カシスソーダ
11月中旬。
新製品の消費者向けパンフレットが完成した。
これまで広報部が作成したものの中で、恐らく最高の出来である。
結局、五十嵐さんがモデルになってくれたサンプルイメージは、業者に差し替えを依頼することなくそのまま使用された。
「これ以上に製品の魅力をアピールする画像はない!」と、社内であまりにも好評だったからだ。
「…………これだけ言われちゃ、もはや嫌だという余地などないじゃないか」
昼休みに休憩室で缶コーヒーを啜り、五十嵐さんはつくづく苦い顔でぼそぼそと呟く。
「いいじゃないですか、評判良かったんですから。この際ですからモデルの副業とかどうですか?」
俺も、大仕事が無事仕上がった達成感を味わいつつ、彼にそんな冗談を言う。
「あのなあ……他人事だと思って。あの時どれだけ我慢して君の提案に乗ったと思ってるんだ」
「えー?その割にやる気あったじゃないですか。自らセクシーな白いワイシャツに着替えてくれたし」
「あれは兵藤に勝つためだっ!それに別にセクシーじゃないっっ!!」
ムキになって反論する五十嵐さんに、俺はクスクス笑わずにはいられない。
「……五十嵐さん。いろいろ、ありがとうございました。本当に」
彼も、どこが照れ臭そうに口元をちょっと引き上げる。
「……まあ、楽しかったよな。それなりに。
——君の計画した恋愛成就プロジェクトは、まだ途中だがな」
「…………」
彼のそんな言葉に、俺は何となく視線を落とす。
「——それも、もういいんだと思います。
すごく楽しかったし……
あんなに素敵な人が、ほんの一瞬でも俺の隣で笑ってくれて。
思い出すと、胸が死ぬ程痛いですけど……
あの時間は、俺の宝物です」
係長に素っ気なく視線を躱されたあの朝から、彼女とは仕事以外の会話をほとんど交わしていない。
チャンスを作れるならばと、俺はそれからも何度となく思ったが……
彼女は、そんな隙さえも全くくれなかった。
これほどに避けられては、もうチャンスとかそういう話ではない。
賢い彼女は——
きっと、俺の気持ちに気付いていて。
それを受け入れられないことを、そうやってきっぱりと示しているのだ。
以前感じられた、どこか諦めたような疲れや悲しげな空気は、今の彼女からはもう感じられない。
——きっと今は、兵藤にも大切にしてもらっているのだろう。
「——君がそう思うなら……まあ、それでいいのかもしれないな。
大抵の初恋は、甘酸っぱい思い出に変わる運命だ」
五十嵐さんは、窓の外の晴れた空をふっと仰いでそんなことを呟く。
「……五十嵐さんって、時々ちょっとおっさん臭いですよね」
「なんだと?……というか、ほんとにそろそろおっさんだけどな」
そんな話をしながら、俺たちは小さく笑い合った。
✳︎
そして、12月。
満を持して新製品が発売された。
その売れ行きは、予想を大きく超えたものだった。
製品そのものの魅力はもちろんだが……どうやらあのパンフレットも、相当に売り上げに貢献しているようだ。
内容の充実に加え、モデルがめちゃくちゃに美形!というコメントがSNSをきっかけに広まり、話題になっているらしい。
そんな明るさの中で迎えた、12月下旬の金曜。
この上なくご機嫌な広報部長の奢りで、広報部のクリスマス飲み会が開催された。
と言っても、オードブルやピザなどをケータリングし、社内の大会議室が立食パーティ会場……というごくアットホームなものだが。
その日の終業時間が過ぎ、パーティの準備もほぼ整う時間になっても、小宮山係長はひとりデスクに着席したまま、パソコンに向かっている。
「さあ小宮山くん、君もそろそろ切り上げて会場へ移動しないか?」
にこやかな課長の声に、彼女は小さく微笑む。
「ええ。……でも、もう少し仕事残ってますし」
「全く、君らしいな。……終わったら早めに来なさい。主賓がいなくちゃ会が盛り上がらないぞ」
「ありがとうございます」
この後は……
もしかしたら、兵藤と会う予定でもあるのだろうか。
彼女の静かな表情を見つめながら——俺は、何となくそんなことを思った。
「今回は、我が部門は社長直々にお褒めの言葉をいただいた!パンフレット制作に向けた君たちの熱意がなければ、新製品のここまでのヒットは恐らくなかっただろう。
改めて、深く感謝する!
新製品の大ヒットを祝して、乾杯!」
満足げな笑顔で、部長が改めて部門メンバー全員に向けて乾杯の挨拶をする。
「全く冗談じゃない。最近は時々街でも女の子たちの視線とヒソヒソに悩まされるんだぞ。静かな日々を返してくれ」
俺の横で仏頂面をしてそう呟く五十嵐さんに、俺は思わず吹き出した。
会場のテーブルの上に並ぶ、サワーやカクテルの缶。
どれにしようかと何となく眺めるうちに……ひとつのカクテルの名前が、目に飛び込んできた。
カシスソーダ。
あのカクテルバーで、彼女が俺のためにオーダーしてくれたカクテルだ。
思わず手にして、プルタブを開けた。
あの夜の味とは、随分違う気がするが……仄かに漂う果実の香りに、胸がぎゅうっと締め付けられる。
——あの夜のこと。
彼女の悪戯っぽい微笑みや、こっちを見るな、と怒る声。
肩に乗せられた額の、仄かな温もり。
涙で少しだけ濡れたワイシャツ。
顔のすぐ横で崩れたポニーテールの、甘い花の香り。
そんなものが、一気に、鮮やかに蘇った。
……なんなんだ、これ。
どうしようもなく、苦しくて、痛くて——甘い。
俺は、彼女が好きだ。
改めて、それを嫌という程思い知らされる。
思わず目にこみ上げそうになる熱いものを、慌ててぐっと引っ込めた。
「——篠田くん」
ひとりわたわたと取り乱す俺の横に、不意に五十嵐さんが立った。
俺の耳に顔を寄せると、小さく囁く。
「——話したいことがあるって、小宮山が。
10階のミーティングルームで少し待っててほしいと」
「————え?」
その言葉に、俺は思わず振り向き、彼の顔を見た。
「まあ、よくわからんが……早く行けば?」
片方の眉をくいっと持ち上げると、彼はそう呟いた。
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