沈めた華は、 水底に在りてなお紅く
沈めた華は、 水底に在りてなお紅く
それは、胸の奥に秘めた誓い
『……知ってるぜ、予言者・
相手の名前までは知らねぇけどな、と、画面の向こうの人物は言った。
ユラユラと揺れる水底のような景色は、秒単位で切り替わるパソコンのディスプレイによって作り出される仮初めの幻影。その揺らぎが、数分前から止まっていた。
『で? 関わりのない僕の所にいきなりコンタクトを取ってきて、何の用?』
画面の向こうにいる少年は不機嫌な表情でこちらをねめつけた。
もちろん、向こう側からこちらの様子は分からない。こちらは今、彼がいる場所に一番近い防犯カメラと音声装置をジャックしてコンタクトを取っているのだから。
「
『あんたの後見は
「いえ、赤椿にはできないことです。『
沙烏の言葉に、相手が纏う雰囲気を変えた。今までどこか余裕を漂わせ、斜に構えていた態度がかき消える。
『……力ではなく権力で揉み消したい相手、ってことかよ?』
「場合によっては、力でも構いません」
国家人口管理局『リコリス』は、国家専属の殺し屋である掃除人を抱えて不用分子を抹殺する機関ではあるが、所詮国家機関の一つであるということに変わりはない。派閥争いや権力争いは、人間がいれば必ず起きることだ。
急に力を付けて地位を上げれば、嫌でもその争いに巻き込まれることは目に見えている。自身の後見がその争いの目の一つであるとなればなおさら。
『龍樹先輩も、権力争いに関しては戦う側じゃなくて巻き込まれて翻弄される側だからな。確かにアテにはできねぇだろうよ。その後見たる
これくらいの未来は予測するまでもなく視えていたことだ。
だが沙烏にそんな力はない。だというのに弱点だけは彼らと同レベルでさらされている。それなのに沙烏は、この地下の水底の部屋に囲われて、彼女の危機に飛び出していくことさえ許されない。
だから、この未来が視えた時に、すでに策は用意していた。
「
その鍵を吐息に乗せて囁いただけで、少年の表情が目に見えて強張った。
「彼女の死は、今を以って謎に包まれているそうですね」
『……テメェ、何が言いたい?』
まだ骨格さえ完成しきっていない少年の真っ赤な瞳が、射るようにこちらへ向けられる。画面越しだというのに絞め殺されそうな濃密な殺気は、リコリスの中でも有数の遣い手である遠宮龍樹に伍する物があった。
「提供できる物があります」
麗璋院の死神。
人殺しの血筋。
生まれつき殺人欲求を抱える、血濡れの貴族。
創建当初のリコリスの掃除人は、麗璋院の血筋の者が大半を占めていたという。むしろリコリスという組織は、麗璋院という古より殺しを伝えてきた一族がなければ成立しなかったとさえ言われている。
誰にも秘密にしていた、大切な幼馴染にして淡い恋の相手を、身内に、リコリスに、惨殺されるまでは。
「こちらからの依頼に関する資料は、あなたの端末にメールで送付させていただきました。受けるか受けないかの判断は御随時に。明後日までに依頼の完遂が確認できない場合、こちらが握る情報は永久に闇の中に葬り去られるということをお忘れなく」
一方的に言い切って通信を切る。最後に聞こえたのは鋭い舌打ちの音だった。
画面が暗くなり、フワリと部屋の中が闇に包まれる。パソコンの画面しか光源のない部屋は、画面が落ちると無明の闇の中へ沈んでいった。
彼が必ずこの話に喰い付くという確証が沙烏にはあった。彼は、揉み消された幼馴染の死の真相を探るために、不殺の生き方を捨て、掃除人へ身を落としたのだから。
彼の情報収集が思うように進んでいないということは知っていた。だから沙烏は『麗璋院』というリコリスにおいて絶対的な力を発揮する名を使っても掴めない情報を、独自の手法で集めていた。ハッタリではなく事実として、沙烏の手元には取引に使える情報が揃っている。それを彼に伝える手配もすでに終えていた。
遠宮龍樹における鈴見綾。
鈴見文也における鈴見
それが麗璋院
「……『どんなに離れていても、必ずお前を迎えに行く。だから…待ってろ』、か」
闇の中に、ふとかつての記憶が浮かんだ。この地下へ沈む前の、穏やかな日々のひとコマが。
タイトルは忘れてしまったが、一緒に古い映画を見ていた時のことだと思う。テレビの再放送をたまたま見ていたのか、DVDを借りてきていたのかも曖昧なぼやけた記憶。だがその中に、幼馴染の声だけは鮮明に焼き付いていた。
「……もう、迎えには、行けないけど」
いいなぁ、こんなセリフ言われてみたいなぁ、と無邪気に言った彼女に、自分は何と答えたのか。
「必ず、守るよ」
どんな手を使おうとも、どれだけ自分の策略で周囲が血を流そうとも、君に笑顔で生きていてほしい。つまらない自分の周囲のいさかいに、君の命を傷付けさせなどしない。
ただ君が、生きていてくれるならば。
自分がこの地下の闇の中に、溶けて消えてもいい。
「忘れていて。待たないで。俺はもう、迎えに行けないから」
彼女の名を呼ぶことさえ封じて、今日も胸の奥にある誓いを新たにする。
その誓いが終わると同時に、指先はパソコンの画面を通常に戻していた。一瞬だけ他の画面に映し出された自分の顔は、取引があったことも、沙烏を追い詰めるべく今この瞬間も
「さて、赤い華を咲かせよう」
遠宮龍樹における鈴見綾。
鈴見文也における鈴見春日。
麗璋院抄における清涼院凛。
その関係を、自分に置き換えるならば。
「……」
思考を凍結させ、キーボードに指を這わせる。
再び揺れ動く水底は、冷たい沈黙に満たされていた。
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