四章 “導き”

 鏡の前で、理真は自分の姿をチェックする。

 白のセーターに赤のフレアスカートという服装。

「うむ!」

 仕上がりに満足し、理真は鏡の前で胸を張った。

 洗面所から出てリビングに顔だけ出す。

「行ってくるね」

「はーい」

 恵に告げて玄関に向かった。

 ヒールかシューズか、歩くことを考えてシューズにする。理真が靴を履いている時、別れを告げたはずの恵がリビングから出てきた。

「帰りは何時ごろになるの?」

「うーん。分からない」

「晩御飯はどうする?」

「決めてない。……何時ごろまで連絡すればいい?」

「決まったらでいいけど。連絡無い時は作っておくわ」

「分かった。できるだけ早く連絡できるようにする」

 理真が靴を履いて立ち上がる。つま先をトントンと叩いて首だけ振り返った。

「じゃ、行ってきます」

「いってらっしゃい。気を付けてね」

「うん」

 外に出て扉を閉める。その時奥に見えた母に手を振った。母も振りかえす。閉じきって、日の下へ出た。

 天気は快晴。つられて気分も晴れやかになる。口角が自然と上がった。

 クリスマス一週間前の週末。友達と初めて過ごす休日だった。


***


 目的の駅に着き、理真が電車を降りる。待ち合わせ場所はいつも玉世と会う所だった。ホームから階段を上がり、通路に出る。待ち合わせ場所を見ると、知美と灯の姿がすでにあった。理真は携帯で時間を確認する。九時五十分。集合時間の十分前だから遅れてはいないが、年長者二人を待たせてしまった格好になる。

 遠くにいる知美がすぐに理真を見つけた。理真が体の前で手を振ると、大手で振り返してきた。灯も理真を見つけると、小さく手を振って微笑んだ。

 理真からも自然と笑みが零れる。友達に歓待してもらうことは久しぶりだった。

「おはようございます」

 目の前まで来て言うと知美が両腕を広げた。挨拶の代わりか、理真に抱き着く。パンパンと背中を叩いた。

「なんですか?」

「君浮いてるから、『ここにいるぞ』って自己暗示」

 知美の言動が理解できなくて、理真は頭に疑問符を浮かべた。灯が笑って代弁する。

「理真の姿は現実感がなくて不安になるのよ」

「ああ。そういうことですか」

 理真は理解して落ち着く。知美は満足すると抱きしめていた手を解いて体を離した。

「遠くてもすぐ分かったよ。私服だと輪をかけて酷いね」

「その言い方だと貶されているみたいです」

 楽しそうに言う知美に、理真も言葉の余韻を上向きにして答えた。

 理真も二人の服装を確認する。

 知美はベージュのPコートに黒のパンツという装いだった。コートの前は開けていて、白いニットのセーターが覗いている。普段の明るいイメージを削ぐことなく、上品な大人っぽさに彩られ、知美の新たな魅力が引きだされていた。

 一方、灯は白のシャツにジャンパースカートを履いていた。普段の清楚な印象が強調され、灯の内面の愛らしさが表出していた。

「お二人も綺麗じゃないですか。馬子にも衣装ですね」

「そうだろうそうだろう」

「軽く馬鹿にされてるわよ」

「何!?」

「冗談です。いつも可愛いです」

 理真は可笑しくなって無邪気に笑った。

「はうぅ~」

 知美がメロメロになって、灯が口元をむずむずさせる。

「灯さんはどうですか?」

 理真がプレゼントを待ちわびる子どものような顔で灯を見る。

「知美さんと同じの、やりませんか?」

「と、というと?」

「ハグです」

「え、あ、え」

「嫌ですか?」

 灯の反応に好感触を覚え、理真は寂しそうな顔で誘う。

「い、いや全然! ……嫌じゃないよ」

 灯は人差し指を合わせてグニグニそわそわする。顔を真っ赤に染めて、理真をちらちら盗み見た。

「良かったです。それじゃあ、失礼して」

 理真がそっともたれ掛るように抱きしめた。その瞬間、灯の体が大きく痙攣する。その後、理真の背中にゆっくりと手を回した。理真は背中に温かさを感じると、もう一段階強く締める。抱擁の安らぎに埋没した。

「あったかぁい」

 理真が声を漏らすと灯の心臓がドクンと脈打つのが聞こえた。その後、灯は理真の体を緩く締めた。

 灯のいじらしい姿に、かわいいなぁと理真は思う。

 暫く抱き合って、感情の上昇の終わりを感じた所で、理真は灯から体を離した。

「満足しました」

 理真が満面の笑みで感想を述べた。灯の顔を見ると、トロッとして赤くなっていた。

「なんかエロいぞ。お前ら」

 知美が半眼で指摘する。灯の肩がビクッと跳ねた。

 灯は理真の反応を窺い見る。知美の言葉に笑っていた理真が、視線に気付いて灯に微笑んだ。灯は顔を真っ赤に染め、耐えがたい様子で理真から視線を外した。目元が震えて伏し目がちになる。その後、何を思ったのか顔を上げて、決意の眼差しで知美を見た。

「知美!」

「何?」

「私たちもしましょう」

「は、何で」

「い、い、か、ら」

 灯が知美に歩み寄る。その真剣さに知美はたじろぎ上体を反らした。灯は構わず知美を抱きしめる。そのままじっと、無言で強く抱きしめ続けた。

「ちょ、ちょっと…………やだ、なんなのさ……」

 伝播したように知美は顔を赤らめる。殊勝な声で鳴いた。

「ふぅ。冷めてきた。ありがとね」

「どういうことかなぁ!?」

 二人の様子に、理真は可笑しくなって笑う。じゃれあいが始まりそうなところに理真は近づいて二人の手を取った。

「同級生どうしで仲良くしないでください。寂しいじゃないですか」

 知美も灯も毒気を抜かれて微笑みを浮かべた。

「行きましょう!」

 理真は二人の手を持ったまま後ろ向きに歩きだす。二人が自ら足を動かし始めたところで手を離し、理真も振り返って歩いた。

 先頭を行く理真の顔は、久しく誰も見ることのできなかった少女らしい笑顔で輝いていた。


 ***


 クリスマス一週間前の週末とあって街はツリーや電飾で華やかに飾り立てられていた。その賑わいの中を、理真たち一行はどの飾りよりも視線を集めながら歩いていた。

「……人ってすれ違う人に注目することあるんだね」

 知美が苦笑し、灯が表情で同意する。

「いつものことですよ。……私と歩くの嫌だなんて言わないでくださいね」

「言わないけど。いや、純粋に新鮮だっただけ」

 理真の声の調子がいつもの遊ぶような非難と違うことを見取って、知美は簡潔に否定した。

「ところで、なんだっけ? 今日は彼氏さんへのプレゼントを選びに来たんだよね?」

「そうです。どんなものがいいか相談に乗って下さい」

 今日、理真は遊びついでに玉世へのクリスマスプレゼントを探しに来ていた。買うものはまだ決まっていない。二人にも相談に乗ってもらうつもりでいた。

 知美が顎に手を当てて考える。

「彼氏さんはどういうものが好きなの?」

「よく分からないんですよね。強いて言うなら、私かなぁ」

「そういうのいらない」

「なら、カメラとかはどう? 『これで私を撮って』って」

「その方向性はなしで。冗談ですから。私が男だったらそんな女嫌です」

「彼氏ってどんな人なの? スペックは聞いたけど。雰囲気とか」

「ふんわりしてます。優美な獣って感じです。色はモノトーンなんですけど印象はいろんな色してます」

「わけわかんないよ。想像できんなー。あ、働いてないんだよね? 履歴書とか」

「プレゼントで追い詰めていくスタイルですね。却下です」

 口を開けば大喜利みたいな答えばかりになる。三人とも一度口を噤んで考えた。

 理真の彼氏を想像する中で、知美がふと、一つの可能性に気付く。

「ところで彼氏さんってさー」

「はい?」

「使徒ではないの?」

「違うと思いますよ」

 知美の質問に、理真は考える様子もなく答えた。知美はすぐに自分の考えを捨てることなく、保留しておく。

 理真は回答の後に理由を考えてみた。結果、明確な理由は出てこなかった。しかし、なんとなく違う気がする。誰かの下について何かしているようには思えない。思想的な偏りはなく、公平なイメージがあった。

「灯のとこにはいない? そんな感じの見た目の人」

「いないわ。……写真は無いの?」

「そういえば、撮ってないですね」

 今まで記念日的なものはなく、特別に切り取る瞬間がなかった。

「クリスマスに撮ってみます」

 知美が腕組みして考える。

「理真と釣り合うかそれ以上って、一般人よりまだ使徒の方が可能性高いかなって思うけど」

「私もそう思う」

 知美の考えに灯も同意する。容姿の面は置いておくとして、使徒ならば能力の面で理真を超える所も見せられるだろう。何千万という成人男性の中にその逸材がいる確率より、十数人の使徒の男性の中にいる確率の方が高いと知美は思った。

「もしかして、まだ見ぬ覚者とか?」

「確かに、水の覚者は美人だし清嗣さんも美形よね」

 冗談交じりに言う知美に灯も乗っかって言った。

「ないと思いますよ」

 理真も気の抜けた調子で一応否定した。

「あの人は清嗣さんみたいな『終わってる感』がないです」

「『終わってる感』って、もっと良い表現ないのかな? 分かるけどさ」

 知美が渋面を浮かべて言った。

 清嗣からは揺らぎというものをまるで感じない。それは覚者の説明の通り、精神活動がないからだ。どこまでも深く、掴みどころがない。

「まあ、覚者が人と付き合うわけないしねー」

「そもそも一時代に一人の覚者がそんなにいたら世の中が混乱してしまうわ」

 灯の言葉に知美がうんうんと誇らしげに頷いた。

 理真がふと思って問いを投げる。

「そういえば、お二人は清嗣さんにプレゼントはするんですか?」

 理真の問いを受けて、知美は少し困ったような顔をした。

「したいって気持ちはあるんだけど……ほら、クリスマスってそういう日じゃん? 逆に失礼なのかなって。去年はやらなかった」

 知美の答えに、理真は納得する。

「私も、水の覚者にも清嗣さんにもあげてないわ」

 二人の話を聞いて、理真は一つ提案する。

「あげたい気持ちがあるのなら、今年は私をメインに三人からってことで渡すのはどうですか?」

 理真の提案に、知美が悩む様子を見せた。

「い、いいのかなぁ?」

 知美にとっては予定の無かった大事。理真からすぐに実行へ移せる現実的なプランを出され、怖気づいていた。理真は知美の反応から真意を汲み取って話を続ける。

「いいと思いますよ? 私は普通の人なので気にしませんし、清嗣さんにも贈ろうかなとは思っていたんです。お二人も使徒とはいえ人ですし、喜んではくれないかもしれませんが思いは受け取ってくれるんじゃないですか?」

「そうかなぁ」

 知美は尚も躊躇って、同じく使徒である灯に視線で意見を求めた。灯が頷き返すと、知美はまた少しだけ考えてから決心して笑った。

「じゃ、じゃあ、贈ろう、かな」

「はい」

 知美の言葉に、理真は笑顔で答えた。躊躇っていた知美も、回答を口にしてからはほくほく顔になった。

「あとせっかくですし、私たちもプレゼント交換とかしませんか?」

「やろう!」

「いいわね」

 今度の理真の提案には、二人ともすぐに食いついた。

「じゃあ後で、それを買う時間も作りましょうか」

 具体的な予定が増えていく嬉しさに、理真の顔がほころんだ。

 話が一段落して、知美が元の解決していない話に戻す。

「凄い脱線しちゃってたけど、彼氏のプレゼントだよ。どうする? ちなみに予算とか決まってるの?」

 問われた理真は顎に手を当てて自分の考えを話す。

「相手は大人なので、あまり貧相な物にはしたくないなと思うんです。でも、私も親から貰っているお小遣いでプレゼントするわけなんで、高価な物にするのもどうかと思って」

 理真は悩ましげに腕を組んで続ける。

「アルバイトができれば良かったんですけど校則で禁止されてますし、正直親が私のためにくれているお小遣いでプレゼントって、思いの横流しみたいで気が引けてるんですが」

「それ今までの話けっこう頓挫しない?」

「プレゼント交換とかは予算抑えめにするってことで」

 知美の突っ込みに理真は苦笑いで答えた。

「まあねー。分かるけど。でも付き合っててプレゼントなしっていうのも味気ないよね。あげられないのも貰えないのも悲しい」

「「うーん」」

 理真と知美が袋小路に入って唸った。

「なら、作ればいいんじゃない?」

 灯から、ポンッと言葉が飛んでくる。理真と知美が足を止める。

「……今なんと?」

 灯自身は何気なく言った言葉だったが、二人の表情を見ると、得意げな様子でもう一度答えた。

「作ればいいんじゃない? ケーキとか、マフラーとか」

 理真と知美が顔を見合わせる。

「「それだ!」」

 灯の言葉で方向性が決まる。場が途端に盛り上がった。

「作ろう!」

「そうしましょう!」

「何作る?」

「マフラーにします」

「編み物の経験は?」

「ないです!」

「大丈夫?」

「成し遂げて見せます!」

 理真が自信満々で胸を叩いた。皆が俄然浮かれ出す。

「毛糸屋はどこかな?」

 知美が携帯を取り出して調べようとする。

「こっち」

 灯が答えて先導した。

「もしかして、編み物の経験が?」

「あるわ」

「先生つきだ!」

「よろしくお願いします!」

 珍しく脚光を浴びて、灯はむず痒そうに頬を掻いた。


***


「……やたら早いわね」

「コツ掴みました」

 理真が得意げな笑顔を浮かべて答えた。

 現在時刻は十三時過ぎ。裁縫屋で編み物セット一式を買った後、清嗣のプレゼントを三人で選び、各自散らばってプレゼント交換で渡す物も買った。その後洋食屋で昼食をとり、場所を移して今、コーヒーショップにて灯による編み物レッスンが始まっていた。

 玉世用に買った毛糸玉は黒三つとグレー一つ。黒を基調にグレーでアクセントを入れるつもりでいる。灯もせっかくだからと一式買って作っていた。

 理真が灯に教えてもらっていると、十分後には灯に並ぶくらい手際がよくなっていた。手芸が趣味というわけでもなかったけれど、数作品作ったことのある灯の顔からは悔しさが滲む。

「……編み目も綺麗ね」

 眉をひそめながら、理真の編んだものを見て灯が漏らした。

「器用なので」

 理真にとって何をやっても躓きがないのは当たり前のことで、無邪気に答えた。

 暗い顔で編み物をする灯を見て、知美が声をかける。

「灯、なんか飲む?」

「……いいわ。そんなにお金ないし」

「奢るよ。功労者なんだからさ」

「あ、私も出します」

 知美の言葉に理真も乗る。

「え、あ、いいのよ? 気を遣わなくても」

 自分の様子を見て気遣われていることに気付き、灯は手振りを交えて口を挟んだ。

「いいからさ。私らも頼むか」

「はい」

 灯が何か言う前に知美が立ち上がって、理真も立ち上がってしまう。

「灯さん何がいいですか?」

 理真に問われて、灯は逡巡したのち、

「……カフェラテで」

 困ったような、嬉しいような顔をして答えた。

「承りました!」

 理真は破顔して答えると、知美とレジへ向かった。

 二人の背中を見送って、灯は手元の作業に戻った。棒針をくねくね動かす。その顔は目元が垂れ、頬が柔らかくなっていた。

「ぁ、間違った……」



 灯から注文を聞いた後、理真は一歩先を歩いていた知美に後ろから声をかけた。

「知美さんも、ありがとうございます。編み物関係ないのに付き合ってもらっちゃって」

「いいよ。楽しいし。私も理真のおかげで清嗣さんにもプレゼント贈れるしね」

 知美は嬉しそうな笑顔で応えた。理真も釣られて笑顔になる。

 レジに行くと、前に六組ほど先客がいた。最後尾に行って列に加わる。

「知美さんは、灯さんのこと好きですか?」

 理真が唐突にデリケートな話を放り込んだ。直後、知美は少しだけ身を固くした。

 理真は灯に奢ると言った時の知美の様子を見て、聞いてみたいと思っていた。最初に友達とは言っていたけれど、心根の方でどれほど思えているかは分からなかった。灯からは直接話を聞いたけれど、知美からはまだ聞いていない。

「理真って何の前触れもなくエッジの効いた質問するよね」

「そうですね。多分何でもできるからです。取り繕わなくていいからだと思います」

 苦笑交じりに言う知美に理真はあっさりと言ってのけた。

 理真の場合、一人の人間の弱みを握ることが自身の価値の底上げにはならない。それほど理真自身の能力が振りきれている。だから質問が利益に向かうことはなく、その心は事実だけを真っ直ぐに求める。それが姿勢にも現れて、相手の警戒心も起こさせなかった。

 理真の丸く磨いた氷のような瞳を見て、知美は少し考えてから正直に答えた。

「……分かんない」

 答えた後、知美は自分の言葉に寂しさを覚えた様子で目を伏せた。その言葉で終わることを拒むように、知美は続ける。

「私たち使徒は覚者を絶対的に信奉している。……そうすると、違う覚者の使徒とは考え方が合わなくて、あまり良くは思わない」

 それは灯からも聞いていたことだ。理真は口を挟まずに知美の答えを聞く。

「でも、使徒としか話せないこともある。今までもクラスメイトとはできない話は灯としていた。あと、特に用事がなくても、灯は違う覚者の目の前に置かれて、味方はゼロで、肩身が狭い思いをしているだろうなと思って、気を遣ったりはしてた。私が同じ立場だったらって考えたら辛いし。でも、それは同情で、好きと言える関係とは違かった気がする」

 理真が思った通り、使徒間の温度差は灯と同様に知美の中にもあった。しかしそれを語る知美の姿は辛そうだった。表面化した本心に理真の胸は温かくなる。

「でも、最近分からない。理真が私たちの前に現れてから、何か変わった気がする」

 知美は困ったような笑みを浮かべて理真を見る。

「一緒にいて、楽しい」

 知美は下を向いて、思い出すように続ける。

「灯の顔を見たら、笑顔が出るようになった。灯が笑ってくれると、嬉しいって感じるようになった。さっきも、灯が頑張っている姿を見て、労ってあげたいって思いが、自然に湧いてきた。まだこれは、ほんとに極々最近の話で、だからまだよく分からないけど……」

 知美は一度言葉を切って、少し躊躇した後、

「今は、大好き、なんだと思う」

 照れくさそうに頬を掻きながら、一息を三つに割って答えた。

 理真は柔らかい笑みを浮かべて、

「そうですか。良かったです」

 満足して、返答した。

 沈黙が降りて、知美はこそばゆい空気に、理真は整然とした空気に包まれる。知美はそれに不公平を感じて、悪戯っぽい笑みを作る。

「理真はどうなのさ?」

「?」

「私たちのこと、好きなの?」

 口端を吊り上げながら知美は挑戦的に聞いた。問われた理真は、

「好きですよ? 疑っていたんですか?」

 意図があるのか、無いのか、出来過ぎている無垢な表情で答える。

「大好きです」

 言葉を重ねて念押しした。

 聞いた知美がゆっくり顔を押さえて悶絶した。

 二人の前にいた人が注文を終える。理真は知美の二の腕を掴んで引っ張る。

「次、私たちの番ですよ。注文を。コーヒー一つとカフェラテ一つ」

「カフェラテ一つ……ぁ、アイスで」


  ***


 快晴の空の元、ビルの頂上で一人の青年が風を受けていた。ワイシャツに黒のレザーパンツという姿。特徴的なプラチナブロンドの髪が靡き、青空と美しく調和している。

 青年が地上を眺める。感情のない瞳が、わちゃわちゃとひしめき合う人々を映した。その後、青年はポケットからスマートフォンを取り出した。

おもむろに操作を始める。通話アプリのグループ画面を開いてスタンプを選び、張り付ける。

『いくぜ!』と書かれたスタンプに既読がたちまち十二個付いた。それを見届けた後、青年は体を倒す。頭を地上へ向けた状態で落下しながら、携帯をポケットへしまった。


「 風の覚者。これより世の変革を行う 」


 空中から落下し、途中で反転して制止した男を、気付いた人間たちは呆然と眺めた。

 遠方で、最初の音が鳴った。使徒が動いた証だった。青年は微笑み、注目を十分集めた所で、自らも腕を横へ薙いだ。中型のビルが斜めに切られ、自重で滑り落ちていく。

 人々の絶叫が木霊した。


  ***


 マフラー編みも途中で切り上げてカフェを出た。時刻は十四時前。午後の残りの時間をどう過ごすかを話し合って、カラオケに行くことになった。

 道を歩きながら理真が二人に問いかける。

「お二人はカラオケによく行くんですか?」

「たまにかな。友達と」

「数回だけ」

 知美と灯がそれぞれ答えた。

「理真は?」

「初めてです」

「おお。そうなんだ。理真の声綺麗だから、歌聴いてみたいな」

 知美が理真に言った後、おどけるように口角を上げて灯に振り返る。

「灯とも初めてだよな。点数勝負しようぜ」

 灯は目を剥いて知美を見た。その後静かに目を閉じる。

「いいわよ。私、歌は結構得意なの」

「言うねー」

 二人の楽しげな雰囲気に理真は胸を弾ませた。

「そういえば、今日は晩御飯どうしますか?」

 理真が恵に連絡すると言ったことを思い出して聞いた。

「あー、考えてなかったな。二人がいいなら食べてきたい」

「私も大丈夫」

「分かりました。では食べるということで」

 カラオケ屋に入ったら最初にメールをしようと心に決めた。

 先の楽しみも増え、上機嫌で理真は視線を上げる。ふと街に目を向けると、クリスマスの意匠がそこかしこに見えた。店先にはツリーが飾られ天井のアーケードにはサンタとトナカイの電飾やメタリックな球体、メリークリスマスと書かれたフラッグなどが吊るされている。その特別な街の装いが、今の浮かれた自分の心に寄り添ってくれていることに気付いて、理真は一層嬉しくなった。

 視線を戻すと、皆も心なしか楽しそうに見える。街の雰囲気でそう見えるのかもしれないけれど、大切な人を思って、プレゼントを買いに来た人もいるのだろうなと思った。

 その時、視界の端に見知った姿が映った。視線を巡らせる。理真が彼を見間違えるはずがない。するとすぐに、彼の姿を捉えられた。彼も理真を見つけていた。目が合うと、勝手に柔らかい笑みが浮かんだ。胸の奥がキュッと締まって温かいピンク色の液体を出した。

「……玉世」

 相手に届ける意図のない独白が漏れる。視線の先の玉世には届かないけれど、近くにいた知美と灯には届き、理真の異変に気付いた。理真の視線の先を追って、それが理真にとって何か、すぐに気付く。

「…………やば」

 知美が辛うじて感想を漏らし、灯は絶句した。

 理真の話に聞いていた人物像にぴたりと嵌った。モノトーンの姿に色がある。優美な獣。形容の通りだった。

 玉世が人波を割って理真の元に歩み寄る。理真は大人しく迎えた。

「こんにちは。玉世」

「こんにちは。理真」

 玉世が微笑んで手を伸ばし、理真の頬を撫でた。

 知美と灯は二人の姿を、魂を抜かれたように眺めた。今までの人生で一番の、きっとこれからの人生でも比肩することのない、美しい光景だった。

 玉世が理真の近くにいる知美と灯に視線を向ける。距離感から、友達だと気付いたのだろう。知美と灯は緊張して姿勢を正し、玉世の顔が変わったことに一秒遅れて気付く。

 玉世の手に頬を添わせていた理真がふと思い出す。知美と灯が、玉世がどんな人か気にしていた。理真も、玉世に大切な友達を知ってほしい。紹介しようと玉世に声をかける。

「玉世。この人たちが友達。こちらが知美さんで……玉世?」

 玉世の顔を見て、理真が言葉を止める。幸せな空間なはずなのに、その顔は今の空気に似つかわしくない。

――驚きと、

 玉世が理真に顔を向ける。

――深い、悲しみの顔だった。

「理真。この人たちが友達?」

 いつもの余裕がない、平面的で、どこか痛々しい声だった。

「うん」

「そう。でも、ダメだよ。今日で友達はおしまい。いい?」

 玉世から、思ってもみない言葉が出る。理真は玉世をじっと見つめたまま、固まった。

 友達ができたこと、祝福してくれたはずなのに、

 友達を大事にしてって、言ってくれたはずなのに、

 幸せなことが、二人でいることって――

「…………何で?」

 玉世の目元が、苦しげに歪む。ふと気付く。理真の頬を涙が伝っていた。

「彼女たちは理真が関わっていい人間じゃないんだ」

「…………使徒だから?」

 知美と灯が目を剥く。

 玉世の表情がもう一段階哀しみを帯びる。玉世は使徒という人たちを知っている。その証明となった。

「ちょ、ちょっとさ……」

 割り込み辛い空気に、知美が勇気を出して口を挟んだ。玉世に目を向けられて、一瞬怯んだ後、意を決して話し出す。

「使徒のこと、どうして知っているかも気になるけど、それは置いておくとして、友達でいちゃダメってどういうことですか? ……彼氏であるなら、友達ができたこと、喜んであげるべきじゃないんですか!?」

 恐怖が吹っ切れたように、知美が続ける。

「私にとっても、理真はもう大切な友達です。関わるなって言われても、素直に聞く気はありません……!」

 言いきって体を震わせる知美。すると、灯がその背中を叩いて前に出る。

「私も、同じです。理真と離れる気はありません」

 灯が凛とした態度で玉世に訴える。知美はその姿に励まされ自らも胸を張って正対した。

 玉世は理真に視線を戻す。理真の頬を優しく撫でて、愛情深い微笑みを浮かべる。

「理真が拒んで。二人を」

 愛情から生まれた言葉は理真の欲しがる言葉とは真逆になる。

「玉世。二人は私の友達なの。大切な、友達なの。ひどいこと、言わないで」

 縋るように玉世の服を握る。瞳を見て、訴える。

 玉世はもう、訴えを聞いても表情を変えることはなかった。玉世の中で答えは決まってしまって、それ以外を受け入れる気はないと、分かった。

「こうしよう。理真。俺を取るか友達を取るか。選んで?」

「……え?」

 最低の選択肢に、理真が固まる。

 玉世は理真の反応に構うことなく、続けた。

「理真が俺を選ぶなら、二人とは今後一切関わらないで? 二人を選ぶなら、俺はもう理真とは会わない」

 瞳を見て、冗談を言っているわけではないと分かった。

 言葉が出ない。何で? 何で? 頭を巡るのはそればかり。

 今日は、友達と出かけて、玉世のクリスマスプレゼントを決めて、友達へのプレゼントも買って、お昼を一緒に食べて、灯さんにマフラーの編み方を教えてもらって、これからカラオケに行って、皆ではしゃいで、晩御飯も一緒に食べて、そういう、素敵な一日なのに……

「ちょっとっ、あんたさあ!」

 知美がキレた。玉世にずかずかと歩み寄る。胸倉を掴んで揺すった。

「恋人にそんなこと言う奴があるかよ! ……そんなひどい選択させる奴があるかよ!」

 人々の心を燃やし、導く火の使徒。本気になった知美の剣幕は常人なら直視することすら耐えがたいものだった。しかし、玉世は全く動じない。

「怒るのはいいけど、君が何をしても俺の考えは変わらないよ?」

 宥めるように、玉世が言う。知美は怒りで体を仰け反らせた。

「理真はあんたの所有物じゃないぞ! 泣いている理真を見て、何とも思わないのかよ!」

「思うよ。心が痛い。でも、泣けなくなるよりずっといい」

「なんだよそれ! 私は恋人だったら泣かせるなって言っているんだよ!」

 知美は右手を玉世の顔に突きつける。

「理真をあんただけのものになんてさせない! 理真があんたを選んでも、私は学校で理真に会いに行く。拒まれたってずっと行ってやる! あんたの考えなんて、私には関係ないんだからな!」

 知美は熾烈な口調で宣言した。

「…………なんだよ。その顔。私の話聞いてんのか!?」

 このとき理真は見ていなかったが、もう変わることがないと思われた玉世の表情が、また変わっていた。驚きと、恐れと、哀しみを孕んだ顔だった。

 返答のない玉世に、知美が奥歯をギリギリと鳴らす。どうしてやろうかと考えていたその時、遠方から、魂を震えさせる、鳴ってはいけない地鳴りが轟いた。

「……なんだ?」

 周りの人々も皆、萎縮して足を止めていた。

 知美の携帯が震える。玉世を一度睨んだあと、舌打ちして手を離す。携帯に届いたメッセージは清嗣と火の使徒を登録したグループに来たものだった。使徒だけのグループもあるが、清嗣も入っているグループは清嗣以外が最初に発信することはない。知美が急ぎ、それを開く。発信者は、やはり清嗣だった。


「……な、んだ? ……それ……」


 画面に表示された非現実的な内容を見て、知美が現実を手繰るように言葉を漏らす。灯を見ると、そちらにもメッセージが届いていたようだ。おそらく水の覚者が発信したものだろう。灯も驚いた様子で知美を見て、頷く。

 画面にもう一度視線を移す。踊る文字を上から再度読み直す。


『 風の覚者が導きを開始した。各員、成すべきと思ったことをせよ。 』


 聞いたことのない風の覚者という存在。だが、送信者は清嗣だ。間違いではありえない。となれば、使徒として動く必要があった。

「こんなときに……!」

 玉世と理真をもう一度見る。地を見つめて震えている理真と、何を感じたのか分からないけれど、哀しみの表情を浮かべている、謎めいた玉世。

 話はまだついていない。これからの予定もまだあった。でも、使徒として、行かないわけにはいかなかった。

「ごめん理真。清嗣さんから命令があった。行かないと」

 理真がそこで顔を上げる。追い縋るような目を一瞬だけして、頷いた。

 その姿に知美の中で居た堪れない疼きが駆け巡った。

「ごめん! でも、私たちは友達だ! 絶対誰がなんと言おうと、友達だ! だから。いい。今はとりあえず、恋人をとって、後は言うことを聞かなければいい。私たちは同じ学校なんだから。学校で、また会おう!」

 そう言って、知美は踵を返す。

「灯、一緒に行こう」

「うん。……理真! 私も、絶対に友達だから。また、学校で!」

 灯も理真に想いを伝えて背を向ける。知美と共に駆け出した。

 二人の姿を、理真は子を見送る疲れた母親のような視線で追う。視界から消えると、ピクリと体を動かした。

「いかなくちゃ」

 理真は呟いた。

「理真?」

「清嗣さんに呼ばれたってことは、そういうことだ。私も行かないと」

 使徒としての責務を果たしに行く。そして多分、それはさっきの轟音と繋がる。身の危険があることかもしれない。友達として、助けに行かねばならなかった。

「待って」

 二人の行った方へ駆け出そうとする理真を、玉世は腕を掴んで制止した。

「ダメだよ。理真。行っちゃダメ」

「離して……!」

 理真はヒステリックな声を上げて、掴まれた腕を振った。玉世は離さず、理真を背中から抱き寄せる。

「なら、先に答えを聞かせて? 俺を選ぶの? それとも、友達を選ぶの?」

 理真の耳元に口を寄せる。

「友達を選ぶなら、お別れだよ」

 憐憫を誘う、甘い声だった。密着した体の温かさが、幸せな選択を明示していた。

「…………ふざけないで……」

 理真は怒りを噛み殺すように漏らした。

「ふざけないで!!」

 激昂して振り返る。

「私は貴方のものじゃない! 私のすることは! 私は二人の所に行く。私を守りたいなら付いてきなさい! 私を守れないなら、貴方なんていらない! 何処へとでも消えるがいいわ! 私が選ぶんじゃない! ! 私と居たいなら、!」

 理真が掴まれた腕を思いきり振る。玉世の腕はすんなりと落ちて、垂れ下がった。玉世は棒立ちになって、無気力に地面を見つめていた。

 理真は構わず、踵を返す。知美と灯が向かった方へ、走り出した。

 背中にかかる声はない。追ってくる足音もない。

 玉世は付いてこなかった。


  ***


「音のした方、こっちで合ってるかな?」

「多分。私もこっちから聞こえたと思うけど」

 理真に別れを告げてから、二人は轟音のした方へと走っていた。風の覚者の導きによるものだという保証はないけれど、メッセージが送られてきたタイミングから見て間違いないだろう。

 灯にメッセージを送ったのは、やはり水の覚者だった。意図する内容が同じであることも確認している。

「理真……大丈夫かな……?」

 思い起こされるのは、別れる前に見た追い縋るような瞳だった。

「心配だけど、使徒の使命を果たさないわけにもいかないわ。切り替えましょう」

「そんな言い方……」

 知美は途中まで言って、灯の表情を見た所で言葉を止めた。

「大丈夫よ。理真だもの。明日学校でたくさん話しましょう?」

「…………うん」

 灯の言葉に、知美は神妙に頷いた。

 その時、再び心を萎縮させる轟音が響く。知美と灯に緊張が走った。

「ねぇ、風の覚者の行動って何してるの!? 怖いんだけど」

「私にも分からないわ!」

 焦燥感に駆られて、語気の強い言葉で言い合った。

 音の正体もまだ判然としない。でも、聞く者に恐怖を与える音だ。足を止める周囲の人たちの様子も警戒から怯えに変わり始めている。

「なんか嫌な予感がする。灯、乗って!」

 知美の提案に、灯は意図を理解して頷く。知美が止まり、灯が背中に飛び乗った。

「じゃあ、行くよ!」

「うん!」

 知美が灯を背負って走り出す。そして、異能の力を行使した。

 火の使徒に与えられた力、物の動きを加速させる力だ。知美が人にあるまじきスピードで地上を駆け抜ける。

 道行く人が驚いて見る。知美は人を縫うように、あるいは頭上を飛び越えながら、音のした方へ疾走した。

 次第に、進行方向から逃げるように走ってくる人々の姿が見え始めた。それで、向かう先は間違いでないことが分かる。しかし、

「穏やかじゃないね」

 知美が呟く。先に進むほど、人の顔に真剣味が増してくる。怒号が飛び交い避難を呼びかける声が響いていた。二人は逆走を見つからないように跳躍し、建物の屋上を伝って走った。暫く走って人の姿が見えなくなった頃、大通りに降りてその先を進んだ。間もなくして、轟音の正体を知る。

「なんだよ……これ」

 知美が呟き、灯は絶句した。三十階ほどのビルが車道を横断して砕けていた。鋭角的に切断された断面は美しく、ビルの構造を展示しているかのように晒されている。

「これ、中に人がいたりするんじゃないの?」

 知美の呟きに、灯が真っ青になった。

「た、助けないと……!」

 知美の背中から降りようと身動ぎする灯を知美が止める。

「……いや、無駄だろう。こんな壊れ方じゃあ、入ることもできない。人がいても、物に潰されて即死だよ」

 建物の骨格は残っているものの、地面側は瓦礫や飛び出たオフィスの机などで何も見えない。入るとしたら上からになるが、物に潰されず人が生きている可能性は限りなく低い。

 知美はビルに近づいて建物内に意識を向けてみる。動きを加速することができる能力から、周囲の動きを認識する力も有していた。しかし、生命活動らしい動きは微少で、手遅れのものしかなかった。

 知美は改めて、沈痛な面持ちでビルを見上げた。

「知美、この先は?」

 灯が恐怖に駆られた様子で聞いた。知美はハッとする。

 横倒しになったビルで先の光景は見えなくなっている。ここまで来た道に荒れた様子はなかった。この先の状況を考えて胸がざわつく。

 知美は再び力を使って倒壊したビルの上に飛んだ。そこから先の光景を眺める。

「……ひどいな」

「…………こんな、こんなのってないよ……」

 晴れ渡った青空と、清々しい陽光。その下で、夥しい鮮血の赤が照り輝いていた。赤と青のコントラストは美しく、しかし、肯定的な感動は微塵も起こらない。

 無傷な物が稀な建造物群と瓦礫、車、地上の五分の一ほどを占有する骸、半分を染める鮮血、そして、数人の生者。

 その場で呆然と座り込む男、顔を押さえて咽び泣く女。物に変わった母の肩を喚きながら揺らす子供――それらが、凄惨な光景に花を添えている。

 灯が堪らず知美の背中から降りる。ビルからも飛び下りて、母の骸を摘まんで泣く子供を抱きしめた。

 灯に抱かれた子供は、次第に落ち着いて泣き止んだ。その後間もなくして眠りにつく。水の使徒の力で心を鎮めていた。灯は涙を散らしながら振り返る。次は咽び泣く女の元へ行き、肩を抱いた。女の涙は止まり、不思議そうな顔で灯を見た。

「……何が起こっているの?」

 灯を信頼できる人間と見て、女が不安げに聞いた。

「分かりません。何があったか、聞いてもいいですか?」

 灯が率直に答えて逆に問うと、女は困ったように目を動かした。

「人が、…………やっていたように見えました。どうやってやったのかは分かりません。でも、そう見えて、幻覚……ではないと思うのですが」

 常識からは考えられない光景を女性は躊躇いながら話した。女性の言葉で風の覚者、及び使徒の行動だと断定する。

「多分、幻覚じゃないです。どんな人でしたか?」

「男の子です。十代前半くらいの。気味の悪い、仮面をつけていました」

「分かりました。ありがとうございます」

 立ち上がる灯に、女性が声をかける。

「あの、私はどうしたらいいんでしょう?」

「取りあえず、救助の人達が来るまでここにいてください。あと、この子をお願いします」

 灯は隣に置いていた眠った子供の肩に手を置いて言った。女性は頷いて了承した。

 灯は女性に頷き返して立ち上がる。視線を先へ向けると、同じような凄惨な光景は果てまで続いていた。灯の顔が悲痛に歪む。

「灯」

 知美が呼んで、灯の肩に手を置いた。

「水の使徒としての気持ちは分かる。視界の果てまでいる人を助けたいだろう。でも、今はそれをするべきじゃない」

 静かに、言い聞かせるように知美が言った。灯が体を震わせ、激情に耐える。

「風の暴走を止める。いい?」

 一拍を置いて、灯が頷く。灯に宿る闘志を知美が文字通り燃やす。頬に残った涙を払って、灯は行く先をキッと見つめた。

 知美はコートを脱いで道路の端に置いた。やることは定まった。不要な物は置いていく。

「行くよ」

 知美の背に灯が乗る。そして、知美は全力で走りだした。

 知美は今までとは比較にならないスピードで駆ける。地上にはまともに足を付けず、火傷しそうな程の摩擦熱を灯が放散させる。景色は瞬く間に変わり一分足らずで逃げ惑う人々と目標を捉えた。

 女性の話に聞いていた少年だ。栗色の髪と小柄な体躯。顔には嘴のように鼻の尖った仮面をつけている。今まさに人殺しの真っ最中で、皮肉にも血風で居場所を突き止めた。

 少年の近くにいた少女が恐怖で足をもつれさせ、尻餅をついた。その少女を少年が見る。目が合って、少女の体が小刻みに震え始める。少年がニタリと笑い、少女に腕を振り下ろそうとしていた――そこに、


「 チェストオォォ!! 」


 弩となった知美が拳を振るう。知美が眼前まで迫った時、風使いの少年が接近に気付いた。少年が上体を捻り、風の防壁で逸らそうとする。しかし避けきれず、知美の拳は少年の右肩に直撃した。知美の手に骨の砕ける感触が返った後、少年の体は錐揉み回転をしながら三十メートルほど飛んでいった。少年が落下すると、逃げ惑っていた人々の悲鳴が咲き乱れ、人波が割れた。

「大丈夫だった!?」

 知美が狙われていた少女に声をかける。少女は口を絞りながらコクコクと頷いた。

 まだ十歳くらいの女の子だ。こんな子にまで手を出すのかと、知美が悲しみと怒りで目の周りを歪ませた。

 灯が知美の背中から降り、少女を抱きしめて落ち着かせる。

「立てる?」

 灯が優しく聞くと、少女は首を縦に振った。

「ここは危ないからあっちへ行って?」

 灯は具体的な方向を指して、少女が戦場から離れられるように指示を出す。少女は頷いて走って行った。すると、

「いったいんだけど。ああ、痛ぇ」

 悲鳴や怒号の中で浮く、間延びした声が届いた。

 知美に殴られた少年が右肩を押さえながら半身を起こす。煩わしそうに仮面を取った。血色のいい、少年の顔が現れた。

「ああ、もう肩動かないよ。痛くて死にそう。これで活動するの? 勘弁してよー」

 少年が悲しげに右肩を労わる。少年の言葉に、知美の怒りが一瞬で沸点を超えた。

「 ふざけるなよ! お前!! 」

 怒りが収まらず、顎が勝手に言葉を吐きだす。

「何が痛いだ! 死にそうだ! お前何人殺してやがる!!」

 知美の大音声に少年は片耳を押さえる仕草をする。

「知らないよーそんなの。適当にやってるし」

 少年は悪びれもせずに答えた。

 知美は無言で足元の瓦礫を手に取る。振りかぶって投擲した。大砲に匹敵するような威力のそれを少年は身を倒してあっさり避ける。

「こっわ!」

 少年は目を剥いて知美を見つめた。それから嘆息して、言い聞かせるように話し出す。

「そんなに熱くならないでよ。これも覚者の導きなんだからさ」

 少年の言葉に知美は顔を歪めて奥歯を噛みしめた。

「……あんたの覚者はどんなつもりでこんなことしてるの……!」

「そんなの決まってるでしょ。覚者の動く理由は一つ。『世のため人のため』だよ」

「人殺しが人のためだと言うのか、お前の覚者は!」

「そうだよ?」

 少年は何の矛盾も感じていない様子で答えた。億劫そうに立ち上がりながら続ける。

「こっちには大義がある。だから構わないでくれない? 腕の事、謝れとは言わないからさ」

「いてて」と立ち上がった拍子に響いたのか、少年は腕を庇う仕草をした。調子のいい少年の言葉を知美は無視して問う。

「何でこんなことできるの……人として、何とも思わないのか!? もし清嗣さんに言われたって私は絶対にこんなことしない!」

 知美の言った『清嗣』を覚者だと判断して、少年は「んー」と考える様子を見せた。そして、答えを出す。

「愛に裏切られたから、かな」

 少年は知美と視線を合わせて続ける。

「うちの人間はみんな何か抱えているんだよ。親に捨てられたとか、虐待にあっていたとか、子どもを殺されたとか、血の繋がらない子どもを育てさせられていたとか、いじめにあっていたとかね。そういう愛に見放された者達が風の使徒に選ばれている」

 少年は目を閉じて、穏やかに笑う。

「人を愛したくて、愛されたいのに、うまく愛せない人たち。それが僕らさ」

「ふざけたことを!」

 自らの行いを正当化しているような物言いに、知美は堪らず糾弾する。

「自分が不幸であることが、人を殺していい理由にはならないぞ!」

「だから、覚者の導きだって。僕らは……あー、少なくとも僕は、人を殺したくて殺しているわけじゃないんだよ?」

 少年は仲間の姿を思い出して言い直した。

「そもそも風の覚者の導きってなんなんだよ! 人のために人を殺すって、矛盾しているにも程があるぞ!」

 少年は「はぁ」と面倒臭そうにため息をつく。

「『人は生きるために欲を持つ。欲のために生きているわけではない』それが、うちの主が行動を起こす前に言った言葉だ」

「分かるように言って」

「人に聞く前に考えてくれないかなぁ。要するに、欲の在り方を、『生を前提とした楽しみを与えてくれるもの』から元来の、『生を繋ぐためのもの』に戻そうって話」

「それがどうして人殺しと繋がる」

「死が身近にあれば生きることを考えるようになるだろう? あんたは空襲が来てるときに屋外でバーベキューとかやっちゃうの?」

 少年は嘲笑って答えた。

「まったく。風の覚者が僕たちを使徒にした理由がもう一つ分かったよ。あんたは生に対しての考えが全くない」

 覚者が動いている以上当然だが、知美は少年の言葉に纏まった思想を感じた。そして語る内容について批評する知識が自分の中に全くないことを自覚する。理解するために、少年から聞き出す必要を感じた。

「まだ疑問は残ってる。そもそもなぜ欲の形を戻さなければならない」

 少年は欲の在り方を、生を前提とした楽しみを与えてくれるものから生を繋ぐためのものに戻すと言った。しかし、生を前提とできているほど満たされているのなら、そちらの方がいいと知美は思った。

「得ることと得ていることは別だからさ」

 少年は球を打ち返すように即答した。その言葉に理解を求めず、少年は続ける。

「死の近さと生への執着は比例する。何もかもが得られる世界を想像してみてよ。行動の意味を失う。行動で欲を満たすことをしなくなれば、生きる意味すら失う。死が遠くなるほど生は希薄になる。生の完成は死と同義だ」

 少年の言っていることに関して、知美の中に実感はない。でも、何か聞いてはいけないものを聞いているような気がした。

 知美の顔色が悪くなっていた。少年は尚も言葉を重ねる。

「あんたみたいに生に対しての考えがない奴がたくさんいるとどうなると思う。食に対して命を貰っているという感覚が無くなり平気で食べ物を粗末にする。死が遠すぎて次の時代に子を残そうという思いが無くなり少子化が進む。そして――」

 少年が、毒のある笑みで言った。

「――覚者が増える」

 知美と灯は目を剥いた。少年は嗤う。

「分からない? 欲を失った人間は覚者そのものだよ。最近は若者を悟り世代なんて言う者もいるらしいが、言い得て妙だよねぇ。もちろん、覚者には相応の資質がいる。大量に生まれるなんてことはないけれど、これまでよりずっと生まれやすいだろうさ。現に三人もいるわけだからね。そして、世界はよくできているよ。人が人であるために覚者が生まれるようになるんだから。人の欲っていうのは上を目指し続ける。立ち止まったり、戻ったりはしない。だから、調整役が必要なんだ。人ならざる超越者が。それこそが“覚者”。調整こそ“導き”だよ。進み過ぎた社会は物の時代から心の時代へ転換を成さねばならないんだ!」

 少年は、風のように清々しい笑みで続けた。

「そして今、風の覚者はこの惨状を引き起こすことにした。生き物の本質は食と交配で遺伝子を繋ぐこと。それを脅かすものが無ければ生物は行動する意味がない。この人殺しは人を生かすための行事だよ」

 顔を真っ青にした知美が、自分の中にある物に縋る。十七年育んできた倫理を掴んだ。

「相手は人間だぞ。そんなこと、許されるわけない!」

「それは人間基準の考え方だ。人間なんて現象でしかない。動植物と何が違う? 生きる為に栄養をとって、子を作る。同じものだ。冷蔵庫で賞味期限が切れて捨てられる存在と同じだよ」

「そういう話じゃない! お前は人間だろう! 人の身で、人を殺すなんてしてはいけない!」

「最初に戻ろう。僕たちは倫理に捨てられたものだ。なぜ今更拾う必要がある? そして、僕らを導く覚者は人ではない!」

 少年の言葉に、知美が押し黙る。俯き、否定するための正義を探す。

「覚者が人を殺すのか? 人を導く者じゃなかったのか? それじゃあ、悪者じゃないか」

 自分の信じていたものが別の好ましくないものにすり替わるような感覚に、知美は奥歯を噛みしめて震えた。

「覚者が導くのは個人ではない。人類だ! そもそも、覚者が善なる存在だとでも思っているのか? この行いが悪で、覚者が善だと言うのなら、彼らは止めに来るはずだろう。君の知る覚者が人の命を守るものだと言うのなら、風の覚者は火の覚者に止められて終わりだよ!」

 少年は左腕を広げて高らかに謳う。

「前提を違えるな! “善悪の知識の樹”は僕たち人の子が選んだものだ!」

 知美が虚脱感に襲われる。足元がふらついた。少年の言葉に筋の通った一貫性を感じてしまった。考えても考えても、彼の主張を否定する言葉は浮かんでこない。

果たして、今ここで少年と戦うことは正しいのだろうか、知美は行動の理由を見失って立ち尽くした。

「何を迷っているの?」

 スッと通る、ぶれの無い声が知美にかけられる。今まで沈黙していた、灯だった。

 灯の様子は知美と対照的で落ち着いていた。その立ち姿に何の迷いも見られない。

「清嗣さんから届いたメッセージ、忘れた?」

 灯の言葉に、知美はハッとして目を剥いた。

――『 風の覚者が導きを開始した。各員、成すべきと思ったことをせよ。 』

「…………はは」

 知美から、乾いた声が漏れる。

 そう。何も考える必要なんてなかった。相手の考えや主張を真に受ける必要なんてない。知美は火の使徒で、火の使徒なら何をするべきか、それだけを胸に秘めて行動すればいい。

 知美の様子を見て、少年は肩を竦めた。風を纏って、準備する。

「お前らの論理は分かった。でも、私はそれを許容できない。悪いけど、狩らせてもらう」

 知美は準備運動をするように足元に炎を舞わせる。意思を持つ炎の、美しい演舞だった。

「もう誰も、傷つけさせない」

 灯はビルの壊れた水道や空気中から水を呼び寄せる。水中に手を突き入れ、細かな瓦礫を混ぜながら、小さな盾と細剣レイピアを錬成した。

「開戦と行こうか」

 腕を突き出して宣告する知美に、少年は不敵な笑みを返した。


***


 理真は二人を追って走っていた。

 皆が不安に足を止め、もしくは音のする方から離れようと歩く中、理真は轟音が鳴り響く方へ逆走する。反響しているのか、複数個所で起こっているのか、音はあちこちから聞こえてきた。とりあえず、一番明確な音がした発生源へ向かっていた。

 走っていると、前から走って逃げてくる人達の姿が見え始める。避難を呼びかける声もあったが無視した。そういうレベルの事態とだけ覚悟しておく。

 玉世はなぜあんなことを言い出したのか。二人を追っている間、そのことを考えていた。

 玉世は理真に友達ができたことを喜んでくれた。自分と会う回数を減らしてでも、友達を大切にするよう言ってくれた。でも、今日、実際に友達を見て、もう会うなと言った。それも今まで見たことがないくらい意固地になって。それを言ったら、理真が傷つくことは分かっていたはずだった。なのに、それをした。実際に涙を流し、傷付いている姿を見ても、その態度は変わらなかった。最初に動揺した姿を見せたきり、微笑を固定してしまった。

 玉世が別れろと言った理由。それは玉世の反応を見る限り、知美と灯が使徒だったからだ。理真が使徒という言葉を使った時、玉世は確かに反応を示した。使徒の友人にどんな弊害があるのか知らないが、玉世は使徒という存在を知っていて、それが理由で理真に別れるよう言ったのは間違いなかった。

 使徒と友達になってはいけない理由とは何か。それは、今回の知美と灯の招集にも関わることではないだろうか。

 例えば、死の危険がある。それを自然に思わせるほど、今聞こえてくる轟音は非日常のものだった。友達が死んで悲しくなるから、理真を使徒から遠ざけたかった。もしくは、理真は今やっている通り、友達のために、ただの人の身で、使徒の問題に首を突っ込むから使徒から遠ざけたかった。

 しかし後者なら、なぜ玉世は今理真を追って来ないのか。

 理真のために命までは張れない。そういうことなのかもしれない。それを責めることは、理真にはできない。命を懸けて自分を守れとは、さすがに言えなかった。

でも、理真が今まで見てきた玉世なら、理真を命がけで守ってくれる姿の方が、腑に落ちた。でなければ、玉世の理真を思う気持ちは理真が友達を思う気持ち以下ということになる。それは考え辛く、また認めたくもなかった。

 明確な理由は思い浮かばない。しかし、命に関わることだとは思った。今、命がけで理真は友達を追っている。それほど大切な友達を命以外の軽い理由で別れろとは言わないだろう。それももちろん、理真が友達をそこまで大事に思っているとは思わなかったと言うなら話は変わるけれど。

――玉世とはどうなってしまうんだろう。

 理真は玉世の選択に答えなかった。そして、友を追っている。玉世の中では、玉世よりも友達を選んだということになっているかもしれない。

 理真はたとえ身の危険があっても知美と灯を諦めるつもりはなかった。でも、玉世も諦めたくない。玉世は理真にとって、掛け替えのない光だった。玉世なくして人生なんてないと思える程、大切なものだった。結婚の話もした。子どもの話までした。そんな相手だった。それでも、玉世の一方的な話を聞き入れるなんてできない。理真の幸せに反することだから。どんな理由があっても、説明を聞かずにあの要求を呑むわけにはいかなかった。

 頭の中で『もう会わない』というフレーズが鳴る。それが、胸に突き刺さる。でも、理真が玉世を思うくらい、玉世が理真を思っているのなら、理真を求めて、話し合いを望んでくるはずだ。そこに温度差があるなら、受け入れたくないが、どのみち破綻する関係だったのだろう。

 再び、遠方から轟音が聞こえた。理真は現状を思い出し、頭を切り替える。

 人の姿が見えなくなってから暫く走っていると、大通りを横断するビルが現れた。音の正体を知って、理真は愕然とする。倒れたビルが元々あったと思われる場所に目を向けると、何か機械で切られたように綺麗な断面をしたビルの根元があった。どうやってこれをやったのか。人の力か、使徒の力か、どちらにしろ、知美と灯がこれをやった犯人と戦いに行ったのだとしたら、命の危険があった。

 知美と灯に自分は何ができるだろうか。理真はそれを真面目に考えた。理真はこの場を目にしても、自分が何もできないなどとは思わなかった。

 理真はビルで遮られた向こう側へ行くために、根元が残ったビルの裏を回って出た。そして、絶句する。

 一面を染める赤。初めて見る零れた内臓。恐怖で固まった事切れた顔。そして、狂った生者たち――。それが、道の先まで続いていた。

「……酷い」

 失意と吐き気でふらついて、すぐに立て直す。知美と灯はこれを行った存在を追っているはずだった。二人の身に起こりうることが目の前に示してある。急がなければならなかった。

 ふと、理真は視線を感じて振り返る。そこに一人の女性の姿があった。傍らに子供を置いている。他の人とは雰囲気が異なり落ち着いていた。同時に、理真を警戒する様子も見て取れた。

 理真は思い切って言葉をかけてみる。

「すみません」

「……はい」

 会話ができて、理真が歩み寄る。女性は警戒しつつも逃げることはなかった。

「何があったか、聞いてもいいですか?」

 理真の様子に女性は警戒を緩めて頷いた。小さな声で、しかし明確に伝える意思を持って言った。

「突然、十代前半ぐらいの仮面を着けた男の子が現れて、人を殺し始めました。どんな手段を使っていたのかは分かりません。でも、一人で、ここの人たち全員をやったんです」

 清嗣たちに会う前の理真なら、何が起こっていたか見当もつかなかっただろう。しかし、今の話を聞いて、使徒による犯行だと確信する。しかし、使徒は火と水の属性しかいないはずだった。知美と灯から話を聞いた限り、水は争いを生まない。戦うとしたら火だと、知美は以前語っていた。ということは、火の使徒の謀反か、新たな覚者が出現したということになる。前者であれば、きっと知美と灯は死なないだろう。火の使徒に対して、同じ火の使徒と属性的に優位な水の使徒が組んでいるから。しかし後者なら――

 新たな覚者の出現。そしてこの大々的な行いに一致するのは、“導き”。覚者の導きが行われるとき、使徒の力も跳ね上がると言う。それは属性の相性差を越えられるほど。理真の頭に、知美が携帯を開いたときの愕然とした表情が浮かぶ。理真は根拠のない確信を抱いた。

 ふと、道の端にベージュのコートが置いてあるのを見つけた。その見た目に既視感を覚える。理真は再度女性に意識を向けた。女性の話からはすでに誰かに話したような慣れを感じた。一人だけ落ち着いたさまも加味して、もしかしたらと聞いてみる。

「ここに、二人の女の子は来ませんでしたか? 高校生くらいの」

 理真が問うと、女性は目を剥いた。

「はい。来ました。私とこの子はその人たちにここにいるよう言われたんです。不思議と、安心感を与えてくれる人でした」

「どこに向かったか、教えてくれませんか?」

 理真の急くような声に、女性は大通りを真っ直ぐ指した。

「真っ直ぐ、あっちに行きました。ものすごいスピードで」

「ありがとうございます!」

 知っている限りを伝えようとしてくれた女性に礼を言い、理真はすぐに走り出した。

 何ができるかを考えながら、とにかく今は、二人の元へ辿り着くことが先決だった。

 できるだけ道の黒い部分を選びながら、理真は道を急いだ。


  ***


「でぇや!」

 ラフに構える少年に、知美が襲いかかった。

 知美は一瞬のうちに少年の眼前に迫る。少年の右肩を粉砕した時より加速はないものの、灯がいない分、初速が速かった。

 放たれる拳。しかし少年はこともなげに観察し、最小限の動きでそれをいなした。

不意打ちでなければ、少年もまともに受けることはない。背中を見せた知美に少年は蹴りを放つ。その瞬間、知美の体が急速に回転した。左足を軸にし、常人では形にならない右の回し蹴りを加速の力で強引に放つ。そして両者の足が空中でぶつかる。接触面から、互いが互いの異能で直接体内に干渉しようと試みる。しかし、力が拮抗し、互いに物理的な衝突で終わる。

 切り替えが速いのは少年で一度後ろに飛び退いた。

「力比べで五分か。余裕……っと」

 少年がコメントしている隙に、灯が後ろから細剣で突きに行った。気付いた少年が片足を軸に反転して躱す。回転の勢いでそのまま手刀を放つ。灯が左の盾でそれを受けた。

「これは、どうっ?」

 言下、風の刃が八方から幾重にも重なり灯に襲い掛かる。不可視のそれに灯が気付き、適応の能力で風の刃を呑みこむ。少年は尚も攻勢に出た。重力に捉われない泳ぐような動きで灯の頭上をとる。踵落しを放った。灯がすんでの所で盾での防御を間に合わせる。細剣を手放し、その足を掴む。少年は笑って異能の力比べに乗った。対する灯も、してやったりと笑みを浮かべる。

「――っ!?」

 少年があっさりと負けた。呑まれそうになり、急ぎ左足で灯の腕を蹴り飛ばす。

「痛っ」

 足を掴んでいた灯の腕が折れて、手が離れる。少年は宙に浮いて、二人の位置を確認できる場所で滞空した。灯はその間に折れた腕を水の異能でくっつける。

「属性の不利がないから油断したよ。風の属性で力比べなんてするもんじゃないね」

 少年は冷や汗を流しながら言った。

 基本的に力が強いのは地水火風の順番だ。対して、素早さは風火水地の順番になる。冷静に考えれば、知美と力が拮抗していた時点で水の属性を持つ灯に真っ向から勝てるはずがなかった。しかし、

「でも、分かったよ。君らじゃ僕を倒せない。使徒であることに免じて、今なら見逃してやってもいいよ?」

「ぐだぐだうるさい!」

 知美が石を拾って投げつける。

 少年は躱して笑みを刻んだ。

「じゃあいいよ。踊れ!」

 少年が知美目がけて急降下した。知美はそれを迎え撃つ。

 少年は接敵の直前に風の刃を放つ。知美は乱流を捉えて一方に加速させ霧散させる。続けざまに来る少年に拳を放つ。しかし、知美の拳は当たらなかった。少年は直前でピタリと制止し、伸びきった知美の腕を蹴り飛ばす。上体のそれた所で上から背中を蹴り抜けた。

「――っ!?」

 知美が背中の痛みに顔を歪ませた。ずきずきとした痛みが、呼吸のたびに襲ってくる。

 風の力の本質は大きく分けて自由と成長。過剰な成長が皮膚を破壊し腐らせていた。

 蹴りあった時は拮抗していたものの、今回は不意打ち。加えて人の意識的に手先や足先等の末端部の方が発動できる力の出力は上がりやすい。そのため、知美は侵入する風の力に抵抗することができなかった。

 苦悶の表情を確認して、少年が容赦なく接近する。知美は構えるだけで走る激痛に脂汗を流した。

 知美が拳を突き出して迎撃する。少年は掻い潜って腹を殴る。知美が対応しようとすれば関節を殴って妨害する。直接異能では攻めず、そのまま打撃で翻弄した。

 動きを加速させる火の力は直線的な速さであれば風に勝る。しかし、曲線的な動きや力の発動、細やかさにおいては風に軍配が上がる。条件が同じならば火が優勢になるが、加護の力が加わるといいように翻弄されてしまう。

 それでも、少年は知美が破壊した右腕を使えないでいる。痛むのか、動きも細やかながらどこかぎこちない。そのことが辛うじて勝機をちらつかせた。

「後ろ! 全力で跳んで!」

 灯が叫んだ。知美はその言葉を信じる。力のコントロールを考えず、全力で後ろへ飛ぶ。灯はそれをしっかりと抱き留めた。知美の頭を膝の上に乗せ、すぐに回復へ入る。

 少年は灯にさほど注意を向けていなかった。深追いはせず、風の刃だけ悪戯に放つ。知美が散らして、灯の力は知美の回復に専念してもらった。

「大丈夫?」

「痛い」

「背中もすぐ直すから」

 灯の顔が、子どものころ怪我をして心配してくれた母の姿と重なる。

 そんな、一生懸命に回復させてくれる灯に、知美は場違いにも嬉しくなった。

「なに笑ってるの?」

 灯に非難され、笑っていることに気付いた。

「いや、嬉しくてさ。灯に守ってもらえるの」

 口にして自覚し、知美は清らかな笑顔で灯を見上げた。

 昔はただ一緒にいただけの間柄だった。多分その時でも、こういう状況になって一緒にいたら、共闘はするのだろう。でも、灯はこんな心配そうな顔で、知美を思ってくれることはなかったはずだ。知美にはそれが嬉しく、また頼りになるとも思った。目の前の強敵に対し、がむしゃらに抗おうとはせず、二人で勝ちに行こうと思えた。

 知美の様子に、灯からも笑顔が零れる。

「当然でしょう? というか、完全に分断されてるわ。私が追い付けないと見て一人一人倒そうとしている」

「うん」

「考えがあるわ」

 自信に満ちた瞳で灯は言った。

 灯は口元に手を当てて、少年に知られないよう小声で話す。

「……いい?」

 灯の話を聞き終え、知美は頷いた。

 二人の目の色が変わったのを見て、少年は追撃を止める。目先の勝利よりも好奇心が勝った。

 十分に回復し、知美と灯が立ち上がる。二人は凛とした目で少年を見据えた。

 知美が火の力を振るう。それは少年ではなく、二人の隣の地面だった。全力で行使された力は瞬時に三立方メートルほどを灼熱の溶岩へと変えた。熱波だけで焼け焦げそうな中、灯がその溶岩の前で膝を着き、中へ手を突き入れた。数秒の後、腕がゆっくりと引き抜かれる。その細腕の先から伸びるように、黒い物体が現れた。それは水の力で纏め上げられた、一メートルほどの黒い剣だった。知美にそれを渡す。その後、灯は再度溶岩に手を突き入れた。次に引き抜かれたのは一片が五十センチ程度の三角形の黒い盾だった。それも知美に渡す。最後に、自分用の小さな盾を二つ引き抜いた。灯はそれに水を纏わせ、両腕に嵌めた。

 装備品を作り終えた灯は知美の背中に手を置いて、水を媒介に張り付いた。

 知美は重みを確認するように盾を構える。その表面を火の力で発火させる。次いで剣を振り被り、

「よし、準備完了だ」

 発火させ、朱金の剣線を描いた。

 知美の支配を受けた炎は上昇せずに黒剣と黒盾に纏わり付いていた。炎を纏うというより、炎を閉じ込めた朱金の武具のようだった。

 知美と灯の姿に、少年は感嘆交じりの笑みを浮かべた。

「全力で行く。落ちないでね。灯!」

「了解!」

 それを合図に、知美が全力で飛び出した。

「チェストォ!」

 裂帛の気合いと共に破壊の剣を振り下ろす。目を焼くほどの輝きを放ち、少年に襲いかかる。

 少年は横に跳ねて躱した。知美が加速の力で瞬時に逆袈裟切りを放つ。少年は体を鋭角的に倒して斬撃をやり過ごし、そのまま体を矢のようにして盾と地面の間に覗く知美の足に蹴りを放つ。直撃し、知美は体勢を崩して膝を着いた――瞬間、

「――っ!?」

 金色の盾から炎が噴き出した。ビームのように放たれるそれを少年は横に飛び退り辛うじて避ける。少年が二人を見れば、蹴られて挫いた知美の足は灯によって即座に治されていた。知美はすぐに少年へ正対し、右手の剣を突き出す。通常なら絶対に届かない距離。しかし、盾と同じく、切っ先が伸びる。察知して避けるが知美は切っ先を伸ばした状態から剣を振り回した。

 剣線が恐ろしいスピードで跳ねまわる。少年はそれをアクロバティックな身の熟しで掻い潜った。防戦だけに留まることなく、風の刃を生み出して知美たちを八方から強襲する。だが届かない。灯の力で難なく呑みこまれる。

「やるねぇ」

 少年が一度大きく距離をとり、愉快気に呟いた。どうするべきか、値踏みするような視線で攻め方を探る。

 一方、知美と灯は連携の調子の良さに顔を輝かせていた。

「行ける!」

「油断はダメよ」

「分かってる。でも、さっきまでとは全然違う」

 剣を構え、戦闘態勢を作って、知美が続ける。


「二人で戦ってる。支えてくれる仲間がいる。これで負けたら、嘘だ!」


 知美は力強く、無邪気に言った。その戦闘中とは思えない姿に、灯は柄にもなく熱を帯びた眼差しで応じる。

「そうね!」

 窮地に立たされた時の混沌とした迷走する気持ち。その方向性を一本に収斂し、燃え上がらせる。灯は今の知美の姿に火の本質を見た。

 覚者は正義ではないと、少年は言った。でも、知美に見る火は、やはり正義だ。風が混沌としたエネルギーを生み出すものだとしたら、それを纏め上げ、行くべき道を示すのが火なのだ。

「知美」

「何?」

「私たちは正義よ!」

 灯は知美の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。予想外の言葉に、知美は一瞬目を剥き、

「うん!」

 力強く頷いた。

「じゃあ、行くよ!」

「うん!」

 知美が少年へ向かって駆け出す。少年も、知美に向かって距離を詰めてきた。

 そして、接触。

 両者の激しい攻防が始まった。知美が剣を振る。少年は掻い潜って拳を放つ。灯が腕の盾で阻む。知美が膝を突き出してカウンターする。少年はくの字に折れて躱す。知美が盾から炎を放つ。少年は風の防壁を生み出し、それを受け流す。同時に、小さな風の刃を飛ばし、知美の体に裂傷を作る。灯がそれを一瞬で直す。知美が一歩距離を空け、剣の間合いに変えて振り下ろす――

 それらが一連の流れとして、延々と続いた。互いの力は完全に拮抗し、その攻防は時と共に動きの定められた演武のように滑らかになっていった。

 一秒に一分を注ぎ込むような攻防の中、その拮抗状態を破ったのは、戦い方に幅のある方だった。

 少年が知美の体に拳を放つ。灯がそれを盾で阻む。隙あらば吸い付け、動きを縛ろうとしていた水が少年の手を濡らす。少年が牽制の風の刃を放つ。

「つけて!」

 風の刃を防ぎながら灯が言う。少年には何のことか分からず、あらかじめ聞いていた知美には分かった。知美が一歩下がって、

「はあっ!」

 剣に凝縮させた炎を広く包囲するように放つ。攻撃としては稚拙で、少年はあっさり風の力で払った。しかし、

「――っ!?」

 上昇した周囲の温度によって左手が勢いよく燃え始める。灯が先ほど少年の手に付着させた液体はガソリンだったのだ。辺りにはスクラップになった自動車もたくさんある。ガソリンを入手するのは容易かった。灯はそれを少量集め、気化させないように制御しながら盾の下に隠していた。

 少年は成長の力で脱皮のように左手の皮を脱ぎ捨てる。しかし見れば、知美はすでに剣を輝かせ、振りかぶっていた。

「手加減はしないぞ!」

 戦いを終わらせる無慈悲な宣告と共に、知美は躊躇なく、その剣を振り下ろす。

 少年が死を明確に意識した――その時、


「 まだ早い 」


 を見た知美は、青空だったことを思い出す。

 清らかな青空と輝く太陽。視界には入っていないけれど、そのイメージが、網膜から脳内へ弾け、行きわたる。


 ――光を浴びた銀髪が、ふわりと揺れた。


 知美は脈絡なく現れたそれに、一瞬遅れて瞠目した。知美と少年の間、横から仲裁するような位置に、その青年はいた。そして、

「――は?」

 知美の中から力が消えた。剣と盾は突如重くなり取り落しそうになる。剣の火も、コントロールから離れるだけでなく消えていた。

 困惑する知美。未だ重力で少年を切ろうとする剣を、銀髪の青年が知美の手から取り上げる。

「――ガハッ!」

 知美が剣の腹で殴られた。体が放物線を描き五メートルほど飛ぶ。知美が振るえば、その何倍も飛ばせるだろう。使徒の常識からしたら大した力ではない。しかし、能力を使えないただの人間として受ければ、話は別だった。

 能力を使えなかったのは灯も同じだった。知美が剣を振っていた時に水の力が失われ、知美の背中から地面に落ちていた。青年の目の前で、尻餅をついている。

 灯がどうしていいか分からず、青年と見つめ合う。唐突に力が失われた動揺と、戦う力の喪失に呆然としてしまう。

 すると、灯と見つめ合っていた銀髪の青年はおもむろに腕を振った。

「え?」

 異変を感じて、灯が声を漏らす。声帯を動かしたことを機に、灯の体が六つに割けた。

 身長が異様に小さくなって、横倒しになった胴体から赤い霧を噴射する。血の池が広がっていった。

「あ、あかり………?」

 知美がよく分からなくて、その姿を探すように声をかける。

「どこにいるの? ……あ、れ? いないんだっけ?」

 なぜか分からないけれど、正解その物のような気がする肉塊に目が留まる。それを確かめるように、真っ赤な池に近づいた。

「あ、れ……?」

 結局、よく分からなかった。表情のない顔とバラバラの体が人間として結びつかない。

 そんな知美の目の前で、青年と少年が会話を始める。

「これで大丈夫だね?」

「あ、はい。……腕直してくれたら勝てましたけど」

「痛む?」

「めちゃくちゃ!」

「そう。痛みは生を強くする。そのままでいなさい」

「え、えー」

「それは風の使徒が受け入れるべき業だよ」

「……っていうか、良かったんですか? 覚者自ら水の使徒殺して」

「いいよ。次の導きはしばらくないだろうから」

 青年と少年の和やかな会話から、知美は水の使徒を殺したという言葉に引っかかる。彼に殺されたのは水の使徒。でも、ここにいた水の使徒は灯だけのはずだった。もう一度、顔らしきものを見る。――繋がってしまった。

「 あ、あ、あ、あああああぁぁあぁぁあぁぁ!! 」


――ああああああぁあぁぁぁぁぁああああぁぁ!!


 血の海に膝を着いた。肉を集めて抱きしめた。血の温かさにそれすらも望んで身に浴びた。

「灯ぃ! 灯い! 灯ぃ!」

「あかり、なんであかり。……やだ、いやだよあかり。やだやだやだやだ。なんで、あかりが、灯がこんな……」

 血を溢していく灯の肉に喪失感を覚えて、それを防ごうと断面を服に押し付ける。

さっきまで一緒に遊んでいた灯が、理真に編み物を教えていた灯が、歌が得意と語っていた灯が、なんで、こんな姿に、

なんで、

「灯、灯、ダメだよ灯……」

 灯の知らないことが、まだたくさんあった。灯と一緒にしたいことも、いっぱいあった。理真にだって、学校で会おうって、約束したのに、

 知美は顔を上げた。話し相手を求めた。自己が朧で分からないから、誰かと話して、規定しなければならなかった。涙を流す寂しい瞳は目の前の二人に向けられた。

「な、なんでことしたの……?」

 敵ということも忘れて、知美は問いを投げた。

「灯は優しくて、いい奴なんだよ? 私にも、友達って言ってくれてさ。笑顔が優しくてかわいいんだ。灯は。灯は本当にいい子で、……なんで?」

 灯の顔を思い出しながら、知美は語った。悲しみの顔から、温かい笑顔に変わって、最後、形だけの笑顔が張り付く。

「なんで灯を殺したさ! 灯にどんな殺される理由があったっていうのさ! 灯は優しくてみんなを幸せにできる奴なのに。誰にも悪いことなんてしてないのに! なんでなんだよ! 答えろよ!!」

「ここにいる奴大体そうだろ」

 知美の激情に、少年は冷めた様子で自分の作った骸を指した。

「…………ころす」

 黒くて重い、雑に作った鉛玉のような音が零れた。

「殺す。殺してやる! 殺してやるぞ! お前ら!! 絶対殺す。何があっても、絶対殺す! 殺してやるからな!!」

 知美の怨嗟の声に、

「僕に万が一はあっても覚者は無理だ!」

 少年は可笑しそうに嗤って答えた。知美が最速で襲いかかる。

「おっと」

 少年はあっさり躱してしまった。先程までより早く、先程までより荒い。威力は増しても回避は容易になった。少年が嗤う。

「弱くなってるよ? そんなんで殺せるのー?」

「ああああぁぁぁぁぁああああ!!」

 知美は変わらず、必殺の力で突撃した。

「もう獣だな」

 さらに速くなっていたが、比例して単調だった。

「十七時頃撤収するよ」

「はーい」

 風の覚者は使徒の少年に言うと、二人に背を向けてゆっくり歩き始めた。

「に、げ、る、な、お、ま、えぇ!!」

 知美が咆哮を上げて青年の無防備な背中に振りかぶる。

「君の相手は僕だよ」

「ならさっさと死ねよぉぉ!」

 割り込んできた少年に狙いを変え、知美が拳の軌道を曲げる。少年は百八十度近く倒れてそれを躱す。がら空きになった知美の鳩尾に拳を放った。

「があっ!」

 知美の体が宙を舞った。目の前がチカチカと明滅して獲物を捉えようと腕が空を掻く。背中に衝撃を感じて、地面に倒れたことを知る。

「はあっ、はあっ。あかり、あかりぃ」

 背中を打ち付けたと同時に熱意が零れて転がった。痛みに悔しさが混じって涙があふれる。目尻を伝う涙が熱かった。その熱に、生きていることを感じた。

 殺そうとしているのに勝てなくて、嫌になる。寂しくなる。温もりが欲しかった。頑張ったねって声をかけて欲しかった。抱きしめて欲しかった。温かい胸で泣きたかった。でも、それをさせてくれる人はもう冷たくなっていた。敵を前に、えずきながら体を丸めた。

 少年が知美の様子を眺める。いくら待っても慟哭するばかりで、襲っては来なかった。落胆の表情で、肩を竦める。

「もう終わり? いいけど。じゃあ活動再開だぁ。だーれこーろそっかなー」

 少年が人々の逃げたであろう方向に体を向ける。次の瞬間、少年の左腕が知美の右腕を受け止めた。

 少年の顔に喜色が弾ける。知美はまだ涙を流していた。瞳も弱気なまま。それでも奥歯を噛みしめて、右腕を突き出していた。

「今度はやれそう?」

 問いを投げる少年に知美は左腕で応えた。少年は後退して躱した。

 知美の体は使命に突き動かされていた。その体に、ちゃんと自分の意志を乗せる。胸を叩き、その二つを嵌めた。

「私は火の使徒だ……」

 そこにあるのは清嗣から貰った力。誰かの何かになるための力。人のための力。自分の存在意義、そのものだった。

「正義の宣教者だ!」

――私たちは正義よ!

 灯が言ってくれた言葉。その言葉を聞いて立ち上がらないわけにはいかなかった。

「私の命は正義と共にある!!」

 自分に、世界に、知らしめるように、知美が咆えた。

 知美の瞳が、攻撃的な怒りと、戦略的な狩人の冷静さに輝く。

 少年の顔に感動が現れた。

「風の行いは、やはり火を煽る物らしい。……いいよ。やろうじゃない! 君らの悪はここにいる。滅ぼしてみよ!!」

 少年が手を広げて。知美を迎える。

 知美が全速力で横に走る。少年は狙いに気付き、目的地に風の刃を放った。知美は風の刃を殺さず、見極めて躱す。地上に着弾し、上がった土煙を割いて知美が飛び出る。その両手には灯が造った剣と盾が握られていた。

「でえぇやぁ!」

 知美が剣線を伸ばし、少年へ剣を振った。

 少年は避ける。――避け続ける。知美はその場に留まって標的を絞らず、適当に細かく動かした。乱暴なようでいて、相手を追いかけない斬撃は後手に回ることがない。捉えきれない少年に対しては有効に働いた。

 しかし、少年も攻められるばかりではない。明確な隙を見つけては徐々に距離を詰める。肉弾戦では灯がいて拮抗する戦闘力だった。今は一対一。少年が負ける道理はなかった。

 そして、通常の剣の間合いまで互いの距離が縮まる。知美の武器も短くなり火力が増す。当たれば必滅の威力をもっていた。

 少年の接近に対し、知美はしゃがみ、盾で自分の体を隠す。少年は回り込みつつ対角から風の刃を放って隙を作ろうとする。知美は少年との間に盾を構えたまま、風の刃の方には背中から剣を突き立てて炎を広げた。風の刃が炎に呑まれて消えた所で、知美は広げた剣の炎を纏め、回転しながら少年に振るう。後ろに避けた少年に次は盾から炎を吐きだしもう一度舞う。それで、少年の体が遠くに離れた。

 少年が舌を巻く。攻勢を抑えて防御からのカウンターを狙う。戦い方を変えたことで一気に攻め入り辛くなった。しかし、それなら、少年にも戦い方はある。

 再び行われる標的を絞らない斬撃を、少年は掻い潜って知美に肉薄する。知美が盾を構えると腕を真横に引き、強引に剥がした。

 隙を狙うのではなく出力で押す。力比べて同等なのは最初に確認済みだった。

 開いた腹部に膝蹴りを入れる。知美が円を描くように剣を回すと少年は密着してそれを躱した。知美は盾を掴んだ手を離して少年に拳を放つ。片腕を使えない少年はすぐに盾を離して知美の拳を受け止めた。次手が打てず、少年は風の力で舞い上がり、蹴りを当てる。剣の間合いに入って知美が右腕を振るも、少年は再び掻い潜って肉弾戦にもちこむ。盾はもう手放した。知美に防ぐ術はない。知美もやむなく剣を手放し肉弾戦に乗る。少年は片腕のハンデを風の刃を放つことで埋め合わせる。結果、少年の方が優勢になった。

「くっ」

 体力が削り取られ、知美が膝を着きそうになる。しかし、眦を決して踏みとどまった。知美の折れない心に少年の顔が喜びに輝く。その時、


「いやああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 聞き覚えのある絶叫に、知美が声の方へ視線を向けた。

「――なん、で」

 灯の肉塊の前に、理真の姿があった。知美の顔が青ざめる。

 戦闘中によそ見をしている知美に対し、少年も手を止める。ニヤリと笑い、知美の視線の先の少女へ狙いを変えた。

 知美の全身に鳥肌が立つ。

「理真!!」

 知美が声を張り上げる。同時に知美も飛び出した。

 理真が少年の接近に気付く。しかし、もう遅い。

「死ねっ!」

 少年が腕に風を纏わせて拳を放った。腕に返ってきた感触に、少年は笑みを浮かべた。

「だい、じょうぶ……? りま……」

「ともみ、さん?」

 少年の腕は知美の腹に突き刺さっていた。

 呆然とする理真に知美は優しく笑いかける。

「逃げて……?」

 肺にあった息を零すように、掠れた声で知美は言った。

 理真はゆっくり首をふる。

「理真が死んだら、私が死ぬ意味、ないから」

 知美がか細い声で優しく促す。直後に咳き込み、大量の血を口から吐きだした。そして、自らに刺さる腕をがっちりと掴む。

 少年の顔色が変わった。

「刺し過ぎだよ。片腕、貰ってくね」

「いや、ちょ、まっ」

 少年が焦って腕を引き抜こうとする。知美は許さず、火の力を全力で使い、少年の腕を破壊しにかかった。全身は狙わず、片腕だけに集中して。理真が逃げられるように、堅実な方を選んだ。

「う、あぁぁぁぁあぁぁ!!」

 少年の腕が膨張して爆ぜた。激痛に唸りながらも追撃を許さないように風の刃を飛ばす。防御はされることなく、知美の首が飛ぶ。放物線を描いて地面に転がり、噴水が上がった。

「い、やぁぁぁぁぁぁ!!」

 理真はその光景に絶叫した。シャワーのように降りかかる赤い血が理真の顔を真っ赤に染める。

 少年も次手が出せず。腕を失った痛みに地上を転げまわっていた。

「いや、いや、いやぁぁぁぁっぁぁ!!」

 血染めの理真が知美の首を持って体にくっ付ける。でも断面からは血がだらだら流れ出して止まらない。

「あ、あ、あ。止まってよ。お願いだから! 知美さん。知美さんっ!」

 どうしようもないことを理解してしまって、理真の目から滝のように涙が溢れ出す。どうしようもないと分かっていても、首をくっ付けている手は離せなかった。すると、

「もう無理だよ。帰ろう? 理真」

 いつの間にいたのか、理真の後ろから玉世が優しく声をかけた。理真は玉世に構っている場合ではなく、一瞥もしなかった。

 玉世は困ったような悲しい顔を浮かべた。そこには理真に対する思いしかなく、悲惨な周囲の光景や知美の姿には動じる様子がなかった。

「知美さん。知美さん!」

 尚も理真は縋る。首の間からはまだ血が噴き出していた。まだ生きている。一秒でも、一秒未満でも、自分と一緒に生きて欲しかった。

「行くよ。理真」

 玉世が理真の腕を掴んで知美だったものから引き離す。首が取れた。

「――――っ、ぃぃいやゃあぁあああぁぁあぁぁあああ!!」

 理真が絶叫した。

 首が離れた感触が手に残った。べっとりとした血の引きあう力とそれを自分の手で外した感覚。その後右手にかかった首の重さ。直接的な死の感覚に理真が狂う。

「いや、いやあぁぁ! いやぁぁああぁぁぁああああぁぁぁぁ!」

 理真は力任せに玉世の腕を跳ね除けて知美の元に滑り込んだ。体を倒し、右手で首をくっ付ける。腹から零れた腸に左手を置いて知美を真似る。

「はあ、はあ、はぁ。……知美さん……」

 整えられるだけ整えて、理真が一息つく頃には、もう何もかも無駄だと悟った。自分の手の中で首が離れてしまった感覚が、ずっと頭の片側にこびり付いていた。

 生気のない肉が、これは死体だと主張していた。

 腕に抱かれる肉塊から、意識が広がって行く。すると、何故か、この世界の全てが同じもののように見えた。まるで水面のよう。違うものに見えていても、それは水面を揺らす波のようなもので、本質を違えてはいない。地続きで、時と共に変化する同一のものだった。そこから生と死を見てみる。極々微少な対要素であるそれもやはり繋がっていて、何がそれを隔てているのか疑問に思う。やはりそれらは同じなのだけれど、何故違うと思うのか。


――


――――


――コトン。

 理真の中で、喜ばしい気持ちが生じた。心地のいい。微睡があった。

果てしなく広い青空が現れる。それがスッと、理真の元へ降りてきて――


「 ! ! 」


 首が半分浸かった所で、青空が止まった。最愛の人の言葉。最愛? 最愛ってなんだっけ……?

「理真。落ち着いて。玉世だよ。そっちは楽しくない。こっちに戻っておいで」

 玉世が懸命に呼びかけてくる。それで、可哀相だと思った。そして、玉世の言う通り、そっちがいい気もした。

「……玉世?」

 理真が声をかけると、青空が薄くなって消えた。理真の様子を見て、玉世は安堵と喜びに顔を輝かせた。

「うん。そうだよ」

 玉世に手を握られている。求められている。そのことに嬉しくなって、こっちを選ぶことにする。そして、

「あ、あ……」

 同時に、現状を思い出す。

 震えだす理真に、玉世は優しく笑いかけた。

「大丈夫だよ。理真。すぐに全部、解決してあげるからね」

 そう言うと、玉世は理真の前で、知美の死体を手に取った。首を体にくっ付ける。

 その時、理真は視線を感じた。風の使徒が玉世を見ていた。

 本能的に、まずいと察する。

「玉世!」


「  」


 玉世は一瞥もせずに喋った。何が起こったのかは分からない。でも、脅威がなくなったのは分かった。風の使徒が、目を剥いている。

 玉世が引き続き、知美の首の断面を撫でる。そうすると、知美の首から傷跡が消え、

「――――え?」

 理真は現実に置いて行かれて、呆然とした声を漏らす。

 玉世は次に腸を手に取って腹に押し込んだ。玉世が手を離すと腹の傷はなくなっていた。

 服も元通りに修復され、服や髪が吸い込んだ血も霧散した。気付けば理真の体からも、付着した血は飛んでいた。


「  」


 玉世が優しく声をかける。

 知美の眉が内側に寄った。理真は口に手を当て、声を失って泣く。

 知美が目を開いた。

「あ、れ……?」

 知美が状況を呑みこめなくて、ゆっくり体を起こす。

「……天国? ……ああ、私、がんばったのに、地獄かぁ……」

 血だらけの街並みを見て、知美が残念そうにぼやいた。

 理真は抱きしめようとして手を止める。触って、壊れてしまうことを恐れた。

「大丈夫だよ」

 躊躇する理真に、玉世が声をかける。理真は玉世の顔を見て頷き、恐る恐る抱きしめた。

「あ、れ? ……理真?」

 知美は不思議そうに漏らした。

「っ! 知美さん!」

 乱暴にしてはいけない。そう思っていても我慢できなくて、理真は知美の体を締めあげた。

「そうです。理真です……!」

 理真の目から、今度は温かい涙が溢れ出す。反対に、理真に抱きしめられる知美は居た堪れなさに顔を曇らせた。

「私、守れなかったんだ。……ごめんね」

 勘違いをしている知美に、理真は体を離して顔を見る。泣き笑いの顔で言う。

「今、知美さんは、生きているんですよ!」

 理真のその言葉で、知美が目を剥いた。

「……ほんと? あれ、何で?」

 知美の中では確かに死んだ感触があった。生きているはずはないのだけれど。

「分かりません。でも……」

 理真はそこまで言って、玉世の方を見た。玉世は今、灯の前にいた。

 玉世が同じ要領で何事かをすると、灯も眉間に皺を寄せた後、目を開けた。

「――どうなってるの?」

「私にも分かりません。でも、知美さんもああやって……」

 灯も、知美と同じように体を起こす。現状が理解できていないようで、上の空だった。

「…………地獄かぁ……」

「灯さん!」

「同じこと言わないの!」

「あ、れ?」

 理真と知美が灯に駆け寄る。玉世は理真の様子を横目で見て笑みを浮かべた。次に、風の使徒の元へ向かう。

「……どういうつもりだ」

 近づく玉世に、少年は警戒を露わにして睨んだ。

「不公平だから、君もね」

 玉世は構わず歩み寄り、少年の無くなった方の腕の断面に手を置いた。

 すると、少年の腕が生えた。少年が瞠目する。続けて、玉世は骨の砕けたもう片方の腕も直した。

「あんた、一体何者だ?」

 畏怖のこもった少年の言葉に、玉世は自嘲気味に笑って答えた。


「  」


 少年が癒されたことに、知美と灯が再び緊張する。少年の動きを警戒した。理真は場を読んで、玉世を見ていた。

 玉世は掌で何かを遊ばせ始める。黄金色に輝く光の核が、日光を浴びて虹色の光を振りまいていた。

「あ、あんた、何する気だ!」

 何を想像したのか、少年は自分を癒した相手に声を荒げた。

「君の察している通りだよ」

「おい止めろ! ふざけるな! 止めろよ! ……止めてくれ…………お願いします。やめて……」

 あれほど強気だった少年が、一転、幼子のように玉世に縋る。玉世は動じず、手の光を遊ばせる。


「  」


 少年の顔が引きつった。

「やめろ! 止めて」

 言いながら、少年は腰の後ろに回した手で携帯を操作する。

「強かだね。君は」

 その言葉で、少年は全身が動かなくなった。

 玉世は指をピストルの形に変え、光を人差し指に溜める。その先で、突然窓のような物が現れた。その奥には別の光景が広がっている。その中に、銀髪の青年の後ろ姿があった。

「――――!!」

 全身の自由を奪われた少年が、文字通り、声にならない叫びを上げる。


「  」


 言下に、玉世の指から一条の光線が放たれた。窓を通して、銀髪の青年に直撃する。瞬間、青年の体が霧散した。

 玉世がその結果を見届けて、構えを解く。窓は消えて元の景色に戻った。

 一連の光景に、知美と灯は一言も言葉を発せられなかった。機能の停止した街で、少年の泣き声だけが響いていた。

 隣で泣く少年に、玉世は寄り添って耳打ちした。すると、何か救いがあったのか、少年は目を剥いて泣き止んだ。

 その後、玉世は少年から離れて理真の前に来た。

「俺は、理真を選んだよ。いらないなんて言わないでね」

 そう言う玉世の瞳からは、涙が流れていた。初めて見る玉世の涙だった。しかし、玉世の言葉に、理真は頷かなかった。その姿勢に理真らしさを感じて、玉世は笑った。

「君たち、携帯貸してもらえるかな」

 玉世に言われて、呆然と静観していた知美と灯は抵抗せずに携帯を出した。玉世は受け取って、操作を始める。

「君たち、もう理真とは絶交ね? まあ、理真は聞かないだろうから。君らの覚者に言っとく」

 操作し終わって、二人に携帯を返す。

「じゃあね、理真。また今度」

 そう言うと、玉世は三人に背を向けて歩き始めた。

 理真は玉世に聞きたいことがたくさんあった。でも今は、そういうタイミングではない気がした。どこか悲しげな玉世の背中が消えるまで、理真はその姿を目で追った。

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