涙
彼女が俺を連れてきたのは、小さくて静かなカクテルバーのカウンターだった。
「ここね、私一人で飲みたいときに来る場所なの。……ちょっといい感じでしょ?」
小宮山係長は、楽しそうにそう囁いてふふっと微笑みながら、慣れた仕草でメニューを手に取る。
「何飲む?篠田くん」
「えっえっと……
あの、何がいいんでしょうね……??
ぶっちゃけ、カクテルとか全くもって初めてなんで……」
俺は変な小っ恥ずかしさに赤面しつつ、もぞもぞと呟く。
「あ、そうなの?……じゃあとりあえず、甘くて爽やかな感じはどう?」
「はい、むしろ濃いのとか苦いのとかよりそういうのが好きです……酒あんまり強くないんで」
「ん、わかった。じゃ私が篠田くんぽいの勝手にオーダーする。
マスター。カシスソーダとマティーニを」
「かしこまりました。……可愛らしいのとハードなの、普通は男女逆ですよね?」
「あはは、そうよね」
カクテル絡みの話題は俺にはチンプンカンプンだが……彼女はもうここの顔なじみという雰囲気で、マスターと親しげに言葉を交わす。
オーダーした二つのカクテルを、マスターが滑らかな動きでそれぞれの目の前に静かに差し出した。
手元を照らす淡い照明に、二つの美しい液体は何とも魅力的な輝きを放つ。
俺の前に置かれたのは、細かい泡の立ち上る深い紅色のグラスだった。
ほのかに甘酸っぱい果実の香りがする。
「これはね、カシスソーダ。女の子が初めて飲むカクテルの定番、みたいな感じかな……かわいいでしょ?」
「そうですね、かわいいです……でもこれ、俺っぽいイメージですか?」
「うん、すごくね。
ほら、グラス持って。——じゃ、乾杯」
彼女は悪戯っぽい目でクスッと笑い、俺と自分のグラスをカチンと優しく合わせた。
「——今日は、ありがとう。篠田くん」
マティーニに少し口をつけ、そのグラスを静かにテーブルへ置いてから——小宮山さんは、俺を真っ直ぐに見てそう呟いた。
「……あ、いえ……」
その瞳の優しい輝きを受け止めきれず、俺はどぎまぎと視線を落とす。
心拍数がこれでもかというくらいにバクバクと一気に上昇し、抑えきれない。
……でも。
よかった。本当に。
ホッとした。
実際、彼女の今の言葉を聞くまで、俺は不安でたまらなかった。
さっきのミーティングで、つい二人の会話を妨害するような手段に出てしまったが……果たしてそれで、本当に良かったのか。
俺は、午後いっぱいそんな思いに悩まされていた。
あの時——本当は、彼女は兵藤と二人になる機会を望んでいたのに、俺がそのチャンスを無神経にぶっ潰したとか……もしかしたら俺は、とんでもない勘違い&粗相をしたんじゃないか。
で、今日はこれから、彼女から何か絶望的な宣言でもされるんじゃないだろうか。例えば、今後一切自分にまとわりつくな、とか、人の恋の邪魔をするな……とか。
だって……そうでもなければ、この後付き合え、なんて、小宮山係長が俺を誘うはずがない。
——俺は、そうやってひたすら薄ら寒い恐怖に怯えていたのだ。
「……良かったです。
俺のバカワンコ属性が、こんなとこで役立つなんて」
「かっこよかった。すごく」
「…………」
ああ。——そんないきなり。
これ以上は無理ですもうキャパいっぱいいっぱいです、係長。
俺は訳も分からず甘酸っぱい酒をグイグイ喉に流し込んだ。
「——私ね。
兵藤さんと、付き合ってたの。……1年半くらいかな」
「————」
彼女からの唐突な告白に、俺の心臓はすうっとクールダウンする。
そして、今までとはまた違う方向へうるさく鳴り始めた。
「——そうなんですか」
「あれ、思ったより驚かないね」
彼女は、冗談めかしてそんなことを言い、クスッと笑う。
「——最初は、ただ好きだとしか思えなかった。他のことなんて見えなかった。
細かいことは、もうどうでもいい気がした。
けど……付き合い出してから時間が経つほど、彼の強引なところや、自分の思い通りに全てを動かしたい身勝手さや……そんなものを強く感じるようになった。
私、もしかしたら、この人にあまり大切にされていないのかもしれない……なんてね。
一旦それに気づいてしまったら、もう辛くて。
そんなものを覆い隠す爽やかな笑顔や、表面的な優しさとかが、我慢できなくなった。
でも……別れたいと何度話しても、彼は同意してくれない。そして、彼自身の何かを反省したり、変えようとも一切しない。——あの態度を見れば、明らかよね。
だから——今の彼が、どれだけ私を意のままにしようとしたって、私は絶対揺れ動かない。彼の思い通りになんて、絶対にならない。
——そう思ってたはずなのに」
そこで彼女は、自嘲するような微笑とともに投げやりなため息をついた。
「今日のミーティングで——
あそこで、君が私と彼の間に入ってくれなかったら……私、もしかしたら、彼の誘いに頷いていたかもしれない。
彼の言うことを聞けば、今目の前にある問題が解決する——頭の中が、そればかりになりかけた。
彼は、私の弱点をよく知ってるから。……仕事への悪影響は出したくない、そんな恐怖感でいっぱいの私の心の中を、すっかり見抜かれて。私はまたそれに引っかかりそうになって。
……もう、どれだけ私、バカなんだろう……どれだけバカにされてるんだろう……」
彼女の語尾が、微かに震えた。
だんだんと俯いた肩も、微かに震えている。
「…………係長……」
「見ないで」
彼女は、何かを隠すように顔をがばっと下に俯けた。
「……どうしてかな。
幸せに向けて頑張っているつもりが、頑張れば頑張るほど、遠くなるみたいなの。
じゃあ、何をどうしたら、私はもっと満たされたんだろう……って。
いくら考えても、さっぱりわからない。——どうしたらよかったんだと思う?」
俯いた顔から、小さくそんな言葉が漏れる。
——そんなに、何もかもを頑張らなくたっていいのに。
一人きりで、嵐の中に踏ん張らなくたっていいのに。
けれど……
俺がそんなことを言ったって、彼女は多分、頑張ってしまうのだろう。——これからも。
「……係長、顔上げてください」
「嫌」
「でも……そんなに俯いたら、スツールから落ちちゃう……」
「なら」
彼女は、いきなりぐいっと俺の肩を引き寄せた。
それと同時に、俺の肩にコツンと小さな振動が伝わる。
「——————」
彼女が、その白い額を、俺の肩に預けている。
俺の顔の間近でサラサラと崩れるポニーテールから、甘い花の香りが溢れた。
「……ここ、貸して。——少しの間でいいから。
でも絶対こっち見ないでよ!」
彼女はぐすぐすっと鼻を啜り、半ば本気で少し怒ったような声を出す。
……小学生か?
思わず小さな笑いが漏れてしまった。
「……何よ、笑って!」
「あ……すみません! そうじゃないんです!!
でも、係長のそういう様子、俺初めて見て……なんか可愛いとか思っちゃって。……ごめんなさい。
でも……泣くのだけは、我慢しないでください、係長。
涙を流すことは、心に溜まった重たいものを洗い流す力があるんですよ。これ、本当です。
だから——いい仕事したいと思うなら、たまには思い切り泣いてください。我慢なんかしないで。
それから……仕事なんかより、ちゃんとあなた自身を大切にしてください。
……お願いします」
飲み慣れない甘い酒を一気に流し込んだせいだろうか? 脳の判断を完全スルーして、気持ちがどんどん口から流れ出していく。
おい、なんか変なこと言ってんじゃねーか俺? 相当に俺らしくないキラキラワード混じった気もするんだが……
まーいいや。本当にそう思ったんだから仕方ねーだろ。
今言ったことを思い返すのももう恥ずかしく、ぶんぶんと頭を左右に振る。
「————ありがとう、篠田くん。
じゃ……泣きたくなったら、またここ貸してくれる?
……ここ以外では、きっと私泣けないし」
彼女の涙を見ないように、そして自分の照れ顔を見せないようにそっぽを向いた俺の耳に、そんな言葉が届いた。
泣き顔の少女に、少しだけ微笑みが戻った、そんな声で。
「…………こんなのでよければ……
もちろん、いくらでも、喜んで」
…………やばい。
嬉しすぎて、もう脳みそがショート寸前……
待て俺の意識、天にも昇りたいのはよくわかるんだが飛ぶんじゃねえーーーーーー!!!!!
思考が完全に停止しそうになるのを、なんとか踏み止まる。
そして、ここで彼女に聞こうと思っていた大切な質問を、俺はどうにかこうにか沸騰した脳みその奥から引っ張り出した。
「——係長。
営業部で、周囲がみんな冷ややかだった……って、仰ってましたよね。
係長の味方だった人って……誰か、いらっしゃいませんか?」
「……味方……?
んん……
敢えて言えば……営業部長……かな。
前年度の最終日に、『済まなかった』って、一言そう言ってくれたけど……」
「……そうですか」
その大切な情報を、深く刻み込む。
「……はあ、スッキリした。
ごめん、ちょっと濡らしたかも」
すいと額を持ち上げた彼女は、俺のワイシャツの肩を気にしつつも、暗い雲の通り過ぎたような輝く笑顔を見せた。
「なんならぐちゃぐちゃに濡らしてもらっても構いませんけど」
「あははっ、子供じゃないんだから」
——ああ。かわいい。もう無茶苦茶に。
この笑顔が……今は、俺だけのものなんだ。
今だけだとしたって——最高に幸せだ。
俺の脳はもはや全ての課題を放り出し、この奇跡のような幸せへ思い切りダイブしていったのだった。
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