くれない色の死神

くれない色の死神


 ――後悔なら、死ぬほどした。


「珍しいですね。若君がこんな風においでになるとは」


 その男はソファーに身をうずめると柔らかな笑みを浮かべた。初対面の人間が相対していたら、とてもじゃないがこの男の胸中に渦巻く黒い陰謀なんて想像もできないだろう。


「……僕は回りくどいことは嫌いだ。単刀直入に言わせてもらう」


 対面のソファーに腰を下ろさないまましょうは口火を切った。


「リコリスにおいて、私怨から来る戦闘行為は禁止されている。派遣している掃除人を即刻引いてもらおうか」

「おっしゃる意味が分かりかねますが」


 抄のことを『若君』と呼んだ以上、男は抄が麗璋院れいしょういんの死神としてここに来ていることを知っている。そこまで分かるならば用件も分かったようなものなのに、案の定男は綺麗な笑顔のままシラを切った。


 それともこの男は、抄がどれを指して言ってるのか分からないほど、腹に黒い思惑を抱えているのだろうか。


「……お前が私怨から沙烏さうを脅迫、迫害している証拠が俺の元には集まっている。麗璋院が風聞程度で動く訳がないことは、あんただって分かっているはずだ」


 これ以上のやりとりが面倒になった抄は、相手の退路を断つように鋭く言い放った。


 そもそもこの交渉は、抄にとって時間が圧倒的に足りない。


 抄にこの交渉を依頼した相手は期日を明後日と言ったが、その期日は赤谷沙希あかやさきが生存しているという仮定の下での期日であって、赤谷沙希が死亡した場合はその時点で抄と沙烏との間での取り決めが水の泡となる。赤谷沙希が死亡すれば、抄に交渉を依頼した沙烏自身も死を選ぶだろう。沙烏は赤谷沙希を生かすためだけにリコリスに隷属しているのだから、その赤谷沙希自身が死亡した時点で沙烏が生きている理由はなくなる。そうなれば、交渉の報酬として提示された物は永久に闇の中に葬られることになるだろう。


 そしてマズイことに、抄の勘が正しければ、明後日という期日よりも赤谷沙希の生存期限の方が危うい。


「今なら力を振るわなくても解決できる。僕だってむやみやたらに片っ端から人を切り刻みたい訳じゃない。だから大人しく……」

「何を勘違いしていらっしゃるか存じませんが」


 それでも一応、根気強い説得を続ける姿勢を見せたというのに、相手はお綺麗な笑顔のままバッサリと抄の言葉をぶった切った。


「『麗璋院』というだけで乗り込んできて御高説を垂れる相手に、こちらが引く必要は何らありませんよね?」


 スッと片手が上がり、部屋の扉を蹴破って配下と思われる掃除人達がなだれ込んでくる。正規の掃除人なのか男の私兵なのかは分からないが、敵であるということに間違いはない。


「形勢逆転ですね。今ならあなたを赦してあげてもいいですよ。もちろん、私の配下に降っていただくことが条件ですが」


 どうしてこういう時にこういう輩が口にする台詞はいつも一緒なのだろうか。もう少しバラエティを求めてみても罰は当たらないと思うのだが。


「リコリスというのは、遊びで回せる組織じゃないんですよ。いにしえの血筋であるというだけで幅を利かせられる時代は終わりました」


 溜め息をつく抄に何を感じたのか、相手は笑みを浮かべて最後の口上をのたまった。


「ガキが色気づいた理由で始められるほど、掃除人は甘くないんですよ。……ああ、でも中々にその内容自体は面白かったようですね。古より敵対し、肆ノ院よつのいんの対偶同士に座していた『殺しの麗璋院』と『祝いの清涼院せいりょういん』、その直系同士の恋なんて」


 抄にとって、最大の禁忌ともいえる口上を。


「ああでも、お相手は片づけ者リストに載せられていた『不鳴ならず』だったんでしたっけ? ……まぁ、もはや『なくなった』事実ですが」


 世界から、全ての音が消えた。


 抄は瞳を閉じて、ロングコートのポケットに手を滑らせる。中に入れた端末は、この部屋の扉を開く前から通話状態なっていた。


「……玖坊くぅぼう、聞こえていたな?」


 瞳を閉じたまま、抄は端末の向こうへ耳を澄ます。


「交渉決裂だ。れ」

『リョーカイ』


 返ってくる声は短い。


 続いて聞こえたのは羽が空を裂く風切り音と、断末魔の悲鳴だった。


「貴様、何を……っ!!」


 叫び声が途中で切れる。


 チンッという鍔鳴りの音と、ヒョンッという刃鳴りの音と、チンッという納刀の音は、ほぼ同時に男の耳に届いただろう。


「たかがこの十年間、人を殺してきただけで偉ばってんじゃねぇよ、オッサン」


 ポトリと伸ばされた指が落ちて、数秒経ってから千切れたホースのように鮮血が噴き出す。


「あっ……がぁぁぁあああああああああっ!!」

「こっちは伊達や酔狂で生まれながらに人殺ししてんじゃねぇよ。昨日今日でコロシを始めた人間とは年期が違ぇんだ」


 瞳を開くと同時に欲を開放する。人を殺して生きる、『死神』としてのさがを。


 足に添わせるようにして傍らに置いていた刀を改めて左手に納める。今の抄の肩の高さとほぼ同じ刀身の長刀。同じ漢字で『ナギナタ』とも読めるが、抄が得物として持ち歩いているのは文字通り『長い刀』。リコリスが創建される以前より麗璋院家に伝えられてきた宝刀『血飲みの紅月くづき』だ。


 男の背後に控えた配下の何人かが反射的に抄へ銃口を向ける。それに対して抄は紅月を抜くと切っ先をピタリとその銃口に相対するように向けた。


「これは麗璋院次期当主として、リコリス不穏分子への制裁だ。手出しは無用。刃向かうならばお前達も不穏分子とみなし、容赦なく狩る」


 確かにリコリス創建より時代は降り、掃除人における麗璋院出身者の割合は低くなった。それに合わせて麗璋院の影も小さくなったが、その権力自体は決して弱体化はしていない。


 その特権の一つが、麗璋院家の制裁だ。リコリス内には反乱分子を狩る対掃除人用の掃除人・白華しらはながいるが、白華が狩れるのは上層部が判断し、抹殺命令を出した相手だけだ。実際に事を起こし、命が下った相手に対してしか筋を通すことはできない。


 対して麗璋院家の制裁は、事を起こしていなくても相手を裁くことが許される。動くのに必要なのは麗璋院に名を連ねる者の判断のみ。だから沙烏は白華である遠宮龍樹とおみやたつきではなく、麗璋院に名を連ねる抄を使った。白華で対処するには、あまりにも時間が足りなかったから。


 ギャラリーが黙ったことを確かめた抄は、刀の切っ先をソファーの上でうめく男へ向け直した。ギラリと光を弾く刀身に、紅に輝く瞳で冷たく相手を睥睨する抄の顔が映っている。


「お前、例の件を知っているみたいだな? ……吐けよ。あんた、何を知っている?」

「うっ……ふぅ……っ!!」

「指の一、二本、欠けた所で死にゃしねぇよ。……喋りたくないなら、もっと削るしかねぇな。そうなると、死ぬ確率は高くなるわけだが」

「あああ……っ!! わ、私が知っているのはさっきのことだけだ、それ以上は知らないっ!! 何も知らないぃぃぃぃいいいいいっ!!」

「僕が亡くした幼馴染のために掃除人を始めたことや、その幼馴染が清涼院の血を引いていたこと、その事件がなったことにされている事を、どこで知った?」

「か、風の噂で……っ!! あ、あんたが掃除人になった時に……っ!!」


 抄は相手の喉元に切っ先をつきつけたまま、相手に悟られないように溜め息をついた。今まで捕まえてきた人間も、大抵みんな同じことを口にしていた。そして本当にこういう輩は、それ以上の真実を知らないのだ。


「チッ……。思わせぶりなこと言うなら、もっとタメになる情報持っとけよ……」

「たっ、頼む……!! 死にたくないっ!! 死にたくないんだっ!! 命だけは……っ!!」


 口の中で呟くと、男は顔面から出せる汁という汁を全て噴出させながら懇願してきた。指一本飛んだだけで随分な騒ぎだ。


 これ以上、この男を尋問しても意味はない。配下の人間も、また同じく。


「……掃除人ってのはな、世間のゴミを片付ける存在であると同時に、掃除人自身が一番のゴミなんだよ」


『私は確かに清涼院においてはゴミかもしれない。だけど、だからと言って一方的に片付けられなきゃいけない存在だとは思わないわ。私の価値は、私は決めるもの!』


 耳の奥に、今もなお鮮明に響く声が、聞こえたような気がした。


「殺す者は、殺した時点で、自身も殺される覚悟をしなくちゃいけない」


 その声に引きずられて、穏やかだった日常の幻影が見えた気がした。その幻影を引き裂かれた俺の前に現れた、麗しい死神の姿も。


「その覚悟がない者は、掃除人という道を選んではいけない。……掃除人ならば、殺される覚悟ってのは、誰でも持ってなきゃいけないものであるはずだ」


 倫理を捨ててでも、真実を知りたいか。


 人間として何もかもを捨ててでも、掴み取りたいものがあるか。


「あんたが泣いて懇願しているモノを、僕の幼馴染は理不尽に奪われたんだ」


 あの時抄は、あの人に何と答えたんだっただろうか。


「奪われる理由なんて何もなかったのに、来て当たり前だと、思っていたのに……っ!!」


 抄は波打つ感情を瞳を閉じることで押さえつける。チャキッと、手の中で紅月が啼いたのが分かった。


 瞳を閉じていても、目の前にいる連中が息を殺して抄の様子をうかがっているのが分かる。隙あらば抄を殺そうとしているのが分かる。その空気に、殺意に、自分の中の飢餓感が、ジワリと熱になって湧きあがる。


 ――こいつらは、リコリスに必要な存在であるのか


 この熱にあぶられるたびに反問する問いを、抄は胸中で噛みしめる。


 答えは、すぐに否と出た。


 ――ならばこいつらは、喰ってもいい存在なのか


「……凛」


 是、という答えが出た瞬間、理性というたが は外れた。


 翻る刃をどこか遠くで眺めながら、抄の唇はポツリと言葉をこぼす。


「ごめん」




「……欲は満たされましたか、若君」


 理性が戻った時には、部屋の中に生者の気配はなかった。パタリ、パタリと、水滴が滴る音だけが静かな部屋の中に響いている。


 抄は部屋の敷居の向こう立つ奇抜な格好の男に視線を据えた。卓抜した殺しの技術を持つその人物がこの部屋に入ってこようとしないのは、理性を失った麗璋院の危険性をその人物が熟知しているからだろう。


「……ああ」


 抄は短く答えると抜き身だった紅月を鞘に納めた。


 長すぎる得物を背に負うように戻すのと同時に、ファサリと柔らかな風切り音を纏って一羽のカラスが部屋に入ってくる。部屋の惨状を気にすることなく宙を旋回したカラスは抄の肩の上に柔らかく留まった。その首筋に見慣れない荷物が下がっている。


『皆殺シカヨ、抄』


 そのカラスが、口を開いた。幼子のような甲高い声は、この部屋が惨状に染まる前、端末の向こうから聞こえた声と同じだった。


「麗璋院家の制裁だ。咎められることはない」


 麗璋院家の人間は、喋る黒い動物を使い魔として従える。抄の使い魔は、この喋る烏の玖坊だ。抄が家を出る決断をした時も、凛とともに生きることを決めた時も、凛を失った時も、掃除人になる決意をした時も、玖坊は『抄』に従うという道を選んでくれた。麗璋院の人間としてあるまじき生き方を選択した時点で暇乞いをしても許されただろうに、玖坊はそれをしないでずっと抄とともに歩いてきた。烏であろうが使い魔という立場にあろうが、玖坊は抄の大切な相棒である。


『ニシタッテヨォ……』

「それよりも玖坊、お前の方の首尾は?」

『丁度良ク階段ノ上ニイタカラ、上カラ襲イカカッテミタ。見事ニ下マデ落ッコチテ病院送リダ。ソウダ! 帰リノポイントデ、報酬モキチント受ケ取ッテキタゼッ!』

「御苦労」


 いつにもまして口数が少ない抄に玖坊は何かを感じ取ったのだろう。玖坊の体がわずかに寄せられ、柔らかな羽毛が僕の頬を撫でるようにかすめる。


「……黒羽さん、後は任せてもいいですか?」

「そのために来たんですよ」


 黒羽が纏った深紅の振袖の袂が揺れる。それを合図に赤い服を纏ったリコリス事務官達が部屋に踏み込んできた。彼らは何も物を言わず、テキパキと有機物と化した残骸を片付けていく。


「不殺の生き方を貫いてきた貴方が、誰よりも鋭い刃を秘めていたなんて、皮肉以外の何物でもありませんよ」


 部屋を出ようと入り口に近付いたら、穏やかな声に語りかけられた。シルクハットの下に隠された顔には皮肉な笑みが浮かんでいるのだろう。


「不殺の生き方を捨てその業に身を沈めても、貴方が手に入れられるのは過去だけだ。その過去とて、貴方の満足できるものだとは限らない。それでもなお、貴方はこの道を行くのですか?」


 その問いに、歩んでいて足が止まった。黒羽の問いは、かつて絶望に崩れ落ちた抄の前に立った遠宮龍樹が投げてきた問いと同じものだった。


 瞳を閉じて、一瞬だけ、そこに浮かぶ幻影を追う。


「……後悔なら、死ぬほどしました」


 どうしてあの子の手を離しておかなかったのかと。どうしてあの子を囲った檻の扉を開いておかなかったのかと。


 ――君との穏やかな日常が永遠に続いていくものだと、僕は錯覚していたんだ。君は、あんなにも僕に教えてくれていたのに。自分が感じた危機は、決して杞憂ではないのだと。


 あの時、どうして物言いたげにしていた彼女を振り返ることができなかったのだろう。どうして、すぐに会えると思って、すがりつく手を引き離してしまったのだろう。


「凛を失った僕には、麗璋院家の血筋しか、残ったものはありませんでした」


 汚さないでと、凛は言った。


 凛のためならこの飢えを抱えて生きてもいいと、本気で思っていた。


「その血の定めを全うするならば、過去を振り返って生きていても、許されるはずです」


 答えになっていない抄の言葉に黒羽は言葉を返してこなかった。ただ静かに体を引いて、抄に道を譲る。抄は軽く会釈すると静かに開けられた道をすり抜けた。


 ――分かっているんだ。自己満足だっていうことは。


 こんなこと、凛が望むはずがないということも。真実を知ったって意味などないということさえも。


 全て分かっていながらも、それでも抄は止まれない。


「……ごめん、凛」


 止められない。止まることなどできない。


 だってこれが、今の抄を支える、唯一のよすがだから。


 人を殺すたびに、その命を貪るたびに、抄は凛の死を言い訳にしている。それを理解していながらも、止まろうとも思えないし、走り出してしまった自分を止めることなどできはしない。


「……ごめん」


 足を止めて、あの日から何度呟いたか分からかない言葉を今日も口にする。気遣うように沈黙する使い魔の熱が重いと感じたのは、一体何回目のことなのだろう。


「ごめん」


 届ける先のない言葉は、今日も宙に溶けて消える。


 瞼の裏によみがえる幻影だけが、そんな抄の姿を見つめていた。






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