛盾なく収まる。でも、それは……

 確信を抱きつつも信じがたい様子で戸惑う理真に、清嗣がその想像を肯定する。

「そう。“生命の樹の果実”と“知識の樹の果実”。そのを手にしたものだ」

 理真は目を剥いて清嗣を見た。人であり、覚者。しかしそれは、ありえない存在のはずだった。バナナ型神話において、それらは二者択一の物として扱われる。

「そんなこと、ありえるんですか?」

「矛盾する存在だな。永遠の命と善悪の規定は両立しない。だが、その存在定義はある」

 清嗣ははっきりと肯定した。その存在の分類は、既にあるのだ。だから、空の覚者という呼び名もある。理真は実態を掘り下げるため、再度質問する。

「二つを手にした存在は、人や覚者に対して、どういう立ち位置になるんですか?」

 人間性を持って全能の力を振るう者。覚者がやらない覚者殺しを行う者。危険極まりない人物のように思える。しかし、それは覚者より上の存在と見ていいのならば、危険と呼ぶのも間違いなのかもしれない。そして何より理真が気にするのは、理真への想いは本物か、人との恋は成立するのか。

 清嗣がそれらの答えを握っているのか分からないけれど、願いを込めて聞いた。

 理真の願いに、清嗣は抽象的な解答を出す。

「創世記にはこうある。人は善悪の知識の樹から実を食べて、善悪を知る者となった。彼らが生命の樹からも果実を取って食べないようエデンの園から追放し、その間にケルビムときらめく剣の炎を置いた」

 続く言葉を予感して、理真は息を呑んだ。

「その二つが神の権威を表す物だとしたら、神に等しい存在。ということだな」

 理真は、その端の見えないほど大きなものに閉口した。

「空が意味するものは全ての存在の統括。神と呼ばれるにふさわしく、各属性の覚者全ての力を使える。だが、火の力に関して言えば、俺よりは劣る」

 俯く理真の様子を見て、清嗣が続けた。

「結局は覚者の要素と人の要素を持っているというだけだ。お前が俺の友だと言うのなら、神と恋人でもおかしくはないだろう」

 清嗣の言葉に、理真は顔を上げる。もう一度俯いて、今まで過ごしてきた日々を思い返した。

 そこには、人間らしい愛があった。神であれば、考えることが違うこともあると思う。例えば昨日の理由が分からない涙のように。でも、神だということが、恋人になれない理由にはならないかもしれない。

 理真は再び顔を上げた。玉世の人でない部分を知るため、人でない清嗣に、前向きな気持ちをもって問う。

「玉世は、泣いていました。知美さんと灯さんを生き返らせて、風の覚者を殺した後です。何故なんでしょう」

 あの光景は同じ知識の樹の果実を有していても、人の価値観では測れない光景だった。覚者の視点も備えたからこその、涙のはずである。

「やってはいけないことをしたからだ」

 清嗣は率直に答えた。

 清嗣の言葉に、理真は下唇を噛んだ。何となく、予感はしていた。神のような立場にあっても、やってはいけないことがある。それは死者を復活させる行為だろう。

おそらく、玉世が理真に友達ができたことを喜んでくれながら、その相手が使徒だと知って絶交を迫ったのは、知美と灯に死ぬ可能性があることを知っていたからだ。知美と灯に情を宿せば、理真は二人の為に死地へも赴く。もし、理真自身に被害が及ばなくとも、知美と灯が死ねば深く傷つく。そして実際に死地へ赴き、二人の死を目の当たりにした理真は狂った。結果、玉世は理真の姿を見ていられず、人の復活という罪を働いた。

「……知美さんと灯さんを生き返らせる罪とは、どれほどのものなのでしょう」

 理真は恐れを抱きながら、罪と向かい合う気概で聞いた。清嗣はすぐに答えを返す。

「復活に関しての罪はない」

「え?」

 清嗣の意外な言葉に、理真は拍子抜けした。

「人の復活は使徒の力でも可能だ。この世で起こりうる事象は各属性の使徒が力を合わせれば理論上は全て可能になっている」

 理真の精神状態によるものだろうが、感情のない清嗣の言葉の中でも殊更空虚に響いた。

「そう、なんですか?」

「実際には各属性の覚者が同時に存在しなければ各属性の使徒は揃わないこと、使徒が協力してできるバランス調整に限界があることから森羅万象を司れるとは言えない。しかし人の復活も、損傷や腐敗の度合いによって難易度は変わるが当然可能だ。施術者が覚者となれば、全ての属性を完璧なバランスで扱える。腐ったひき肉からでも復活させることは容易い」

 覚者の行き過ぎた力に理真の頬が引きつる。容易いからやっていいのかとも思うが、問題がないというのなら良いことだった。ならばどこに玉世の罪があるのかという問題が再浮上するが、その前に一つ、喜ばしい可能性に気付いて話を脱線させることにした。

 理真は期待に明るくなった顔で清嗣に聞く。

「でしたら、知美さんと灯さんは、玉世が復活させなければ清嗣さんが復活させたんですか?」

 覚者の配下である使徒は実質的に戦死がないという事ではないだろうか。この先、使徒間で抗争があっても、覚者が復活させるのならば、知美たちの命は保証されていると言える。

「いいや。しなかっただろうな」

 清嗣からの解答は期待の横を通り抜けた。

「……どうしてです?」

 理真から艶のない平坦な問いが出る。目には暗いものが混じっていた。

「風の導きによって死んだのなら、そのままにするべきだ。新たな使徒を探せばいい」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。でも、理真の耳に異常はない。聞いた言葉を脳に送って、爆発する。

「貴方を慕って意思を全うした使徒ですよ!?」

 部品の取り換えみたいに言う清嗣に、理真は声を荒げて糾弾した。

 清嗣は堪えた様子もなく、淡々と答えてみせる。

「覚者はそういう存在だ。覚者は何でもできる。人々の想い全てを叶えることができる。だから、誰の願いも叶えない。欲しいものを手に入れようとするのが人間だ。求めるものがあるから、価値を創出できる。覚者が願われるものを与えてしまえば、その先には価値を創出しない、覚者の紛い物が溢れるだけだ」

「そんな……!」

 清嗣の言い分は、理解できた。でも、知美を思って胸が苦しくなる。知美はあれほど清嗣を慕っているのに、清嗣はまるで何も思っていない。それは存在が異なるのだから仕方のないことかもしれないけれど、虚しさを感じた。

「覚者は人に共感や同情はしない。だから時代をあるべきように導ける」

理真はやるせなさに歯噛みした。清嗣の見た目に理真は人を重ねるけれど、その立ち位置は隔絶しているのだ。本質を見れば、豚と人よりも離れている。生物と定義していいかも怪しい存在だった。

「空の覚者の矛盾点。その最たるところだな」

 人に共感してしまう導き手、覚者の在り方を通して改めて考えてみると、その危険度をより強く感じる。そして、実際に罪を犯してしまっていると言う話になっていた。

 清嗣が話を本筋に戻す。

「人の復活は大事ではない。覚者は普通やらないことだが、いつでも帳尻を合わせられる些末事だ。だが……」

 人の生死を簡単に些末事と言い放ち、次の言葉を清嗣は含みを持たせて話す。

 理真は再びやるせない気持ちで奥歯を噛んだ。人の命を軽んじた後、人殺しを殺したことを禁忌と言ったことに。人として、受け入れがたい言葉だった。

 しかし、そのことについて話してもしかたがない。覚者という立場上、考えが変わることはない。今必要なのは玉世の情報だった。理真は思いを呑みこむ。

「そもそも、覚者は殺せるんですか?」

 覚者は不老不死だと最初の説明で聞いていた。理真は玉世の力で知美と灯が復活した光景も見ている。覚者にとって、肉体の損傷が死と直結するとは考え辛かった。

「覚者ならば殺せる。定義の変換で干渉すれば復活することはできなくなるからだ」

 清嗣の説明に、理真は納得した。前提を確認して次の質問をする。

「ならそれは、どのくらい酷いことなんですか?」

「覚者は時代の導き手だ。それを阻むということはその時代があるべき姿を自分の一存で変えるということに置き換わる」

「……イメージが湧きません」

「人の倫理観で測るのなら、自分勝手な都合で、四十億人の命を危険に晒す戦争を始めるようなものだ」

「っ!」

 理真は目を剥いて清嗣を見た。喉元が締まる。規模の大きさに現実感が湧かない。しかし、覚者である清嗣の言葉が嘘のはずはなかった。

 だが、覚者殺しがそこまでの大罪だというのなら、玉世にそれをやらせる理由はなんだったのだろうか。問いを投げられない理真に、清嗣がその解を答えた。

「空の覚者はそれを君の為にやったわけだ」

 理真は再度目を剥いた。

「愛の深きことだな」

 清嗣は目を閉じて静かに言った。

「ち、ちょっと、待ってください。確かに風の覚者のやったことは酷いと思います。怒りが沸きます。でも、私が一番辛かったのは、知美さんと灯さんが殺されたことです。それを復活させてくれただけでも、私は救われました。何十億人の命と天秤にかけるほど、私の風の覚者への怒りは重くなかった。そもそも覚者を止めてくれるなんて、たとえ玉世にでも期待していなかったですよ!?」

「君の為とは君の気持ちの為じゃない。君自身の為だ」

「……どういうことですか?」

 理真は疲れた様子で問い返す。

 理真自身の為、それは、理真が殺されるということだろうか。しかし、玉世ならいつなんどきだって、その気になれば復活させられるのだろう。少なくとも、人一人の復活が些末事なら、その代わりに覚者殺しの大罪を犯すのはあからさまに釣り合いがとれない。

「なりそうらしいぞ?」

「え?」

 清嗣の意味の分からない言葉に、理真は問い返す。何を語るときも表情を変えなかった清嗣がここにきてニヒルな笑みを作って見せた。そして、答える。

「君が、覚者に」

 理真は驚きと困惑を顔に浮かべた。

 思っても見ない、解答だった。

 一時代に一人と言われる覚者。それが今四人明らかになっていて、また新たな候補として自分が挙がっているという。

 しかし、言われて心当たりを思い出した。

 知美の死体を抱いていた時、不思議な感覚があった。あの時、玉世は焦った様子を見せていた。あれが覚者への転生の前兆だったのかもしれない。

「覚者や使徒の近くにいると感化されてなりやすくなる。だから、空の覚者は知美と灯を復活させ、風の覚者を殺して止めた。俺たちに君と関わるなと言ったのもそれが理由だ」

 玉世が知美と灯とは絶交しろと言った本当の理由が、そこで明らかになった。何かしら死に関する物だと思っていたけれど、その真逆。理真が永遠の命を得ることを避けるためだった。

「私が覚者になると、玉世にとってどんな不都合があるんですか?」

「現在確認されている覚者の人数は風の覚者を引いて、空の覚者を含めれば三人いる。空席は風と地だけだ。しかし、覚者は素質ある物が空席に促されていくわけではない。なるときの思想で属性がおおよそ決まる。そして、一時代に一人の覚者が同じ属性を持って現れた前例がない。導きの役割が移譲するのか、二人で導きを行うことになるのか、どちらかが無駄なものとして土へ帰るのか、来季へ持ち越しなのか、未知数だ。そして、空の覚者にとってどのみち良いようにならないのは、覚者には心が無いことだ。恋愛は知識の樹の果実を手にしたもの同士でしかありえない。だから君を覚者にはさせられない。君が空の覚者になって、かつ何も問題が起きなければ、その限りではないがな」

「そういう、ことですか……」

 地鳴りを聞いたあの時、玉世を選んで知美と灯と絶交したら、玉世は大罪を犯すことはなかったのだろう。

 申し訳ないと思い、同時に、とても重い温かさも感じる。

 玉世の犯す大罪を知って、もし今の理真があの瞬間、あの場所に戻ったら、何を選んだだろうと考える。答えはすぐに出た。

 理真のとる行動は変わらない。自分の大切なものを守る為、自分にできることを全力でやる。

 風の覚者の死は、人である理真にとって問題ではない。大量殺人犯が殺されるという構図は、むしろ良いものだと思っている。問題は玉世で、風の覚者を殺す玉世は覚者にとっての大罪を犯してしまうことになる。それも、理真との関係を守るために。玉世には申し訳ないけれど、その状況は受け入れてもらう。だから、理真は大罪を犯した玉世に対して、守ってくれた想いに応えることにする。玉世に罪を働いて良かったと思わせる。身の裂けるような気持ちでした選択を、幸せの選択だったと思わせる。求める見返り以上のものを返すことにする。それが、自分にできることを全力でする理真の、自分を選んでくれた恋人に対する応え方だ。

 理真が自分の在り方を確認したところで、清嗣が人間のように話し出した。

「空の覚者から、俺が理真とこれからも関わり続けるつもりなら今日の午後五時に勾当公園で話そうと誘われている。覚者は人に言われて行動を変えることはないのに、おかしいとは思わないか? ということで、君に彼と話したいことがあるならそこで直接言うといい。彼からは聞きたいことがたくさんあって、君がいると情報のやり取りに支障が出るから、三十分ぐらい後に来てくれよ?」

 清嗣が作った少し砕けた態度に、理真は微笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。分かりました」

 清嗣は頷いて応えた。

「話は十分だろう、もう戻れ」

 清嗣が話しを切り上げようとした。理真は慌てて制止する。

「まだ聞きたいこと、たくさんあるのですが」

 知美と灯は今何をしているか、風の使徒のこれからの動き、清嗣と水の覚者の今後の方針。聞きたいことは上げていけば切りがないほどあった。

 食い下がろうとする理真に、清嗣が親指で自分の後ろを指す。そこには窓があった。

 理真は一瞬理解が及ばず、次の瞬間、確信めいた予感をもって立ち上がる。窓によって、清嗣の指すその先を見た。そこに、正門前で停まる一台の車と、その傍らに立つ恵の姿が見えた。

――ドクン。

 理真の心臓が、重く跳ね上がった。

 固まる理真を尻目に、清嗣が告げる。

「恋人以上に君を愛する人が待っている」

「…………分かりました。また今度、聞かせてください」

 理真は変な動悸と息苦しさを覚えながら、清嗣に答えた。

 自分を愛してくれる人を裏切った恐怖だと認識した。

 理真は不安定な意識で、生徒会室を後にした。

「さようなら」

 清嗣は微笑みを湛えて理真の背中を見送った。


  ***


 理真は重い動悸を感じながら下足箱で靴を履き変えた。

外は既に明るかった。恵が校舎を見つめて待っている姿が見えた。携帯を握りしめて胸に抱いていた。

 ある程度の覚悟はしている。どのみち、家に帰れば待ち受けている事態だった。それが少し早まっただけ。元の覚悟に少しだけ勇気を足して、理真は外に出た。

 恵はすぐに気付いた。理真は目を逸らし、一瞬竦んだ足を理性で再び動かした。

 緊張に加え、寒さが動きを固くさせる。呼吸の瞬間、気を抜くと奥歯が鳴った。恵の姿は視界に収めていなかったが、視線が張り付いているのを感じた。

 正門の近くまで来て、また一つ覚悟を決める。門は開いているけれど、なんとなく、こっちとあっちの境目のような気がした。そこを通れば決定的に場面が変わると、確信があった。

 理真は改めて恵を見た。恵はじっと理真を見つめて固まっていた。微妙な動きが分かる距離ではなく、目を合わせるのは正門を抜けてからだと思い、しっかりは見ていないけれど、体が震えているように見えた。

 正門前まで来て、理真は自分をさらっと手放す。自分を白くして、正門を潜った。

 その瞬間、理真の視界で、恵が動き出した。

 理真が視線を向けると、出遅れた獣が慌てて獲物を追いかけるように、恵が走ってくるのが見えた。理真はその姿に足を止める。恵は理真に襲いかかった。

 軽い衝撃と抱擁。理真は片足を一歩後ろに下げるだけで受け止めきれた。

 本当に獲物を狙う所作なら、何も掴まえられそうになかった。でも、その後の抱擁はきつかった。無機物で締め上げられているようで、固く冷たい。体の温かさは伝わるけれど、弱弱しくて居た堪れない。

 暫くして、理真を抱きしめていた恵の手が、理真の腕の付け根に移動する。その切り替えも迅速で、手中にないことを恐れるかのようだった。

「お願いだから……」

「お願いだから、心配させないで……」

 母の強さなんてどこにもなかった。守ってあげなければならない、幼子のようだった。

 あまりの様子に、気持ち悪さすら感じた。腕を万力のように握りしめる手と小刻みに震える体に、心の距離を感じる。

 理真の予想外だったのが恵から伝わる自責の念だった。怒られ、問いただされることを想定していたけれど、自分の大切なものをみすみす危険な場所に出してしまった自責が、恵自身を苛めていた。

 いつも快活として、器用に何でもこなす母。理真よりもずっと先にいる母。その母がもう、子どもより頼りなかった。細いものが揺らいでいるみたいで、ふとした瞬間に狂って、何かしでかしそうだった。

 そして、母をそうさせたのは、理真自身だった。

「ごめん。心配させて」

 自分を掴む腕に全体重をかける恵を、理真は両足に力を込めて立つことで支えた。

「ごめんね」

 理真は肘を曲げて恵の腕を摩った。腕を握る恵の手へ、抵抗感を与えないように気を付けた。

 理真の意思表示。ここにいること、ちゃんと向き合うという姿勢に、恵は顔を上げて理真を見た。

「どうして、直接言って、出て行かなかった、の?」

 恵は泣きそうになりながら、救いを求める幼子の声を出した。個性の壊れた感情そのものの声は、覆うものがなくて棘だらけだった。理真は痛みを受け入れて正対する。

「止められると思って」

 安心感を与えるような、優しい口調で答えた。

「止められるって分かってたのに、どうして出て行ったの?」

 恵の瞳に責める色が強く入った。母の敵意に、理真は毅然として耐える。

「どうしても、知っておかなければならないことがあったの」

 声を重くして、理真は答えた。自分の行動を否定する気は理真自身にないことを示した。

「それは、命より大事なこと?」

「命に準ずる、大事なこと」

 母の疑問に、理真はまっすぐな姿勢で答えた。

「私はね。理真のことが一番大事なのよ? 自分の命より、ずっと大事なの」

「うん」

 想いを示し続けようとした理真の毅然とした顔が、僅かに歪む。嘘のない綺麗な言葉。最大限の気取らない愛が、理真の心を抉った。

「お願いだから、もうこんなことはしないで」

 恵の全てを掛けた願いだった。一生のお願いとはこういうものを言うのだろうと思った。

 痛い。痛かった。口を開けば、嘔吐してしまいそうだった。でも、母の願いを聞くわけにはいかなかった。今日、夕方にもまた出かけなければならない。それは、絶対に、譲れないものだった。

 理真は口を開き、一度閉じて、しっかりした声を出す。

「お母さん。今日の夕方、また出かけなければならないの」

「…………」

 恵は信じがたいものを見るように固まった。瞳が奥に沈んでいくようだった。理真は余計な感情を湧かせず、勢いのまま続ける。

「私は大丈夫だから、送り出してね」

 決定事項を語るように、言い切った。

 恵は理真の瞳をじっとのぞき込んで、言葉を漏らす。

「……ダメ」

 恵がはっきりと意志を宿す。あらゆるものが削ぎ落ちた、否定そのものの姿だった。

「ダメよ。許しません」

 母の立場を使って、子どもの思いを拒絶する。

 その頑とした強力な意思に、理真は少し、自分の意志を伝える恐れを薄れさせる。子どもの立場で意地を張り通す。

「ごめんね。行くから。絶対に行くの」

 手折れない意志のこもった言葉に、恵の顔が痛烈に歪む。

「どうして、分かって、くれないの……!?」

 恵は狂気とも思えるような声を出した。理真は息を呑みこんで、その姿に耐えた。

 母がどんなに思ってくれていても、こんな母を見ていたくなくても、理真は言う事を聞く訳にはいかなかった。

 だって、理真が将来もつ、母にとっての理真世界で一番大切なものは、玉世との間に生まれるものであることを望むから。

 理真は意を決して、子どもの立場を使った暴言を吐く。

「お母さん。私は

 母が目を見開いた。

 明確な拒絶の意志を表明して、胸が引き裂かれるような痛みを感じる。

「私がお母さんを思って、歩みを止めることはない」

 気付けば、涙が流れていた。身に余る、言葉を吐いたと思う。でも、これで私の想いが伝わってくれればいい。自分の涙に願いを掛ける。

 恵も静かに涙を流した。理真の腕を握る手は、辛うじて持てているような弱さだった。二人は止めどなく涙を流しながら見つめ合った。恵は呆然とした瞳で。理真は伝わってほしいと願いを込めた瞳で。

 すると突然、恵の瞳から鬼気が抜けた。柔らかい、正常さを取り戻す。

 瞬きの後、色の変わった瞳で再び理真を見た。理真はその姿に疑問を抱きつつも、目は逸らさず、恵の瞳を見つめ返した。

「ははは」

 恵は突然笑い出した。理真を掴んでいた手は離れ、左手はお腹に、右手は目元に行って涙を拭った。

「お母さん?」

 あまりのショックで壊れてしまったかと思った。でも、そんな様子はなく、いつも通りの笑い声だった。

「……どうしたの?」

 恵は笑いを堪えて、置いてけぼりになった怖がる理真に応える。

「いや、理真はお父さんの子だったなって」

「え?」

 思わぬ解答に、理真が面食らう。

 恵は涙を拭いながら、もう片方の目で理真を見た。

「そういうとこ、お父さんそっくり。これがいいって決めたら、全部手に入れるの。妥協しないの。その過程で、どんなに傷ついても、理想と現実を一緒にするのよ。まるでパズルを組み立てるみたいに」

 その感覚は、確かに理真の中にもあるものだった。

 理真が見てきた父からは、それを強く感じることはなかったけれど。父の姿を考えてみると理真を見る父は誇らしそうで、愛おしそうだった。その瞳は、現実となった理想を見る、自分の瞳と重なった。

「そっか、お父さんのそういう所、受け継がれちゃったか」

 恵は理真の頬にそっと手を添えて言った。後悔の言葉は嬉しそうで、その瞳は理真の瞳から別の誰かを見ていた。

 愛のある眼差しだった。言葉はなくとも、理真はその相手が父だと分かった。

「女の子にそんな危ない強さを持たせるだなんて、お父さんったらひどい事するのね」

 恵は残っていた散逸的な毒を、甘い気持ちで包んで吐きだした。

「……いいの?」

 計画を立てた時から、認めてもらえるとは思っていなかった。でも認めてもらえるなら、認めて欲しかった。理真の心も、弱っていたのだろう。恵の優しい姿に問いを投げる声は、子どもらしく、甘えた声音だった。

 恵は即答しなかった。理真が二択で求めた解答に、文章で返す。

「お父さん。朝すっごく心配してた。自分は平気でみんなをかき乱すくせに、自分の大切な人がそれをすると、頭おかしくなっちゃうの。だから、私が理真を送り出すと、私絶対怒られる。泣くほど叱られる」

 恵は一度言葉を切って、少し躊躇った後、

「ちゃんと帰ってきて、仲直りさせてね」

 泣き笑いを浮かべて言った。

 思いの強さで譲ったわけではない。恵の恋した人の性と、子どもの幸せを願う心が、理真への譲歩に至らせた。

「うん」

 恵がせめて安心できるように、理真は陰りのない、自身に満ちた声で答えた。

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