第4回作戦会議

 パンフレット原案は、部門のスケジュール通り10月から次の段階へと移行した。

 係長と俺が協力しながら進めてきた業務も、これで終了だ。



 10月最初の月曜の朝、課長のデスクに俺と係長が呼ばれた。

「いや、小宮山係長も篠田くんもお疲れ様!営業部からもハンコもらったしな、今日からパンフレットはめでたく次の段階へ移行するぞ。

今回は営業サイドのハードルが相当高かったようだが、その分非常にレベルの高いものが出来上がった。五十嵐くんの協力も光っておる。君たちの見せてくれた底力には、私もはっきり言って驚いたよ。

ここからパンフ作成は次の段階に移るが、まだ完成したわけじゃないからな。引き続き全力で業務に取り組んでくれ」


「ありがとうございます」

 小宮山係長は、いつもの——いや、いつもより一層輝く微笑で課長に答える。

俺は、自分の隣に立つその美しいひとの横顔を、なんとなく視界に納めるように目の中に写した。



 この特別な時間が、終わってしまったら——

 俺たちはまた、元のようなほぼ接触のない関係へ戻ってしまうのだろう。



 あのミーティングの後の二人の会話が、どうなったのか。

 ——係長は、何を選んだのか。


 そんな事を彼女に聞くタイミングなど見つからないまま、週末を迎えた。


 そして今朝は……たった数日なのに、そんなことももうすっかり聞けないような……すうすうと塞ぎ難い大きな隙間が、彼女との間にできてしまった気がした。

 ——元の通りに。




 チャンスの神様には、前髪しかない。

 そんな言葉が、ふっと心を掠める。



 ——掴み損ねたのかな……もしかしたら、俺は。


 引っこ抜けることを怖がらずに……何かを掴んでみたら、良かったのか。

 彼女が俺の横にいる間に——俺はもっと、ジタバタと何かをするべきだったんだろうか。


 やけに涼しい秋風が吹いていくような——そんな気持ちで、俺は何となく課長の肩越しに窓の外の空を見上げた。





✳︎




 

「おい篠田くん、飲みに行くぞ」


 そんなことを考えた、数日後。

 俺はいきなり五十嵐さんにそう声をかけられた。


「……あの。

なんか怒ってます?」

「怒ってない。

ただ、ちょっと話したいことがある」


 そう言いながら、彼は俺をギロッと睨む。


 ——怒ってるじゃん。



「今週の金曜。空けとけよ」

「……わかりました」


 俺は、微妙に整理しきれない何かを改めて胸に感じつつ、そう答えた。




✳︎




「おい、どういうつもりだ」


 作戦会議会場の美味なつくねをぐいっと齧り、彼はぎらりと俺にそう問いただす。


「……どういうつもりって」

「とぼけるな。なんか色々終わったおっさんみたいな顔をして。

あのパンフ原案も、兵藤の傲慢を遠ざける計画も……彼女のために、君は全てやり遂げたじゃないか。

あれだけ気合の入っていた恋愛成就プロジェクトは、一体どうなったんだ?」


「だって……

彼女はやっぱり、高山のてっぺんに咲く高嶺の花ですよ」

 俺は力なく苦笑いしながら、そう呟く。


 そんな俺に、彼はなんとなく呆れたようなため息を漏らした。


「おい……振り出しかよ」


「振り出しじゃないです」

 俺は、今日ここへ来るまでに考えていたことを、彼に答える。


「……彼女の気持ちの中には……やっぱり俺、入れないんじゃないかって。

なんか、リアルにそんな気がしちゃって。


俺が彼女の隣にいたこれまでの2カ月間……俺、彼女の心の中にはどれくらい入り込めたのかなって、考えたんですけど……

結局、仕事の範囲を出られなかった。——どの瞬間を思い返しても、俺は彼女の単なる部下でした。

多分彼女の中では、きっと俺はどんなにジタバタしても、フツーの部下に過ぎなくて。

……やっぱり、兵藤さんみたいな優秀で強い男には、敵わない。

今回彼女のそばにいて、むしろそういうことに気づいちゃった、っていうのか……」


 彼はどすっと投げやりな頬杖をつくと、鋭い横目を俺に投げる。

「——ふうん。

彼女に、本当にそうなのかどうか、ちゃんと聞いたのかよ」

「は????

何ですかそれ?……俺が彼女に、そんなこと聞けるわけないでしょ!?そんな図々しいこと聞く権利もないし!」


「図々しいとか権利とか、なんだそりゃ。さっぱり意味わからん。

君は、こんなに深く誰かに惚れたことは今までなかったと、以前言ってたな?なら教えよう。

恋なんて、大怪我覚悟でズケズケ踏み込む瞬間がなきゃ、扉は開かない。物分かりのいいワンコのままじゃ、絶対にそれ以上深くは入り込めない。

結局——君が王道的属性で彼女に近づけないのは、もっともらしい理由よりも何よりも……君自身が、深く踏み込むことを怖がっているだけじゃないのか?

兵藤に敵わない?違うだろ。何一つアプローチもせずに諦めてるだけだ。


恋ってのは、想う相手に自分の方を向いてもらうことだ。友達でも身内でもなく、異性としてな。——違うか?」



「————」


 俺は、ぐっと黙った。


 返す言葉など……あるはずがない。

 全て図星だからだ。——一つ残らず。



「——この前、俺がモデルになったことの礼を言いに来た時……小宮山、言ってたぞ。

君に救われた……って。

その時の彼女の表情は、ただの部下に感謝するだけのものじゃなかったと……俺は、そう感じた。


チャンスの神様の前髪は、まだ君のそばにある。

——ここまで来て、今、それを本気で掴まなくていいのか。

ぼーっと眺めてちゃ、あっという間に横から掻っ攫われるぞ」



 五十嵐さんは、いつになく真剣な声と眼差しで、俺に強く訴える。


 そんな彼に何と答えていいのかわからないまま、俺は黙って俯いた。




✳︎




 五十嵐さんと飲んで帰宅してから、俺の頭の中はずっと、彼から言われた言葉でいっぱいだった。

 一言一言が、深く鋭く、心を引っ掻き回す。



 ——ズケズケと相手の心に踏み込む瞬間がなければ、扉は開かない。

 いつまでも物分かりのいいワンコのままでは——何も変わらない。



 そう。

 俺は——手も足も出なかったんだ。


 自分の想いを拒まれることも、そのせいで自分自身が深く傷つくことも……まるで抜き身の剣でぶつかり合うようなそんな瞬間が、とんでもなく怖くて。


 だから、座って尻尾を振る物分かりのいいワンコになっていた。……いつでも。

 そうしていれば、何のケガもすることはないから。



 でも……それは、違った。

 今、はっきりとわかる。


 俺が望んでいるのは——彼女の従順なワンコになることではない。




 チャンスの神様の前髪が、本当にまだ俺の側にあるならば。

 掴みたい。

 ……もしも、とんでもなく痛い思いをするとしても。

 とにかく、掴んでみなければ何も始まらないのだ。



 俺は、ともすれば立ち竦みそうになる自分自身を、心の中で散々ひっぱたいた。





 翌週、月曜日。


 チャンスの前髪を、掴む。

 俺は、そんな強い決意を胸に出勤した。



「おはようございます」

「おはよう、篠田くん」


 いつもと変わらぬ係長の笑顔を見つめる。



「————」


 いつもと違う言葉を発しようと口を開きかけた瞬間……彼女の視線が、すっと逸れた。



「…………」

「係長〜おはよーございますっ♪」

「佐々木さん、おはよう。月曜から元気ね」

「うふ。わかっちゃいます?週末ちょっと楽しくって……ウフフ♡♡」

「幸せがダダ漏れよ。若いっていいわねーほんと」

「係長、全然歳とか関係ないじゃないですかーそんな完璧な美貌と頭脳持ってて!私なんか何一つ敵わないし。羨ましーっ」



 そんな会話の間にも、彼女の視線は頑なにこちらを向こうとしない。




「————……」


 ガンガンと鳴るような衝撃を脳に受けながら、ゆっくり背を向ける。



 違う。

 ……何かが、微かに。

 でも——明らかに。



 こんな風に、彼女が素っ気なく視線を逸らしたことはなかった——

 今まで、一度も。





 ————ああ。



 前髪が、通り過ぎた。

 ボーっとしている間に。



 あの夜のカクテルバーのように……彼女の優しく輝く眼差しが俺だけに向けられることは、きっともうない。





「……アホだな、俺」




 想像を絶するような強烈な痛みが、ギリギリと心臓を突き刺していた。




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