実験的属性その4:伏兵
五十嵐さんと作戦会議を行った翌週の火曜日、昼休み。
俺は、小さなカフェの入り口に来ていた。
普通にカフェというより、ひっそりと住宅の一部を解放したような感じの、知る人ぞ知る隠れ家カフェである。
一年ほど前に、住宅街の奥にひっそりと建つこの店を知った俺は、何の気なしに入ってみてその味に驚いた。
とても家庭的なのだが……パスタもグラタンもハンバーグも、どれもなんとも言えず温かく、心のこもった味がする。
この店を知る人からは絶大な人気を得ているようで、少し時間が遅れると、今日はもう売り切れでランチ終了……みたいなことにもなってしまう。
今日俺がここに来たのは、非常に重要な要件があるからだ。
今ここにいるかもしれない、我が社の営業部長に会うためだ。
——営業部内でごく僅かな小宮山係長の味方だった、彼に。
仕事のスケジュールがない限り、岸本営業部長は火曜はここでランチを取る。
日替わりランチメニューであるチキンとほうれん草のグラタンは、彼の大好物なのだ。
以前、ここで食事をしている営業部長に偶然出会い……他に席が空いていないこともあり、彼と相席することになった。
その時、俺は大いに恐縮したのだが——彼は思いの外大らかで懐の深い、楽しい人物だった。
仕事中は、この上なく厳格な雰囲気を醸しているのに。
「ここのグラタンは実に美味いな。私は毎週火曜は、都合のつく限りここに通ってる……ますます混むと困るから他のヤツには言わないけどな。ふふっ。
この味を家でも作りたいと何度もチャレンジしているんだが、何が足りないのか、どうしてもうまくいかないんだ」
彼はフォークでそのホワイトソースを愛おしげに掬い、饒舌にそんなことを俺に話して聞かせる。
激しく緊張していた俺も、その言葉に思わず大きく頷いた。この味を自分でも作ってみたいと、全く同じことを考えていたからだ。
「本当にそうですね。
なんでしょうね、この香ばしい甘み……マスターに聞いてみたいけど、ちょっと緊張しますよね」
「私はもう何度も聞いてるぞ。秘密だって教えてもらえないんだけどなー。ハハッ」
そんな感じで、俺はリラックスした時の彼の顔を知っている。
今回、この微かな繋がりに、俺は賭けていた。
意を決して、店内に入る。
「いらっしゃいませ」
ホールスタッフの女の子の挨拶を聞きながら、店内を見回す。
ミーティングは、今週の金曜。
今日、ここで彼に会えなければ——彼女を救うための僅かなチャンスを失うことになる。
祈るように、来店している客をチェックした。
——いた。
窓際の席に、岸本部長らしい大きな背中を見つけた。
それと同時に、俺の足はそのテーブルへと動き出す。
躊躇ってなどいられない。
「——岸本営業部長」
「お?ああ。
君は、広報部の……篠田くん、だったよな?
君もここでランチか?」
彼はフォークを止めて、昼休みの穏やかな顔で俺を見上げた。
「ええ。
それから……部長に、少しお話があって……。
あの……ここ、一緒に座ってもいいでしょうか?」
「ん……私に話が?」
いきなりの申し出に、彼は少し驚いた顔をした。
「料理の話ならいくらでも構わないが……食事時に仕事の話はよしてくれよ。貴重な休憩時間なんだしな」
「…………
あ、俺もグラタンで」
注文を取りに来たスタッフにそう伝えながら、俺は内心ぎくりと固まった。
これから俺は、彼にガチな仕事の話をしようとしているのだ。
前もってそう断られ、この計画の危険度がぐいぐいと急上昇する。
しかし、ここまで来て、怖気付いて引き返すわけにはいかないのだ。
チャンスは、今目の前にある一度だけ。
俺は、ぐっと歯を食いしばった。
「——部長。
今、広報部で手がけている新製品のパンフレット原案を、ここにお持ちしました。
今週金曜の、うちと営業部合同のミーティングへ出す予定のものです。
……それを、ここで見ていただけないでしょうか」
静かだった彼の顔が、俄かに険しくなる。
「……篠田くん。
今私の言ったことが、聞こえなかったか?」
「————」
震えそうになる指を、思わずぎゅっと握りしめる。
「それに——今君が私に持ちかけた話も、一体どういうつもりだ?
原案段階の内容をチェックするのは私ではない。係長レベルの業務になっているはずだ。
決められた段階を踏まずに一足飛びに私へ依頼するとは、社会人の常識としてどうなんだ」
その鋭い視線と低い語調に、俺の背筋がざあっと冷える。
丁寧に謝罪して深く一礼して、回れ右しろ。
……早く!!
俺の脳が、無我夢中でそう叫ぶ。
しかし————
しかし。
「…………お願いします」
俺は、改めて深く頭を下げた。
「おいっ!」
「——係長の……
小宮山さんの気持ちを……
あなたは知っていますか」
「————」
「……知っているはずです。
少なくとも、その他の男性営業部員よりは、あなたは彼女の状況を——心の内を、理解しているはずです。
この原案を通す権利は、そちらが持っています。
その力を利用されて……チェックを受ける側が、実際に権利を握っている人の意のままに動かされるとしたら……それでも、あなたは黙って見ていますか?」
俺を見据える彼の眼差しに、ざわっと違う色が走った。
俺はこの話を最後まで言い切るために、一気に言葉を続ける。
「彼女の立っている場所は、前年度と変わっていません。
たった一人で、逆風の中です。
今のままでは、彼女がそこから自由になることはできません。いくら部門が変わっても。
——あなたが見て見ぬ振りをして、いいんですか」
彼は、瞳にぐっと強い光を浮かべて俺を見つめる。
「…………
君ひとりで、私にそんなことを言いにきたのか」
「はい。
こんな行動、係長に話せば絶対に止められますから」
「——こういう手段に出て、君自身の社内での立場が難しくなったら……
そういうことは、考えないのか」
「————」
「…………
貸しなさい」
「…………え」
「ほら、原案だ。……早く」
「————……
あ、あの……」
彼の表情に、微かに穏やかな色が戻った。
そして……どこか嬉しげな、居心地の悪そうな、複雑な顔になる。
「…………君のような若い子にここまで斬り付けられて、平然とグラタンを食べてなどいられるか。
それに——彼女が今も、それほど心細い場所にいるとは……気付いてやれなかった」
「————
……あっ……ありがとうございます……」
あわあわと動揺しつつ深々と頭を下げる俺に、険しく引き下がっていた彼の口元がふっと綻んだ。
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