実験的属性その5:プロレスラー

 10階、ミーティングルーム。

 しんと静まり返った部屋のドアを、おそるおそる開ける。

 全ての照明をつける必要も感じられず、適当な一箇所だけ明かりをつけた。


 暴れる心臓と酷くとっ散らかる脳内を、なんとか落ち着けようと試みる。



 彼女が、今、俺に話があるとすれば——何なんだろう。

 全く見当がつかない。


 したがって、俺も何らかの回答を準備する等の対策が取れない。

 俺の思考はますますパニックに陥りそうになっていた。



 その時——

 廊下に、カツカツと小さな足音が響いた。


 その音は、次第にこちらへ近づいて来る。

 本当に、呼吸が止まりそうだ。


 カチャリと、ドアが開いた。

 しなやかなポニーテールがさらりと揺れて——彼女が、すいと顔を出した。



「——係長」


 思わず椅子から立ち上がった俺を見つめ……

 彼女は何となく居心地悪そうに、小さく呟いた。


「……あの。

篠田くん——

……話って、何?」



 予想外のその言葉に、俺は一層混乱を極めワタワタと答える。


「……へっ?

いっいえ……俺はさっき、あなたが俺に話があるって……そう五十嵐さんに聞いて……。

ここで待ってるよう言われたんですが……」



「…………え。

それ、私も五十嵐くんに…………」



 そこまで言って、彼女ははっとし……そして、みるみるすごい形相になった。


「…………

五十嵐いぃぃ〜〜〜〜!!!!!嵌めたなっっ!!!??」



「————係長!


待ってください!

俺を、避けないでください」



 激しく狼狽しつつ部屋を出て行こうとする彼女を、俺は咄嗟に呼び止めていた。




「————」


 逃げるようにドアに手を伸ばしかけた彼女は、俺に背を向けたまま足を止めた。



「——どうしてですか。

あなたは、そういう人ですか?


一緒に一つの仕事をやり遂げた部下に……

一言も……一瞥いちべつすらくれない人ですか」



 俺の言葉に、彼女の肩がびくっと震える。


 そして……その背中から、小さい声が漏れた。


「…………違うの」


「あなたのことだから……きっと、俺を避けなければならない理由があるんですよね。

それは分かってます。


けど——

それでも、俺は……

俺の中に渦巻いているこの痛みを、あなたにもわかって欲しかった。


俺が、そういう気持ちに耐えていたことも……知って欲しかった」



「…………

……ごめんなさい……」


 彼女の息が、小さく啜り上げる。



「————」



 ——もしかして……泣いてる……?


 ……どうして……?



 思考はもはやめちゃくちゃに乱れまくっているが、一旦スタートしたものは止めることができない。


 そして——

 俺が本当に言いたいのは……彼女への非難めいた言葉なんかじゃない。



 くそっ、チャンスの神め。

 もがくな!いい加減観念しやがれっ!!

 ここまで来たら、ヘッドロックかましてでもその前髪引っ掴んでやるっっっ!!!!引っこ抜けるなら勝手に抜けろ!!



「————係長。

俺が本当にあなたに言いたいことは……ここからです」



 その言葉に、彼女は恐る恐る振り向き、潤んだ目で俺を見た。


 俺は、その瞳を迷うことなくまっすぐに見つめ返す。



「俺——

あなたが好きです。


こんな風に、苦しいくらいに誰かを想うって……俺、マジで初めてで……

こんなこと言ったら、あなたには迷惑でしかないかもしれないけど……


でも。

これをちゃんと伝えなければ、俺はここから一歩も先に進めないんです。

だから、言います。


あなたが好きです。

心の底から。


……でも……

あなたにつきまとうとか、しつこく迫るとか……そういう行動は一切取りませんから、どうか安心してください。

俺、あなたに穏やかな笑顔が戻って……それだけで、すごく嬉しいんです。


だから……兵藤さんと、これからも幸せに——」




「————は?」


 その途端——不安げに瞬いていた彼女の眼差しが、すっと切り替わった。

 なんだか急に険を含んで返って来たその声に、俺の肩がギクリと竦む。


 ああ……やっぱ告白とかってマジでキッツイわ……



「——兵藤さんが、なんでここで出てくるの?」


「……へ?」


 彼女の瞳に、何か別の光がよぎった。

 それと同時に、彼女は俺の方へぐんぐん歩み寄る。


「——篠田くん。

もしかして君、私が兵藤とヨリ戻したとでも思ってるの?」



「……えと……あの……

ち、違うんですか……??」

「何を言い出すかと思えば。そんなバカなこと、あるわけないじゃない。

あのミーティングの後、二人きりになった時にきっぱり断ったわよ!

——私にはもう、他に好きな人がいるって」



「…………はあ……」



 ——あー。

 そうなのね。

 他に好きな人が……なるほど。


 兵藤とヨリ戻したんじゃないのはわかったけど……そういうことね。

 これはこれでまた、キッツイわ。

 俺の口元に、変な笑いが浮かびかける。



「……でも、自分でそう言っちゃった途端、ものすごくパニクっちゃって。

私のこれって、恋なんだ……そう気づいたら、あーーーそれはダメダメダメっ!!ってなっちゃって……」


 そう言いながら、彼女はぐんぐん顔を赤らめた。


 ……一体、この話はどこへ進んでるんだろう??



「……えっと……

どうして、その恋がダメダメとか思ったんですか……?」


「だって!!!

君は私より3つも歳下じゃない!!

それに、可愛くて素直で優しくて紳士で……そんな男の子、彼女だって当然いるかもしれないじゃない!

なのに……私みたいな料理もできない女っ気ゼロなオバサンがそんな気持ち……ダメに決まってる、って…………


だから、自分のこんなどうしようもない想いを、一刻も早く静めてしまいたくて……

そう思ったら、君のこと見られなくなった。会話もろくにできなかった。

————ごめんなさい、本当に。


本当は——あのミーティングの後、思い切り君を抱き締めたかった。

嬉しい、ありがとう、大好き……って。

何度も、そう思った。

でも、とんでもない勘違いオバさんになるんじゃないかと思うと、もう怖すぎて…………」




「————————」




 ……ちょっと待って。

 少し、整理させて。



 今の話だと……

 脈絡的には……


 係長の、好きな人って——。




「…………でも……。

今、君の言ったことは、本当……?」



「…………

……え……」



「私のこと、好きって。

今、言ったよね?


——それ……本当?」



 彼女は、さっきの動揺とはどこか違う色に頬を染め、俺を見つめる。



「…………信じていいの?」




「————……」





 チャンスの神様の前髪は——奇跡的に、抜けなかった。



 何度も指が宙を掻く思いをして——

 やっと掴んだ、頼りないほど細い髪のひと束。


 それを、これでもかというくらいに握りしめる。


 ——例えようもない幸福感に包まれながら。




「……今の言葉は、本当です」





 窓の外には——

 冷えて澄んだ夜空に、美しいクリスマス色のタワーが輝いていた。





✳︎





「…………ち、ちゅーはしました」

「そりゃ良かった。じゃ改めてかんぱーい」


 そんな全くもって予想外の展開となったクリスマスが終わった、翌週の火曜。

 俺は五十嵐さんを作戦会議会場へ呼び出し、そのことを大至急報告した。


 彼はそれをごく冷静に受け止め、いつもと変わらぬ表情でビールのジョッキを俺のジョッキとごくフツーにカチンとぶつける。


「全部、五十嵐さんのおかげです。

ありがとうございました……。

本当に、何とお礼を言ったらいいのか……」

「そんなことよりさ……他には?」

 じわっと泣きそうな俺を余所に、彼はもぐもぐと唐揚げを頬張りつつそう質問する。

「えっ」

「だから。ちゅーの他には?」

「……えーっと……後は……ちょっとデートスポットっぽいとこ出かけた……だけですけど……」


「……ふうん。

そういや君は、まともに恋をしたことがこれまでなかったんだよな?」

 そこで初めて、五十嵐さんのニヤニヤがダダ漏れになった。


「——白状します。

今日は、恥を忍んで五十嵐さんにおすがりしようというアレもあって……っ!

俺マジで、その……ちょっといろいろよくわからないんで……!!」

「ん、そこまで俺に手助けしろと?」

 彼はマジか?というような顔で俺を見た。


「……お願いします……」

「……んー。教えてやれないこともないんだが……」


 そんなことを呟きながら人差し指で顎をしばらく摩り……彼はどこか悪だくみでもするような視線でちらりと俺を見る。

「…………いや。

君みたいな子なら、無理やり知ったかぶりするよりも、『初めてなので、あなたが全部僕に教えてください』とか無垢な瞳でお願いしちゃう方が……むしろ破壊的威力を発揮するんじゃないかと……

あー、それ萌えるわあ〜」


 何を想像してるのか、口元を覆ってくっくっと笑い出す彼を、俺はじろっと睨む。

「そうやってまた他人事だと思って。あんな美人の恋人になるっていうだけでパニクってる俺の気持ち、全然わかってないでしょ!?」

「美人だって何だって一緒だ。

それに……そんなに俺に教えてほしいなら、まあいいけど。

ただ、彼女とする前にオオカミに食われたとかいう展開はシャレにならないんじゃないか?」


「……は?」

「俺は君に嫁になれと迫った男だぞ。男のヤル気なんて、一度起きたら引っ込まないからな。……君は赤ずきんとしての自覚がなさすぎる」


 冗談か本気かわからぬその言葉に、俺は微妙に青ざめた。

「…………彼女に頼みます。……念のため」

「そうそう、それがいい」


 くっと口元を上げてそう言うと、彼は楽しげにジョッキを呷った。




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